猿の悪戯
話は少し遡る。織田信長の命を受けた木下藤吉郎秀吉は、すぐに関東に向かわず、知人であり信長から与力として与えられた「蜂須賀小六郎正勝」のもとを尋ねた。
「なんじゃ、藤吉ぃ。なんぞ面白い話でも持ってきたのか?」
「うむ、実はな。俺は侍大将に取り立てられた。で、小六は俺の与力になった。御屋形様から俺の口から伝えろと言われて、訪ねてきたのだ。ホレ、これが御屋形様からの書状だ」
「あん? お前、浅井攻めでそんな目立った手柄、立てたか?」
懐から信長から託された書状を取り出す。蜂須賀小六郎は両手で受け取って、一度拝むように上に捧げ、そして中を改めた。木下秀吉の与力となり、その指示を受けろと書かれてある。理由は一切、書かれていない。信長らしい内容であった。
「小六、大丈夫か?」
目だけ室内を泳がせ、藤吉郎は小声になった。それで小六は察した。重要な話なのだ。
「あぁ。周りに居るのは、木曽川で遊んでいた頃からの仲間たちだ。口の固さは保証する」
藤吉郎は頷いたが、それでも声を抑えて話し始めた。
「武田信玄が死んだ。それで、木曾谷が此方に着きたいと持ちかけてきたのだ。俺はこれから、関東に行く。新田への使者として、箔付けのために臨時で上げられたのだ」
「なるほど…… そこで俺か」
足軽大将程度では、新田への使者としては、格が不足している。だがこれから上洛戦というときに、家老級を動かすわけにもいかないし、佐久間や林では、新田への使者としては、不安がある。
そこで、機転が利いて人誑しの木下藤吉郎秀吉が抜擢された。一時的に侍大将に取り立てられたのは、褒美の前渡しである。実際、木曾谷の寝返りを新田に認めさせるなど、命懸けの交渉となる。普通であれば斬られてもおかしくはないのだ。
「小六は元々、川並衆であろう? まずは木曾谷までの案内を願いたい。その上で……」
藤吉郎の話を聞いて、小六は呆れた表情を浮かべ、そして笑った。なるほど、織田家中の出世頭と言われるだけある。命懸けの交渉を前に、誰がこんなことを思いつくだろうか。この猿顔の小男について行けば、自分もさらに出世するのではないか。なにより、楽しい生涯になりそうだ。
「面白い。伝手も、無くはない。やってみるか」
蜂須賀小六郎正勝は、四一でようやく、歴史の表舞台に登場した。
九十九衆の頭領が「火急の報せ」を持って、真昼に登城した。これはその内容が、又二郎だけではなく、主だった謀臣たちにも関係することを意味する。南条広継、八柏道為、武田守信、沼田佑光、そして田村月斎の五人が招集された。五人が大広間に入ると、既に商人姿の加藤段蔵が座っていた。五人とも無言でそれぞれの位置に座る。ドスドスと足音が聞こえ、そして新田陸奥守又二郎政盛が入室した。
「皆、礼などいらぬ。段蔵、何があった?」
そう言いながら当主の位置に座る。加藤段蔵は一礼もすることなく、事実を述べた。
「南信濃、木曾谷の木曾義康殿、伊那谷の国人衆、片切久信殿、さらに、稲田城城代、秋山信友(※虎繁が正式だが、信友のほうが有名のため、表記統一)、武田家から離れ、織田に付きましてございます」
「なんと……」
そう呟いたのは、謀臣としては生真面目すぎる男、武田甚三郎守信であった。他の三人は顔色を変えず、田村月斎に至っては、暢気に鼻毛を抜いていた。
「つまり南信濃の大半が離反したわけか。このこと、武田の一行はまだ知らぬであろうな。それで、高遠城の様子はどうであった?」
高遠城は諏訪湖の南に位置し、諏訪四郎勝頼の居城である。勝頼はこの地にいるため離反はしていないだろうが、南諏訪の国人衆は、武田に対する怨恨はあれど、義理など感じていないだろう。勝頼不在を機に、高遠城を乗っ取る動きがあるかもしれない。
「高遠城は落ち着いておりまする。されど、伊那の国人たちが動いておりますれば……」
「太郎義信、四郎勝頼、高坂昌信、真田弾正を呼べ! 急げ!」
又二郎が怒鳴ると、近習たちはドタドタと駆けはじめた。
「段蔵、事前に掴めなかったか?」
「面目ありませぬ。信濃にまでは、まだ網を掛けられておりませんでした。歩き巫女のほうも……」
