関東サミット
北近江の小谷山は炎に包まれていた。浅井久政、長政の父子は、その命運を城と共にした。浅井は滅び、織田家は尾張、美濃、北伊勢、北近江を領することになる。
「浅井長政か…… 惜しい男ではあったがな」
麓から、燃え上がる炎を見つめながら、織田三郎信長は小さく呟いた。ひょっとしたら、手を取り合う道もあったかもしれない。だが敵対した以上、北近江を領する浅井を降すわけにはいかなかった。浅井は朝倉との縁が深い。そして朝倉は新田と繋がっている。この北近江にはしっかりとした砦を築き、新田への備えとしなければならない。
「ハハハッ! 長政は死んだ! 次はいよいよ上洛、そして憎き三好を滅ぼしてくれるわっ!」
耳障りな声が聞こえ、信長は微かに眉間を険しくした。六角家の当主、六角右衛門督義治である。信長は内心で、この男を見限っていた。六角と手を組んでいるのは、南近江の観音寺城という要衝に拠点を構えていること。そして先代であり事実上の六角家当主、六角承禎がいるからだ。
永禄六年(西暦一五六三年)、六角義治は宿老であった後藤但馬守賢豊を観音寺城にて惨殺している。いわゆる「観音寺騒動」であるが、これにより義治は六角家中からも見限られていた。承禎がいなければ、浅井を選んでいたかもしれない。
(三好が片付き次第、六角は捨てる。あのような愚者は適当に煽てて、使い捨てれば良い)
六角家には、密かに調略の手を入れている。義治はどうしようもないが、六宿老(※後藤賢豊がいないため、この時点では蒲生定秀、三雲成持、目賀田綱清、平井定武、進藤貞治の五名)をはじめとする者たちには、織田家中にはない知識や人脈がある。宮中工作、室町幕府との関係構築、そして京や堺の豪商や名主たちとの繋がりなど、管領代の家柄である六角家の宿老ならではの活躍が期待できた。
「申し上げます。美濃より、報せが届いております」
「すぐに行く。十兵衛(※明智光秀)、半兵衛(※竹中重治)を呼べ。それと……ついでに猿もだ」
これ以上、耳障りな声を聴かなくて済む。信長は自軍の陣中へと戻った。
「美濃から報せが来た。新田が関東を征したそうだ。武田と上杉は負け、信玄坊主も死んだそうだ」
人払いをした陣中で、信長は明智光秀、竹中重治という二人の謀臣と話し合っていた。酒は飲まないが、塩漬けにして干した鹿肉を湯に入れて塩抜きし、戻した干し肉と干飯、蕪菜をぶち込んで煮た汁を夜食として食べる。肉から塩気が出るため、味噌などは入っていない。
新田家を調べる中で、新田の陣中食では肉が出てくるという話を聞き、真似てみたところ意外なほどに美味かった。肉食を忌避する者も多いため、全軍に導入するのはもう少し先だが、織田家中にも徐々に肉食が広がっていた。
「信濃で動きがありましたか?」
竹中重治の言葉で、信長はニヤリと笑った。目の前の戦に長けた者は家中にも多いが、日ノ本全体を俯瞰して先々を考えられる者は少ない。謀臣二人に挟まれる形で呑気に飯を食っている猿顔の男が、その証明であった。
「猿よ。信濃で何があったと思う?」
この男は存外器用で、使い勝手が良い。だが織田が躍進するには、さらに成長してもらわねば困る。小者として拾ってやり、自分が手ずから、育ててきた。元百姓で教養もない男だが、それだけに恥も外聞もなく、より大きな仕事をしようという貪欲さを持っている。だからふと思いついたときに、機会を与えてやろうと思っていた。
その猿顔の男、木下藤吉郎秀吉は頬に飯粒をつけたまま、はてと首を傾げた。
「信濃というと、美濃の東ですな。木曽様あたりが降って来られたとか?」
お道化ながらそう返した。木曽なんて、名前を聞いたことがあるくらいでしかない。武田の勢力圏の中で、もっとも美濃に近いのが木曽氏だから、適当に考えただけであった。
「ほう…… 木下殿も、そう読まれましたか」
だが明智十兵衛光秀が、微笑んで頷いた。キョトンとする猿顔を見ると、思わず小突きたくなる。信長はクククと笑って、タネを明かした。
「新田は、臣従以外を認めぬ。そして臣従した者の土地を取り上げる。源義仲に連なる木曽義昌にとって、新田に臣従するのは耐えられるのだろう。上洛に加わりたいと言ってきおった」
「新田は関東の仕置きで手一杯のはずです。木曽谷まで押さえることは無理でしょう。義昭様の御上洛に同行することで、御屋形様の庇護を得たいと考えているのでしょう」
「なるほど、なるほど……」
光秀の言葉に、秀吉は感心したように頷いたが、本当に理解できているわけではない。それよりも気になるのは、自分がなぜ、この場に呼ばれたかである。
「猿、お前を新田への使者とする。木曽谷が織田に付くことを認めさせるのだ。ついでに、新田陸奥守政盛という男をよう観てこい」
