王法為本
手入れこそしているが、華美とは程遠い恰好をした僧侶が、直江景綱と共に春日山城を訪れたのは、先ぶれから二日後のことであった。新田領下ではなく他国の、それも緊張関係にある勢力の有力者となれば、評定間で会うわけにもいかない。又二郎は客間にて、勝興寺住職の顕栄と対面することにした。
「真宗勝興寺住職、顕栄でございます。この度はお目通りを頂きまして、恐悦至極に存じます」
「俺が、新田陸奥守又二郎である。遠路、よく来られた。真宗の僧とは、一度話をしたいと思っていた。真宗のみならず、他の仏教教団、さらには南蛮からもたらされた新たな宗教まで、宗教とどのように向き合うか。今は暫定的な措置をしているが、天下統一後には改めて、法としてまとめる方針だ」
「我ら浄土真宗、ならびに越前、加賀、越中に広がる門徒たちも、新田様と争いたいわけではありません。私たちが求めるものはただ一つ。誰に強制されることもなく、自由な信仰と活動でございます。それをお認めいただけるのであれば、我らは決して、新田様に刃を向けることはありません」
部屋の端のほうに控えて、又二郎と顕栄の話を聞いていた直江景綱は、内心で安堵した。新田領内では信仰の自由を認めている。真言宗であろうと曹洞宗であろうと法華宗であろうと、何を信仰するかは人それぞれで選べる。故に、他者の選択に徒に口をはさんではならない。浄土真宗がそれを求めるのであれば、すぐにでも認められるだろう。そう思っていた。
「ん? 御坊は、真宗の僧侶としてここに来たと思っていたが、僧侶が何故、政事を口にする? 世の姿を描き、民にどう生きて欲しいかを考え、法としてまとめ上げる。だがこれは、為政者の仕事であって坊主がやることではない。今、貴殿はどのような立場で、俺の前に座っている? 悟りを得るべく、仏の道を修行する僧侶としてか? それとも一揆という暴力行為によって、西越中に勢力を広げる一向門徒の代表者としてか?」
「陸奥守様のお考えと、拙僧の意見は違うようです。確かに、御武家である新田様の御領地ではそうでしょうが、西越中では武家ではなく、拙僧らが政事を行っております。拙僧は坊主であり、門徒たちの代表者でもあります」
「なるほど」
又二郎は納得したように頷いた。坊主が政事に口出しをするなというのは、又二郎の見解であり、新田領内の法である。領外の者にまで、それを押しつけることはできない。それがたとえ、東日本を治める大新田家の当主であったとしてもだ。
「それで、御坊が求めるのは、自由な信仰と活動と言っていたな? それは具体的にどういうことだ?」
「簡単に申し上げれば、我らの活動に口を挟まないということでございます。我らは極楽往生を目指し、阿弥陀仏に一心不乱に手を合わせておりまする。元々、越中国の守護であった富樫加賀介様は、加賀を追われた後に本願寺の支援を受け、加賀守護の地位を得たのです。しかし守護となった後は、我らを疎ましく思うようになり、ついては領外に追い出し始めました。我らはやむなく蜂起し、高尾城を攻めたのでございます。それから一〇〇年、加賀から西越中に掛けては、我らは弾圧されることもなく、阿弥陀仏の信仰に生きることができたのです」
「百姓の持ちたる国か……」
又二郎は頷いた。現代人の多くは、一向一揆とは宗教に狂った「反権力活動家」が、暴力を肯定するテロ行為によって、織田信長や上杉謙信といった権力者と戦ったというイメージを持つかも知れないが、戦国時代という背景を考えると、そのような「権力対反権力」といった単純な構造ではないことが見えてくる。
当時の寺社勢力は、寺領とそこに住む民という収入源と、僧兵という独自の武力を持つ巨大勢力であった。だが、特権階級であった比叡山のように、すべての寺社が、酒色に堕落していたというわけではない。むしろ中央政権と結びついて特権に胡座していた比叡山は、例外的な存在である。石山本願寺や長島一向一揆を起こした願証寺などは、王法為本という考え方を基本としていた。
王法為本とは、浄土真宗の蓮如が唱えた考え方で、世を出離した世界(出家した者)では仏法が基本だが、世俗の社会では王道(為政者が定めた法)が基本であり、世俗で生きる在家信者は王道を守らなければならない、という考え方である。織田信長によって政教分離が成されたと考えている現代人が多いが、実際には浄土真宗側にも、政教分離の考え方が存在していたのである。
「もし本当に、浄土真宗が王法為本を地でいくのであれば、新田としても受け入れることができる。だがその場合は、すべての寺領を差し出し、僧兵を解体してもらうことになる。そもそも政事も軍事も、王法の中に存在するものであろう。民は、個人の内面においては仏法でも構わぬが、世俗の中で生きるという行動においては、王法を守ってもらう」
