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信長の苦悩

 桜乃方に続いて、深雪乃方にも子が生まれた。これも男子であった。蠣崎家では代々、嫡男には「彦太郎」を名乗らせている。これは現在の嫡男である蠣崎宮内政広が使えばよい。たとえ母が違えども、新田家の三男である。又二郎は、松四郎と名付けた。

「松」は、新田家で使われる幼名の一文字であり、四郎は四人目の子供だからである。嫡男のみを新田家の正当な幼名である「吉松」と名付け、他と分ける。その一方で、母は違えど扱いは同じという意味で、松四郎としたのだ。


「済まぬな、深雪。一緒にいてやりたいのだが、天下がそれを許してくれぬ。越後に先に行っている故、落ち着き次第、其方も桜も招くつもりだ」


「はい。御前様、御武運を……」


 甲冑姿の又二郎は、生まれたばかりの赤子の顔を見て、すぐに出陣した。宇都宮城から唐沢山を通り、上州から越後に入る。行軍で使う街道の整備はひとまずは終えていたため、行軍速度はかなり速い。


「春日山城に着き次第、瑞泉寺に最後通牒を出す。寺領を差し出し、新田の法に従う限り、信仰と布教の自由は認める。寺社の保護は、新田が責任をもって行うとな。奥州ではそれで上手くいっているのだ。浄土真宗だからとて、上手くいかぬはずがない」


「されど、現実としては難しゅうございます。悪人正機の教えは、本来は己の弱さと向き合うことの大切さを説いたものと聞きますが、それを曲解して、悪事が許されると考えている者も多くいます」


「他力本願の教えですか。修行によって悟りを得て成仏をするのではなく、阿弥陀仏の本願に頼って成仏するという考え方ですな。本願とは本来、一個人の成仏ではなく、すべての人を成仏させることを指すそうです。南無阿弥陀仏と唱えれば、自分は極楽浄土に行ける、などと考えている者は、完全に理解不足ですな」


 南条広継と八柏道為の言葉に、又二郎は鼻で笑った。人間とはそういうものだ。辛い現実から目を背け、物事を己に都合よく解釈し、楽な道を選ぶ。そしていよいよ切羽詰まったときは、恥ずかしげもなく他人のせいにする。現代においても、財政破綻を避けようとする自治体と、行政サービスが低下するからと反対する市民とが衝突し、結果として手遅れとなり破綻した自治体がある。そして反対をしていた住民は恥ずかしげもなく、なぜこうなるまで放っておいたのだと叫ぶのだ。


(阿呆は今も昔も変わらぬ。だから教育が必要なのだ。教育を通じて民の素養を引き上げる。それでも、救いようのない馬鹿というのは、一定数は出るだろうがな)


 やがて春日山城が見えてきた。名前の通り、春日山全体をつかって建てられた山城である。それを見て、又二郎は微かに眉を顰めた。弓と槍だけの戦であれば、確かに難攻不落だろう。だが火器の登場により拠点防衛の在り方は大きく変わった。史実においても、大阪の陣ではカルバリン砲やカノン砲が使用されている。これまでの山城など、ほとんど意味を為さなくなる。


(直江津に屋敷を用意して、行政府にしよう。あんな山に登山させられる家臣たちの身にもなってみろ。天下を獲ったら、大半の城は破却だな。城なんぞ、観光資源として五、六箇所に残せば十分だろ。維持費も馬鹿にならん。カネの無駄だ)

 そう考えつつも、春日山城から見える日本海の眺めに、この城は残しても良いかなと考える又二郎であった。





「市を新田陸奥守の側室に出す」


 二条城の改修を終え、都の治安を回復させた織田信長は、岐阜城に戻り、そして対新田の外交方針を発表した。それを聞いて顔色を変えたのが、家老の柴田権六郎勝家と、正式に侍大将となった木下藤吉郎秀吉である。


「お、お市様を新田に?」


「お、御屋形様! それだけは! どうかそれだけは!」


「喧しい! 市とて戦国の女。覚悟はしておる。それに陸奥守は市と同い年だ。釣り合いは取れる」


「さ、されど……」


 信長はギロリと両名を一睨みして黙らせたが、それ以上は言葉を続けなかった。織田家の宿将である柴田勝家。そして新時代を目指す織田家を象徴するかのような出世頭の木下秀吉。この両名が自分の妹に懸想しているのは、以前から知っていた。妹は二〇を過ぎ、行き遅れの状態である。この両名のどちらかに与えるというのも、信長の中には腹案としてあった。


「一〇年とは言わぬ。五年でよい。五年、新田を止める。そのためならば、妹とて差し出す」


 信長の声が微かに震えていた。己の不甲斐なさへの怒りのためである。早くから、天下統一への夢はあった。織田家を束ねるため、実弟を殺さざるを得なかった。その結果、母親は自分を避けるようになった。

