親と子
永禄一〇年(西暦一五六七年)如月(旧暦二月)、又二郎の正室である桜乃方が出産した。長男に続き、次男が誕生したことに、旧南部家の者たちは大いに沸いた。いずれ、この次男が南部家を再興する。石川左衛門尉以下、皆がそう信じている。
「名は、彦三郎としよう。亡き南部右馬助(※南部晴政)殿の幼名だ。南部家は、いずれ再興せねばならぬ。情ではではないぞ。そうせねば、天下が治まらぬからだ」
(石川左衛門尉は動かせぬ。傅役は、毛馬内秀範にしようか。晴政の叔父だが、まだ四〇代だから、長く務められるだろう。だがそれ以上に、まずは吉松の傅役を決めねばならぬ。桜と相談だな)
桜乃方は、大役を果たしたことで安心したのか、疲れた表情のまま眠っている。又二郎は起こさないよう注意しながら、赤子の顔をジッと眺めていた。
(お前の祖父は、生まれた場所が違えば、天下を狙えるほどの人物だった。もし兄の吉松に、天下人の器なしと思ったなら、遠慮なく取って代わるがいい。能力無き者が権力を握れば、ロクな世にならんからな)
子育ては難しい。「のびのび育てる」の多くは、ただの放ったらかしに過ぎない。かといって、構い過ぎてもいけない。親の目を気にするばかりの子供になるからだ。
結局、子育てとは「親が、親としての信念を貫くこと」に尽きる。首尾一貫し、善と悪、真と偽の基準を持ち、ブラさないことだ。子供に対しても、自分に対してもである。
「父上ぇ」
長男の吉松が入ってきた。又二郎が視線を向けると、ピタリと止まる。長男にとって、どうやら父親は怖い存在らしい。人の顔色を窺うような人間には、なって欲しくない。吉松は今年で五歳になる。まだまだこれからだ。長男にこそ、傅役を付けねばならないだろう。
「入りなさい。そして弟の顔を見なさい」
自分の横に座り、そして彦三郎の顔を見る。吉松の頭に手を起き、言い聞かせる。
「お前の弟、彦三郎だ。お前が守り、そして背中を見せてやるのだ。男とはこのように成長するのだとな」
「はい」
(素直すぎるな…… 俺なら「見たいのなら、見せてやる」くらい言い返してしまうが。いや、それは俺が怪物だからか。臍曲がりと癇癪持ちは、能力が伴わなければ、ただの愚者になってしまう。俺が天下を統一する。吉松はその後を継ぐ。ならば真っ直ぐに育てるべきか。その上で、幾度か試練を与えれば、逞しくもなるだろう)
関東がひとまずは落ち着き、又二郎はようやく、家庭に目を向ける余裕を持つことができた。
「吉松の傅役だが、吉右衛門にしようかと思う」
翌日、まだ横になっている桜乃方の枕元で、又二郎は嫡男の傅役について、自分の意見を述べた。産後の肥立ちをよくするには、炭水化物と低脂質のタンパク質、鉄分が入った食事が良い。又二郎は自ら包丁を手にして、鶏肉とレバーのツミレ汁を作った。柔らかく炊いた米を入れれば、雑炊にもなる。匙で手ずから、妻の口元に運ぶ。長男と長女が、その様子をジッと見ていた。
「良いと思います。吉右衛門殿は、御家にとって唯一の譜代。まだ三〇〇〇石だった頃からの新田家の宿老ならば、安心して吉松を任せられます。ただ、あまり戦はお得意ではないと聞きますが?」
「それは考えてある。吉右衛門は清廉にして高潔な男だ。部下の育て方も上手い。だが吉松は、日ノ本の宰相であると同時に、新田の頭領とならねばならん。清い水ばかりでは、弱い男になりかねん。そこで、武の鍛錬には長門藤六、そして滝本重行を当てようと思う」
滝本重行は、派手好きでへそ曲がりであり、悪童がそのまま大人になったような男だが、人の面倒見は良く、兵からも慕われている。反骨心のある男とはどのような姿かを見せるのに、ちょうど良いだろう。
「吉松は新田の嫡男であり、俺の後に天下人となる。その頃には、日ノ本は纏まっていようが、その後は日本国として、明や朝鮮、南蛮の諸国と外交交渉をもって立ち向かわねばならん。殴られたら殴り返す。いざとなったら相手を斬る。この覚悟を持たずして、国を治めることはできぬ」
「宇曽利の怪物殿も、やはり人なのですね。ちゃんと吉松のことを考えてくださって……」
「あぁ、もう休め。吉松、瑠璃、母上を休ませてあげなさい」
桜の頭を撫で、又二郎は立ち上がった。
幸いなことに、桜乃方は順調に回復していた。如月も末になると、宇都宮城では桜が舞うようになる。新田家嫡男の吉松には、宿老の田名部吉右衛門政嘉が、傅役として当てられることが正式に決まった。文官の筆頭として、新田の内政を一手に握る重臣であるため、本来なら多忙を極めているはずだが、幸いなことに吉右衛門の長男である彦左衛門政孝は、商人の感覚から交易や産業振興において辣腕を振るっており、吉右衛門の政務を支えていた。
「若君。身体を動かすことも大切ですが、読み書きと算術はもっと大切なことです。読み書きができないということは、昨日という過去を振り返ることができないということです。算術ができないということは、これからどうなるという、未来を考えることができないということです。若君に、そのようになっていただきたくありません。この吉右衛門がしっかりと、お教えいたします」