「へ? うへへぇ! しょ、承知しました!」
これが都の公家衆や朝倉、あるいは畠山などの名家への使者ならば、信長も人選を考えた。だが相手は異形の怪物である。そうした相手には、なまじ教養などがない素っ裸な男をぶつけたほうがいいだろう。
仮に上手くいかなかったとしても、関東にいる新田は木曽谷にまでは手を出せない。此方が気を遣っているという姿勢を見せるだけで、効果はある。
無教養なのに妙に人ったらしの猿顔の男は、大きな仕事を与えられて嬉しそうに笑っていた。
箕輪城から西に五里、鳥川の畔にあるのが、上州長野家の菩提寺「長年寺」である。甲斐、越後、武蔵からほぼ等距離にあるこの寺において、武田信玄、上杉謙信ならびに上州国人衆を弔う葬儀が行われていた。長年寺も、上杉家の菩提寺である越後の林泉寺も曹洞宗である。林泉寺からも住職を呼び、延べ数十人の僧侶たちが般若心経を唱える。
武田家からは、武田太郎義信、諏訪四郎勝頼など武田家一族および家臣たちが参列した。上杉家からは、上杉謙信の養子であり今年一一歳となる長尾卯松、筆頭家老である直江神五郎景綱の他、越中国から斎藤下野守朝信まで参列した。
北条からは、北条新九郎氏政のほかに、先代であり事実上の当主である北条左京太夫氏康までいる。北条家家中としては、武蔵七党を代表して成田泰季と成田長親の親子が、太田資正の名代として嫡男の太田氏資が関東公方足利藤氏の弔文を持って参列した。
小田家からは、当主の氏治こそ不参加であったが、家老筆頭の菅谷左衛門大夫政貞、謀臣であり新田家中とも面識がある天羽源鉄が参列している。
(関東におけるトップ会談、サミットのようなものだな)
当然ながら、又二郎に喪主となる資格などない。裏方で動いているだけである。常識外れの資金を投じて盛大な葬儀を行い、その後の外交を有利にするためであった。戦国時代の葬儀においては、喪服は公家の葬儀では黒、武家の葬儀では白が一般的であった。当然ながら「富裕の新田」では家臣全員が、黒糸で家紋を刺しゅうした喪服を持っている。
だが関東の国人衆はそうはいかない。又二郎は内々に、参列者の喪服を用意させていた。背丈が不明なので、日本人の平均的な大きさで用意していたのだが、これを小賢しいと捉えて拒否した者もいた。北条のように自ら用意していた者は別だが、新田には従わぬと、平服で参加したものまでいた。
(まぁ、数百名もいればそういう奴もいるか……)
長年寺の周囲には、彼らが滞在するための館を増築している。こうした準備のために、狭野の決戦から葬儀まで、三月以上が掛かってしまった。
「殿、関白殿下より返書が戻っております」
現関白の近衛前久は、上杉謙信と友誼を結んでいた。一度は、その友誼に免じて上杉家を赦免したが、二度目はないと伝えていた。そして上杉謙信が死んだ。謝罪は不要だが、顛末については伝えておかなければならない。そう考え、この三月の間に都に書状を送っていた。
「やはり、殿下は窮地に立たされているか……」
史実では、近衛前久は織田信長の上洛後に、関白を解任され、朝廷から追放される。これは信長の意向というよりは、足利義昭の意志が強く働いていた。義昭からすれば、実兄である義輝を三好に討たれ、三好が推す阿波平島の足利義栄の将軍就任に力を貸したように見えていた。
三好三人衆が将軍殺害の罪に問われることを危惧し、近衛前久を頼ったのは事実である。実際、この時点で三好三人衆を罪に問える力は朝廷にはない。だが赦免をするにしても何らかの理由が必要であった。そこで前久は、義輝の正室であり実姉を三好三人衆が庇護したことを評価して、三好三人衆を罪に問わないこととしたのである。現在から見ても非常に苦しい言い訳だが、このことから、足利義昭は近衛前久に対して憎悪に近い感情を抱いていた。前関白であった二条晴良も動き、近衛前久は京から追われることになる。
「日ノ本がこれほど乱れているというのに、朝廷は内々での権力闘争か。公家に権力を持たせると碌なことにならん。上洛した暁には、奴らには別の役割を与えてやらねばな」
文の端々に、新田への期待が滲んでいる。謙信を殺したことへの嫌みの一つでもあるかと思っていたのに、書かれているのは織田の上洛が間近であること、そしてそれに伴い、三好が迎え撃とうとしているという都の様子についてであった。そして最後に「織田が西、新田が東を治めれば、日ノ本から争いが消えるのではないか」という希望である。それを読んだ時に、又二郎は鼻で笑った。
「何が天下二分だ。信長が、自分と対等な存在など認めるわけがない。いずれ、決着をつけなければな」
この書状は、本来なら燃やすべきかもしれない。だが歴史的な観点から、極めて貴重な資料になるだろう。又二郎は少し迷い、保存すべき書状として箱に入れた。