忙殺された年
永禄一一年(西暦一五六八年)長月(旧暦九月)、一時的に宇都宮城に戻った又二郎は、正室である桜乃方、深雪乃方、そして側室となった彦乃方を呼び、織田家から市姫が側室として来ることを説明した。戦国時代ということを考えれば、いちいち説明をする必要はないのだが、又二郎は家族に関しては、現代人的な感覚を持っていた。
(女が一番嫌がるのは「秘密にされること」だからな。前世でも、飲み屋に行くときは前もって教えてくれって言われていた。男ってのは、しょうもない生き物なんだ。その辺は女も解ってくれている。女房に遊びを認めさせるのも男の器量ってやつだ)
「それでは、織田家とはこれにて盟となり、日ノ本は東西にて治まり、天下安寧へ……となるわけでございますか? 御前様は、それで満足なのですか?」
「満足すると思うか? この宇曽利の怪物が? こんなものは一時的な不戦よ。数年で瓦解し、日ノ本は戦国に戻る。そして織田との決戦を経て、新田は畿内へと乗り出す」
桜乃方の確認に、又二郎は即座に否と返答した。桜乃方にとっては、それだけで十分であった。こんな中途半端なやり方で、天下統一の約束を守ったなどとは言わせない。蝦夷から薩摩まで、日ノ本の土地すべてを新田領とするまで、天下統一の道は終わらないのだ。
「それで、織田殿の姫君はどのような方なのですか? 側室となると、私も知っておきたく存じます」
新田家の奥では、深雪乃方が側室を管理している。監督者として、新たな側室を知っておきたいのは当然であろう。又二郎は調べた範囲での情報を出した。
「織田家中では三国一の美貌と呼ばれているらしい。尾張においては、その美貌を知らぬ者はいないそうだ。人柄としては、普段は奥ゆかしいが、兄である信長殿にも反抗するほど、気丈な部分もあるらしい」
(嫁いだ浅井家が滅び、再婚先の柴田家も滅び、長女の茶々が側室になった豊臣家も滅んだ。戦国一の「さげまん」なんて呼ばれていたが、馬鹿げたことを。女を「あげまん」にするのも「さげまん」にするのも、男次第だろうが。女のせいにしているようだから、稼げねぇんだよ)
浅井が滅んだのは、当主であった浅井長政が無能だったからだ。会社に社長は二人もいらない。隠居したくせに口を挟んでくる父親など、さっさと殺すか追い出すかをすればよかったのだ。柴田勝家が滅んだのは、織田家中への根回し競争で、秀吉に負けたからだ。豊臣が滅んだのは、秀吉が茶々を乗りこなせなかったからだ。すべては選択の結果であり、男の器量次第である。運というものを認めない又二郎は、本気でそう考えていた。
(戦国一の美女。悪評もろとも、俺が喰らってやるよ)
「御前様、鼻の下が伸びておりますよ?」
チクリと太腿を抓られた。
宇都宮城に戻った理由は、妻たちに許可を得るためだけではない。子が生まれて三月、桜も深雪も十分に回復していた。そのため家族もろとも春日山城に居を移すことにした。
「本当なら直江津に屋敷を構えたかったが、人の出入りが多すぎる。春日山の麓に、武家屋敷街を整備し、そこに俺も住むことにする。直江津の港から大街道を整備し、武家屋敷にも幾つも商店を置くつもりだ」
又二郎が妻たちにこう語る理由は、桜も深雪も転居を嫌がったためである。理由は那須と日光にある。いずれも温泉があり、又二郎が積極的な「観光都市化」を進めようとしていたからだ。新田家随一の温泉通である田名部吉右衛門は、温泉街の整備を行うとともに九十九衆の拠点を設置し、遊郭などの経営を任せていた。
ただ湯に入るだけではなく、足湯、蒸し湯、打たせ湯など様々な楽しみ方があり、また「温泉卵」「蒸し饅頭」など食べ物もある。戦国時代において娯楽は希少であったため、二人の嫁は新田家重臣の妻たちと、こうした温泉巡りをしていたのである。
「私たちの気を惹きたいのであれば、温泉をお探しなさいませ。この三国街道沿いにも、温泉があると聞きますが?」