「うん」
新田家で使われている貸借対照表などは、本来は吉松が吉右衛門に教えたものであるが、今では新田家の家臣全員が必須で学ぶようになっている。金の計算ができないのに、軍を率いて戦えるはずがないからだ。今では吉右衛門は、新田家における算術の第一人者になっていた。
無論、吉松の教育はそれだけではない。田名部吉右衛門に続いて、長門藤六が吉松の「第二の傅役」となった。大将としての在り方を教えるためである。そして武芸においては
「いやぁ、あの怪物様から、こんな可愛らしい童が生まれるなんてなぁ」
滝本重行は笑いながら吉松を見下ろした。
「怪物様? 父上のこと?」
「あぁ、そうだ。お前の親父さんは、宇曽利の怪物って呼ばれてんだ。だが、そんな怪物様にも、実は苦手なモンがある。それがこれだ!」
そう言って、朱槍を構えて見せた。
「殿様はべらぼうに頭が切れるし、先々も見通している。まさに怪物だが、もし一対一で槍勝負したら、間違いなく俺が勝つ! 何しろ俺は天下の武辺者、滝本重行様だからな!」
そう言われ、吉松は少し眉を顰めた。少し近寄り難く、怖い父親だと思っていたのに、目の前の男は自分のほうが強いと、平然と笑っている。父親を馬鹿にされたような気がした。
「父上は弱いのか?」
「あー、そりゃ違うな。強ぇよ。お前の親父さんは、日ノ本で一番強ぇ。強さってのは、弓や槍だけってことじゃねぇ。いや、俺も昔はそう思ってたんだが、お前の親父さんは、俺みたいな男を何万と集めて、動かすことができる。親父さんのために命を懸けていいって男が何万といるんだ。とてもじゃねぇが、俺にゃぁできねぇ。だから、殿様は怪物なんだよ」
だが吉松には難しかったらしく、首を傾げるだけであった。
「今はいい。そのうち解るようになる。お前は、男に惚れられる男になれ」
そう言って、大武辺者は吉松の頭を撫でた。
傅役が付いたことで、吉松は又二郎の手から離れた。家庭を顧みないわけではないが、全力で駆け続けてもなお、届くかどうかというのが天下である。又二郎の脳裏は、すでに次の戦を描き始めていた。
「弥生(旧暦三月)に入りましたら軍を動かし、越後と越中に進みます。特に越中においては、西部の砺波にある瑞泉寺を中心に、一向門徒が活発に動いており、斎藤下野守殿も悩まされていたようです」
宇都宮城では、又二郎を中心に謀臣たちが集まり、次の戦を描き始めていた。狙いは越中国から能登、加賀、そして越前に入り、朽木谷を通じて一気に京を目指すという道である。敦賀まで獲れば、琵琶湖の西を進むことで上洛は可能になるし、織田と対立したとしても、敦賀疋壇城を押さえておけば、信越からの道で主導権を失うことはない。
「一向門徒か…… 死んだら極楽浄土に行けるとか教えているらしいな。ちょうどよい。皆殺しにしてしまえ。そして極楽浄土に送ってやるのだ。大いに喜ばれるだろう」
「殿、御冗談では……・」
武田守信は途中で言葉を失った。又二郎の目は、どこまでも本気であったからだ。南条広継は咳払いをして、代案を示した。
「棄教した者たちは、生かしては如何でしょうか。無論、それまの非道は赦されるものではありません。ただ、街道整備や治水工事には、人では幾らあっても良いものです。数年間の労役をもって赦免とするとしては、如何でしょう」
「棄教なぁ……・ そんな殊勝な奴は、とうに加賀越中から出ていると思うがな。道為はどう思う?」
「南条殿の策は一考には値すると存じます。少なくとも最初から皆殺しとするよりは、朝廷への聞こえも良いかと存じます。ですが殿のお考え通り、大半は殺すか、あるいは越前に追い立てることになるでしょう」
「ですが、門徒の中には女子供までいると聞きまする。それを殺すというのは、さすがに忍びなく存じます。子供などは、自分が何を信仰しているのかさえ、知らないのです。それに一方的な虐殺は、兵たちにも悪い影響を与えるでしょう。生きる道を残しておくべきです」
謀臣たちの良心である武田守信は、反対の声を上げた。そして沈黙が流れる。皆、理解しているのだ。誰だって好きで人殺しをするわけではない。子供が相手であれば、なおさらである。だが放っておくわけにもいかない。一向門徒の暴動を鎮めない限り、加賀越中国に平穏など永遠に訪れないだろう。誰かが手を下すしかないのである。
「……新田陸奥守又二郎政盛の悪名をもって、一向門徒たちを皆殺しにする。俺の名で殺すのだ。史書にもそう明記する」
「殿!」
「ただし! 相手は数万といるのだ。一人残らずというのは無理だろう。まぁ、多少は逃がすこともあろうな」
武田守信の声を大声で止めた又二郎は、そっぽを向いてそう続けた。つまり現場判断で逃がすことを黙認するということである。武田守信は目を細め、そして一礼した。
話し合いの後、謀臣たちは動き出した。だが又二郎はそのまま動かなかった。誰もいない部屋の中で一人、俯いて、そして小さく息を吐いた。
「……親が強けりゃ、子は迷わねぇ」
宗教に逃げた者たちに向けた言葉か、それとも子が生まれた自分に言い聞かせてのことか。呟いた又二郎でさえ、それは解らなかった。