段蔵は一礼して謝罪したが、又二郎は責めるつもりはなかった。もともと信濃は、諏訪大社のお膝元であり、歩き巫女による諜報網も、九十九衆による浸透も難しい土地であった。少なくとも、諏訪大社の大宮司である四郎勝頼が認めない限り、諏訪での諜報は難しい。
武田義信も諏訪勝頼も、今は上州にいる。織田は西を向いており、徳川は遠江で今川と戦っている。越後は新田の勢力下だ。だからこそ、両名とも本拠を離れることができた。
そして、離反する者にとっては、千載一遇の機会であった。不在となる時期は一月もない。諏訪大社には宇曽利諏訪宮の宮司である南条宗継を送っている。四郎勝頼が戻り次第、諏訪での諜報網が、構築されるはずであった。僅か一月の間隙、今回は正にそこを突かれたのである。
「織田の調略でしょうが、見事なものです」
「確かに。先の戦は半月もあれば、織田に届いたでしょう。そこから動いたとしても、調略に掛けた時間は、せいぜい一月から一月半程度のはず。それでここまでとは……」
南条広継と八柏道為は、むしろ感心した表情となっていた。深刻さがないのは、これは武田家の問題であり新田には直接影響がないからである。新田に隣接する北信濃が荒れない限り、あとは武田に任せても良いだろうと考えていた。
「織田の重臣たちに、ここまで調略を得手とする者が、おったかのぉ」
抜いた鼻毛を息で吹き飛ばし、田村月斎は暢気な表情のまま呟いた。
「まさか、秋山が……」
太郎義信は、俯いて唇を噛んだ。父が遺してくれた家臣たち。その信頼を掴み、これから領内を盛り上げていこうと思っていたのに、いきなりの離反である。当主としての自信を揺るがせるほどの衝撃であった。
「諏訪殿。諏訪殿の奥方は、たしか織田殿の養女でしたな?」
「はい。某の妻である織江は、苗木遠山氏の出で、昨年に祝言を上げたばかりです。ですが、ことこうなっては……」
離縁するしかない。そう考えた勝頼を止めたのは、又二郎であった。
「簡単に離縁などと考えるな。今は家族であろうが。出身など、どうでも良い。妻一人さえ笑顔にできずに、どうやって領民を笑顔にするというのだ。それで、真田弾正……」
「はっ、これは恐らく、偶発を利用した調略ではないかと考えまする。秋山殿は武田家譜代の忠臣。亡き御屋形様も御信頼され、美濃に隣接する飯田城をお任せになられたのです。簡単に離反するとは思えませぬ。恐らくは、木曾谷あたりが織田に内応を呼びかけ、それを利用して、秋山殿離反と噂を流し、既成事実にしてしまおうという策ではないかと……」
「なるほど。木曾が離反したという事実を利用し、木曾谷から伊那へと向かい、伊那衆を調略する。調略にあたっては、飯田城も味方するとホラでも吹いたのだろう。その上で、今度は飯田城に、高遠城も味方する。南信濃をもう一度、諏訪の手に……とでも流すか。武士が考える調略法ではないな」
事実にホラを上塗りし、そうした「流れ」を作り上げる。気づいたら巻き込まれていた、という調略法であり、実態としては虚像に過ぎない。だが一時的にも、新田に衝撃を与える一手ではある。
(こんな調略をしそうな奴など、あの男しかいないだろう。史実ではちょうど、美濃調略で動いていたからな。それにしても、僅か一月でこれか。現実に敵に回すと恐ろしいな)
「秋山殿は、いずれ騙されたと気づき、激怒するでしょう。御屋形様、決して怒らず、よくよく事情をお聞きになられるが、宜しかろうと……」
「そうだな。秋山が裏切るはずがない。源五郎(※高坂昌信)、よく言ってくれた」
信によって結びついている武田家家臣たちを見ながら、又二郎は武田をどう飲み込むか、再考する必要があると思った。
「なぁ、藤吉ぃ。いくらなんでも、やり過ぎなんじゃねぇか? 御屋形様に怒られねぇか?」
「大丈夫、大丈夫。御屋形様は、新田を観てこいと仰せられた。ちょこちょこっと悪戯しただけだ。こんなもの、武田の当主が戻ってくれば、すぐに落ち着く。その前に、木曾谷を認めてもらわねばなぁ」
北信濃から箕輪城を目指して進む二人の男が、肩を寄せ合って話し合っていた。前方から猛然と、騎馬隊が迫ってきた。傘を被った旅衣装の二人は、路傍に退いて頭を下げた。猿顔の男がチラリと傘の陰から様子を見た。見事な甲冑姿の男が、少し急いでいる様子で駆け抜けていった。
「急ぐぞ。半月以内に片付ける」
二人は歩を早めて、東に向けて進み始めた。