直江景綱は緊張した。正に此処こそが肝心なところである。新田は権力を集中させている。権力とは、法を定め、それを皆に守らせる力である。そのために軍事という実効力が存在している。かつては守護職や国人領主が、その実効力を持っていた。武士の登場と同時期に、寺領を持つ寺社勢力も僧兵を整え、寺領統治を始めた。
しかし応仁の乱以降の戦国の世において、こうした実効力は同時に、他国を侵略する力になった。そして戦国大名が生まれる。戦国大名は分国法による領地統制のために、自分以外の実効力の存在を認めない。これは新田家だけではなく、上杉家でもそうだし、北条家においても一向衆を禁教とした。「大名の下に領地はまとまるべし」という考え方故である。
はたして寺社は、寺領と僧兵を解体できるのか? 真に王法為本を守るのであるならば、できないことはないはずだ。寺領を手放すかわりに、その土地を治める大名から庇護を受ける。これにより、僧侶は仏門の本道を歩むことができる。だが僧侶もまた人間なのだ。そう簡単に話が進むはずがない。
「申し訳ございませぬ。今の世に、王法があるのでしょうか? 新田様の治め方が悪いとは申しませぬ。しかしながら、我らは幾度か、王法に裏切られて参りました。世に王法在らず、然らば仏法において世を治むる可し。そう考える者も多く、叶いますれば西越中から加賀に掛けては、我らにお任せをいただきたく存じまする」
「ならぬ」
顕栄の願い出を、又二郎は一刀両断で拒否した。
「そもそも、世に王法在らずと判断すること自体が、政事の範疇ではないか。坊主如きが烏滸がましいにも程がある。仏の教えのどこに、田畑の耕し方が書かれている? 街道整備、治安維持、産業振興、立法と裁判。いずれも仏の教えとは何の関係もないことだ。西越中も加賀も、その土地はすべて新田が統治する。坊主たちは各々寺の中で、南無阿弥陀仏と唱えておれば良いのだ」
「一〇〇年もの間、百姓の持ちたる国を続けて参りました。仏の教えの下で、民たちは安寧に暮らしているのです。その安寧を新田様の都合で壊すと仰るのですか」
「安寧? 笑わせるな。一〇〇年の間、安寧など無かったであろうが。寺社勢力があろうことか一国を切り取り、勝手に治める。室町幕府も周辺諸国も、それを認めるはずがない。故に永正三年において九頭竜川の戦が起きた。守護であった富樫に裏切られ、一揆を起こしたことは、やむを得なかったと認めることもできる。だがそれに成功した後は、宗門を弾圧せず認めてくれる守護を派遣してくれと、幕府に訴えるべきだったのだ。貴様らは仏法の枠をはみ出し、王法へと踏み入れた。ならば王法のやり方で、相対してくれる。一月の間に決めよ。寺領を明け渡し、僧兵を解体し、仏門へと戻るか。それとも世を乱す賊徒として新田に討たれるか。皆で話し合い、決めるが良い」
「拙僧としては、新田様のお言葉も理解はできまする。されど拙僧らもまた人なのです。お認めいただけるならば、加賀における軍の通過は御自由にしていただいて構いませぬ。矢銭も納めまする。それでも駄目なのでしょうか」
顕栄の懇願に、又二郎は深い溜息をついた。そして、そういう事ではないのだと返した。
「矢銭などもともと求めておらぬ。通過の自由や矢銭などを考えること自体が、仏法から外れていると言っておるのだ。僧とは本来、仏門に入り仏の道を修行する者であろう? そこに戻れと俺は言っているのだ。僧とて人間だ。食べるために銭も必要であろう。不自由がないよう、新田が庇護する。だから政事から離れろと言っている。それが理解できぬのか?」
「理解はできまする。されど今更、戻ることはできませぬ。仰せの通りこの一〇〇年、我らは信仰のために幾度か血を流しました。それを否定することはできませぬ。御先祖に、なにより亡くなった信徒たちに、申し訳が立ちませぬ」
「そうか。ならば是非に及ばず。今この時より、西越中から加賀は、賊徒に支配された無統治地帯と定める。世に無法在ればそれを正し、世が無法ならば其処に法を定める。新田はこれから全軍をもって、西越中へと侵攻する。御坊は今すぐ戻り、戦支度を始められよ」
「この場で、拙僧をお討ちにならぬのですか?」
又二郎は立ち上がり、護衛を付けて領外まで送るよう、直江景綱に命じた。そして顕栄に言い残す。
「最後まで言葉を交わすことができた。一向宗の中にも、話のできる坊主がいることを知った。故に、この場で殺すことはせぬ。だが、戦場で相対したときは容赦せぬ。生きたければ、勝興寺から出られるな」
「……一〇〇年前、貴方様が加賀守護で在られたなら、拙僧がこの場に居る必要など無かったでしょう」
部屋から出ていく又二郎の後ろ姿に、顕栄は両手を合わせて一礼した。