そして今度は妹である。いずれ間違いなく敵になる男に、たった五年間の時を稼ぐために、大事な妹を差し出すのだ。信長は、自分を殴り飛ばしたい気持ちを懸命に抑えていた。


「……新田家への使者役、某にお与えくだされ。最大限、時を稼ぎまする」


 木下藤吉郎の自推に、信長は頷いて奥へと下がった。普段は反りの合わない勝家と秀吉だが、この時ばかりは同じ気持であった。一日でも早く、西へと進み織田家の力を高める。そして新田と決戦し、勝利し、姫を取り戻す。両名は己が心にそう誓った。





木曽義康を従属させた織田家は、現在は新田家とは衝突はしていない。だが微妙な緊張状態は残っている。徳川家康が領する遠江、そして東濃の要である岩村城が、それぞれ新田の勢力に隣接している。

 ただ岩村城は、現状は新田に従属した武田に隣接しているため、此方から仕掛けない限りは即開戦とはならないだろう。一方で、遠江は新田の直轄領となった駿府と隣り合っており、東海道という軍事進攻に適した道まである。


「新田はおそらく、越中から加賀、そして越前へ進もうとするだろう。だが北条と武田を従属させている以上、両家を使って徳川を攻めないとも限らぬ。新田に備える必要が無くなった北条、武田ならば、併せて三万は用意できるだろう。三万で攻められれば、家康とて窮しよう。時を稼ぐには、市を渡すしかない。クソッ……」


 奥に入った信長は、正室の「濃乃方」に膝枕をさせていた。近習の者たちも、すべて退けている。信長にとって、愚痴を溢せる数少ない相手が、妻であった。濃乃方はハイハイと言いつつも、斎藤道三譲りの怜悧な頭脳で、新田家と織田家を比較していた。今の織田家は、確かに新田家より小さい。だが新田家を上回っているものもある。それは京の都を押さえていることだ。


「市殿を新田に遣わすとなると、日ノ本は西と東で分かれることになりますね。両家が均衡を保てば、それで天下は平穏になるのではありませんか?」


「フンッ、戯けたことを。なるか」


 両家の当主同士の気質という問題ではない。現実的に、東西で分割統治など不可能であった。武士だけではなく、公家勢力、寺社勢力、そして商人の活動など、鎌倉から室町にかけて、日ノ本全土に及んでいる。まして新田家と織田家とでは、武家の扱い方が全く違う。不戦の盟約を結んだとしても、せいぜい数年が限度であろう。


「ホホホッ、そうでしょうね。ですが、そう考える者も多いのでは? 特に、高貴な方々などは……」


「朝廷を動かせというのか? それは儂も考えた。だが新田が呑むか?」


 大和朝廷を動かし、勅命をもって新田を停止させる。勅命を出させることはできるだろう。だがそれを新田又二郎が呑むかは別である。自分であったら絶対に呑まない。それどころか、天下の政事に口出しするなと、怒りすら見せるだろう。朝廷は日ノ本の象徴として、権威だけを担えば良い。この国はそうやって、歴史を紡いできたのだ。


「普通であれば呑まないでしょうね。ですが、これが祝言という祝い事であれば別でしょう」


「市に箔をつけるというわけか」


 信長は考える表情となった。市姫を新田又二郎の側室にする。この案には決定的な欠陥があった。それは、新田家にとっては何の利益もないということだ。兄の目から見ても、妹は傾城の美女であろうが、それで新田又二郎が篭絡されるとは思えなかった。いや、それ以前にこの話を持ち掛けた段階で、断られる可能性が高い。


「大樹(将軍足利義昭のこと)が、新たな関白として二条家を推している。市を二条家の養女として出し、その上で主上の祝いをもって新田に送り出す。となれば新田とて、断りようがあるまい」


「先に手を打ってしまったほうが宜しいでしょう。たとえば、大樹にお力添えをいたただくとか?」


 市姫を迎えるならばその祝儀として、室町幕府が出した「新田討伐令」を取り下げる。また、新田が広げている蝦夷地などの北の領地を新田領とすることを幕府の名で認める。箔が欲しければ、奥州探題だろうが関東管領だろうが追加してやる。ありとあらゆる手段で、新田を止めねばならない。

 信長はガバッと起き上がると、大声で叫んだ


(あた)う者のみ後に続け!」


 信長はほとんど単身で岐阜城を飛び出し、京へと馬を飛ばした。


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― 新着の感想 ―
[一言] 秀吉の幹部扱いは早いのではないかと思ったら墨俣一夜城がこのころなんですね。なるほど。
[良い点] 例えば信玄・謙信連合とかドラマティックなロマン優先で、アレって思う無理な展開も多いけど面白い。お市っちゃんの件は、かなり匂わせていたし、史実でも武田の松姫の件があったから、信長が東の抑えを…
[一言] この時代の朝廷は最も権威も権力も低下している。主人公は調停を活かすようだが、唯々諾々と朝廷の意向に沿う必要がない気がする。どうせ主人公が京を制すれば、朝廷の方が主人公の意向に沿うようになる。…
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