似たもの
信濃を落ち着かせるために、武田太郎義信、諏訪四郎勝頼、高坂源五郎昌信らが慌てて出立してから二日後、木下藤吉郎秀吉、蜂須賀小六郎正勝らが供回り数名を連れて箕輪城を訪ねてきた。又二郎は腕枕をして天井を眺めながら、沈思した。二人は織田信長の書状を漆箱に入れて持ってきたという。
(織田信長、木下藤吉郎、蜂須賀小六…… 戦国時代が好きな者なら、誰でも知っている名前だ。これまで、歴史を大きく変えてきたが、ここからは戦国時代の主役級、化け物たちが相手になる。まずは秀吉だが、ここで殺してしまうか?)
南信濃の調略は、木下藤吉郎の仕業に違いない。もっとも、調略と呼べるほどのものではない。木曾は離反したのかもしれないが、南信濃は、当面の本領安堵を認めたのである。諏訪氏の惣領である勝頼が戻れば、すぐに落ちつくだろう。
(なんのために、こんな悪戯を仕掛けた? 秀吉なら、新田が気づいていることまで、読んでいるだろう。俺の反応を見ようと思ったのか? いや、それもあるだろうが、木曾を諦めさせるためか)
木曾義康の離反、ただそれだけであったなら、認めることは難しかったかもしれない。そもそも、それは新田にではなく、武田に持って行くべき話である。信玄を失い、まだ若い義信の下に纏まろうとしている武田家としては、簡単に認めるわけにはいかないだろう。
だがこれが、南信濃一帯の騒ぎとなれば、話は別である。最終的に決めるのは武田だが、新田としても気にせざるを得ない。新田と武田の間で話し合うことになる。
その上で、木曾と織田によって引っ掛けられたと気づいた南信濃の国人衆は、従属とはいえ本領安堵を勝ち取って戻ってきた義信と勝頼をどう出迎えるか。
(新田としては、武田領が大きすぎるから、当面は従属関係として統治を任せるしかないのだが、一〇〇〇石、二〇〇〇石の国人からすれば、武田の新当主頼もしき、と思うだろうな。南信濃は安堵と共に、織田と木曾への怒りで信玄を失った衝撃など忘れてしまうだろう)
猿の掌で転がされた気分になり、思わずムカッ腹が立った。起き上がり、畳の上で胡座して一息ついた。
「とは言っても、何もできん。証拠がないし、武田には美濃を攻める力はない。抗議しつつも、黙認するしかないだろう。そのあたりを着地にするか……」
又二郎は立ち上がった。気持ちを切り替え、一人の戦国時代好きの男になる。果たして本物の木下藤吉郎秀吉は、どんな顔をしているのだろうか。
大広間で主君が来るまで刀を持ち続けている小姓、大浦弥四郎為信は、板間に座る二人の男のうち、どちらが使いなのか、判断に迷っていた。一人は堂々と胸を張り、如何にも武士といった佇まいの男であり、もう一人は貧相な小男で着物も少し、くたびれている。
「ふぁ~」
あろうことか、欠伸までした。貧相な顔がさらに貧相になり、まるで陸奥の山に棲む猿のように見えた。田舎の百姓を連れてきて、適当に着せて座らせたとしても、もう少し見栄えは良いだろう。
ドスドスと足音が聞こえてきた。
「殿がお越しになります」
弥四郎はそう言って、頭を下げた。同様に、大広間で黙っていた謀臣五人も頭を下げる。
(藤吉ッ)
微かな小声が聞こえた。どうやら欠伸をしていた小男は、頭を下げることもなくポカンとしていたらしい。主君を馬鹿にされたような気がして、カッとなりかけた。
「待たせたな。新田陸奥守又二郎政盛である」
それを止めたのは、他ならぬ主君の声であった。又二郎はなんとも思っていない様子で、当主の位置に座った。弥四郎は俯きながら息を吐き、そして無表情となって顔を上げた。
「それで、どちらが木下殿か?」
「ヘッ! 某が木下藤吉郎秀吉でございます。日ノ本最大の大名、陸奥守様にお会いできて、恐悦至極に存じます! どうぞ宜しくお願い申し上げまする!」
「木下藤吉郎が与力、蜂須賀小六郎でございます」
猿顔の小男が大声で挨拶し、それに続いて蜂須賀小六郎が短く挨拶した。弥四郎は首を傾げるのをなんとか堪えた。小男はどう見ても、武士としての格が高いとは思えなかった。戦場で地味に活躍し続け、兄弟揃って足軽大将となった「がんまく、らんまく兄弟」のほうが、遙かに立派に見えた。思わず、侮る気持ちが湧き上がる。
「そうか…… 信濃を攪乱させたのは、其方か」
だが主君である又二郎の表情には、警戒の色が浮かんだ。他の謀臣たちも真剣な表情で、一人の小男に視線を向ける。弥四郎には理解できなかった。織田が信濃方面で長暦の手を伸ばしているというのは、近習たちの噂話で聞いていた。だがこんな小男に、武田家と新田家の重鎮たちを驚かせるようなことができるだろうか。
「あ、いやいや! それは誤解でございまする。陸奥守様に御挨拶するため、美濃から木曾谷、信濃を通って参りましたが、その道中で旧知の者たちに挨拶をしただけでございます。某、昔は針売りをしながら、東海道や信濃を歩いたことがございますれば、つい懐かしくなったわけでございます。それがいつの間にか、噂話が一人歩きしたようで……」
藤吉郎がペラペラと喋る。口から先に生まれたのではないかと思えるほどだ。又二郎は言いたいことを言わせたあと、確認するように詰問した。