「簡単に言ってくれる。だが三国街道は関東と越後を結ぶ重要な街道だ。上杉謙信も、この街道沿いで温泉に入っていたと聞く。途中で探してみよう」
馬車から顔を出した桜に、馬に乗って横を進む又二郎は笑って返した。三国街道は現在においても、関東から新潟県に向かうための重要な街道である。この街道をさらに発展させるには、大工事を行う必要がある。すなわち、上杉謙信をして「越山」と言わしめた難所、三国峠をどのように整備するかである。隧道を通すことが一番だが、戦国時代の技術では難工事とならざるを得ない。ならば中禅寺湖の「いろは坂」のようにするしかないだろう。三国峠は男体山の半分程度の標高なので、不可能ではないはずだ。
「潔斎浴場(※中世以前の大衆用蒸し風呂)の整備もそうだが、それ以上に湯屋(※江戸時代に入ってから登場)を確立させたいな。炭薪の量産体制を整え、一定以上の家では、湯殿を持つことが当たり前のようにしたい。ウバメガシの栽培が必要だな。北条にやらせてみるか……」
又二郎にとって、内政を考えている時が一番楽しい時である。妻二人もそれを承知しているのか、それ以上は又二郎に語り掛けず、山々の紅葉を楽しんだ。
市姫を側室に迎える上で、詰めなければならないことは幾つもあった。そのすべてを春日山城で合意するわけにはいかない。浪岡弾正大弼具運以下、新田家の外政官たちが都に入り、織田家のみならず朝廷、幕府、そして石山本願寺とも話し合いが行われることになった。
「本願寺との話し合いを待つ必要はありませぬ。加賀の一向門徒は、本願寺から破門されています。加賀までは攻めることができるでしょう。ただ、朝倉は昨年、加賀と和睦をしています。そこで、先に朝倉に使者を出し、加賀は新田に任せ、九頭竜川にて国境とし、三國湊は自由湊とし、相互の交易を盛んにする旨を伝えましょう。朝倉は名門の家柄。なればこそ、ここで欲を出すようなことはしないはずです」
「ただ、いくら破門にしたからといって、本願寺としては加賀、越中の門徒たち見捨てることは忍びないはず。おそらく、織田との不戦を機に、和睦を仲介する使者が来るはずです」
「フンッ、話にならんな。和睦の条件は、加賀から越中のすべての一向門徒の国外追放だ。石山本願寺が全門徒を受け入れることが条件だ。老人から赤子まで、すべてだ。その上で、加賀と越中は新田が領する。それ以外は認めぬ」
「能登の畠山はいかがしましょうか? 一昨年、畠山義続、義綱を追放した重臣らによって、畠山次郎が傀儡の当主となっておりまする。今年元服し、義慶と名を改めたとか」
能登畠山氏は戦国時代中期、第七代当主の畠山修理太夫義総の代で最盛期を迎えるが、その後は急速に力を衰えさせる。義総は傑出した内政力と指導力によって、畠山七人衆という癖のある家臣たちを掌握し、能登の開発に尽力した。戦乱を逃れて下向した公家や連歌師などの文化人を保護し、七尾湾と富山湾を利用した流通網を整備し発展させ、領内の金山開発などを行った。その結果、七尾城下町は「小京都」と呼ばれるほどに発展した。
(津軽で言うところの、浪岡弾正大弼具永のような人物なんだよな。その死後は次男の義続が当主となるが、父親のような指導力が発揮できず、畠山七人衆の手によって、息子もろとも追放されてしまった。畠山は能登守護の家柄でもあったのだから、余程の愚物でない限り、七人衆も支えたと思うんだがなぁ)
「新田はすでに、奥州畠山家である二本松氏を滅ぼしている。畠山尾州家は、紀伊で未だに健在だが、幾代も前に分かれた能登畠山家など、他人も同然であろう。滅ぼしたところでなんの憂いもあるまい。越中、能登、加賀のすべてを新田の旗で染め上げる」
とはいっても、既に今年は既に神無月に入っており、春日山城がある北越では、間もなく雪が降り始める。この一年間は、とにかく関東から信濃にかけての国造りに忙殺され、あっという間に過ぎてしまった。