「ならば木曾谷、伊那谷が織田についたというのは、事実ではないと言うのだな?」
「あぁ…… 実は、それなでございまするが、木曽谷につきましては、材木を商っておりますれば、美濃と付き合いたいと懇願されまして…… 蜂須賀小六郎は若き頃より、木曽川沿いで材木を流していた川並衆の出で、木曽谷とも縁深く、断るにはどうにも忍びなく……」
眉を下げた猿顔になり、いかにも困ったような、悲しそうな表情を浮かべる。まさに懇願という表情であった。又二郎は内心で感嘆した。前世を含め、これほど人誑しの人間に出会ったことはない。現代社会に生まれたとしても、相当な営業マン、あるいは詐欺師になるだろう。
「平時であれば、商売くらいなら構わないのですが、我が殿はいま、足利義昭公を奉じて上洛し、畿内安定に乗り出しておりまする。都は荒れており、優良な材木は幾らあっても足りませぬ。木曽の材木を使いたいのですが、上洛に加わっていない家となると、聞こえも悪く、叶うならば木曽家を……・」
「解った、解った。ペラペラと言い訳をしているが、要するに、木曽谷が織田に付くことを認めて欲しいと言いたいのだろう? で、それを認める代わりに、織田殿は何を呉れるのだ?」
藤吉郎の表情から笑みが消えた。愛嬌が消えて、スッと真面目な表情になると、いかにも真剣に、深刻な話をするのだという空気を醸し出す。
「東海道を使った交易を認める、というのは如何でしょう?」
「ほぉ……」
又二郎は目を細めて笑みを浮かべた。
「某たちはこれより、相模を抜け東海道より戻るつもりです。その道中で、織田の盟友である徳川様にお会いし、東海道の関所免除をお願いするつもりです。無論、我が織田家も尾張から京、さらに堺までの街道利用を認めまする。御自由にお通り下され」
「だがそれは、徳川殿にとって利益がないと思うが?」
「いやいや、さに非ず。徳川様にとって、陸奥守様と領地が隣接することは、負担でございましょう。街道利用を認めることで、御当家に対して先に一歩譲ることで、争う気が無いことを示すのです。それに、東海道が活発になれば、徳川様の御領内にも銭が落ちまする。まったく利がない話ではありますまい」
やはり発想が武士ではない。織田信長の死から僅か一〇年で天下を獲ったのは、この口先と発想力故だろう。だから本人が死んだら、豊臣の天下が続かなかったのだ。
「フム…… 越中はどう思う?」
「ハ…… 確かに、東海道は重要な交易路。関東から都までの道が確立されれば、物の行き来は活発になります。御当家としても得る利益は大きゅうございます。それに、一時的ではありましょうが、西について悩まずに済むでしょう。ここはお受けになれても宜しいのでは?」
南条広継は賛成の意見を述べた。無論、腹の内をすべて出すようなことはしない。
正式な不戦の盟約というわけではないが、織田、徳川と誼を結ぶということは、信濃、駿河の西が安全になることを意味する。新田が短期間で飛躍したのは、常に戦線を絞り、戦力を一極集中してきたからだ。越後、信濃、駿河のすべてで敵を抱えれば、戦力の分散に繋がる。
(これからいよいよ、加賀一向衆との戦が始まる。他で火種を抱えるのは下策か……)
「よし、越中の意見を是とする。木曾が織田家の上洛に加わることを認めよう。ただし、此方に敵対すれば容赦なく叩き潰す。木下殿よ。できれば酒宴を開いて織田殿の話を聞きたいところだが、上州はまだ落ち着かず、俺も忙しい。またの機会に、話を聞かせてくれ」
「うへへぇ! 有りがたき幸せでございまする!」
満面の笑みで藤吉郎は手をついて、板床に額を叩き付けた。
「なぁ藤吉ぃ、怪物様をどう見た?」
無事に信長の命を果たした木下藤吉郎と蜂須賀小六郎は、逃げるように上州から武蔵へと向かっていた。警戒すべきは、新田又二郎の気が変わって、ここで自分たちが殺されることである。新田と織田とでは、力が違いすぎる。足軽大将とその与力が殺されたところで、信長が新田に戦を挑むとは思えない。泣き寝入りするしかないのだ。もっとも、藤吉郎はその心配は少ないだろうと考えていた。
「約束を違えるような御仁ではなさそうだな。それに気楽な方にも見えた。御屋形様に似ておられるな」
「確かにな。藤吉の無礼も、気にしていない様子だった。こっちはヒヤヒヤしたぞ」
藤吉郎は口ではそう返したが、内心は別であった。この感覚をどう主君に報告すべきかで、頭を悩ませていた。
自分はもともと、百姓出身である。礼儀など知らない。そういう体で、無礼に近い態度を取っていた。だが相手は平然としており、それどころか百姓出身の自分と同じような匂いがした。柴田や丹羽、あるいは主君である信長でさえ隠しきれない匂い。武士の匂いが、まったくしなかったのだ。
(幼い頃に当主となられたと聞いていたが、それでも武家の者として生きてきたはずなのに…… 武士らしからぬではない。武士という枠では捉えきれぬ方だ)
そういう意味では、自分と似ているのかもしれない。藤吉郎はそう思い、そして首を振った。