関東の仕置き
「刀は武士の魂」という言葉があるが、この言葉自体は意外に歴史が浅く、書物で確認されるのは江戸時代後期になってからである。刀剣自体は「武の象徴」として扱われてきたが、腰の大小、すなわち打刀と脇差しが誕生したのは室町時代からであり、それが武士階級の身分標識となったのは江戸時代からである。
太平の世においては、個の武力よりも経済力が重視されるため、多くの武士が貧困の中にあった。だがそれでも、己は名字帯刀を許された武士階級なのだと、半ば自分に言い聞かせるために、上記のような言葉が生まれたと推察される。記録を読み解いても、刀を使った戦いというのは一対一が多い。日本刀で甲冑を斬ることは、ほぼ不可能であるため、多対多の合戦においては、刀はそれほど役に立たなかった。
一方で、室町時代から戦国時代にかけて、現代にも残る古武術の原型が生まれたのも事実である。兵法三大源流(陰流、神道流、念流)の始祖はいずれも室町時代に誕生し、古流武術として現代まで続いている。現代では「剣の流派」という印象が強いが、当時は刀、槍、弓、棒、体術、薙刀などの武術に加え、礼法、地理学、築城学、風水学、医学なども含まれていた。
兵法を修めるということは、一大教養人になることを意味するため、当時の大名はこぞって、兵法家を招聘し、召し抱えるか、あるいは弟子入りして教えを受けていた。
四〇〇年後の世でも「剣聖」と讃えられている男が、目の前にいる。別に弟子入りをするつもりはない。運動を兼ねて木刀や槍を振っている又次郎だが、別に強くなりたいなどとは思っていない。自分が槍を振るときなど、相当に追い詰められている場合である。三毳山では自分も槍を持ったが、あんなことはもう二度とないだろう。
「上泉伊勢守殿とその甥、疋田豊五郎殿。こうして宇都宮まで足を運んでいただけたこと、感謝申し上げる」
史実では、新陰流の始祖である上泉秀綱は永禄九年(一五六六年)、箕輪城落城とともに主君である長野業盛が死去すると、武田信玄の招聘を断り、甥の疋田豊五郎景兼と共に諸国放浪の旅に出る。その際、武田信玄は偏諱授与を行い「信」の字を与え、上泉信綱と名を改める。
上泉信綱が放浪に出たのは永禄六年という説もあるが、長野家を出奔する理由も無いため、高崎市史では永禄九年とされている。
「それで、これからどうされる? 貴殿から兵法を学びたいという家中の者も多い。叶うならば、指南役として新田に留まっていただきたいが……」
又二郎の誘いに、上泉秀綱は首を横に振った。
「拙者は未だ、剣の何たるかも心得ぬ未熟者でございます。主君を止めることもできず、御援けすることもできず、武士としての己に諦めがつきました。これ以降は一介の兵法家として諸国を巡り、己を見つめたいと存じます」
「そうか。惜しいな…… だが無理に引き留めるのも無粋であろう。奥州産の名馬二頭と刀二振り、それと路銀を用意する。新田はこれから西へと進む。またどこかで、出会うやもしれぬ。気が向いたときは、いつでも訪ねてこられよ」
恐縮する二人を城門まで見送る。馬に揺られて去っていく背中を又二郎は眩しそうに見つめた。
「少しだけ、羨ましいな」
かつて、書画の道を極めるために、十三湊から京への旅に出た男を思い出し、小さく呟いた。
上泉伊勢守を見送った足で、城内の鍛錬場へと向かう。少し体を動かしたくなったからだ。するとカンカンと乾いた音が響く。そっと見ると、長門藤六広益が一人の男と対峙していた。
「フンッ!」
力強く棒が繰り出されるが、男は僅かに足を運んでそれを躱す。数回の交錯の後に、いつの間にか広益の喉元に棒先が突きつけられていた。
「嘘だろ…… 親父があんなに簡単に……」
「不思議だ。力も速さも、藤六殿のほうが上のはずなのに……」
滝本重行と矢島満安が目を輝かせて感嘆する。互いに一礼したところで、又二郎が姿を見せた。慌てて膝を突こうとする広益たちを止め、又二郎は男に顔を向ける。
降伏した佐竹家の重臣らの中に、見た顔であった。そして、新田家でも数指に入る槍の使い手である長門広益を圧倒できる者など、一人しか思い浮かばない。
「真壁小次郎か。少し見ていたが、見事であった」
「恐縮です。鬼藤の異名を持つ長門殿に、手合わせをお願いしました。某の技は、馬に乗らぬ一対一の棒術でございます。これが戦場であったなら、結果も違っていたことでしょう」
「うん、藤六も見事であった」
「あり難きお言葉。この歳になっても、まだまだ己は強くなれるのだと、気づきを得ました。小次郎殿、手合わせ、感謝申し上げる」
真壁小次郎久幹は、鬼真壁と恐れられた真壁氏幹の父親であり、佐竹家における武勇第一の家臣である。鬼真壁の活躍には記録に幅があることから、久幹から氏幹の二代にわたり「鬼真壁」と呼ばれていたと考えられる。
氏幹は塚原卜伝の弟子であり、後に霞流棒術の創始者となるが、父親の久幹は連歌などの文芸にも通じた教養人である。又二郎としては、親子揃って召し抱えたかったが、長男の氏幹は、残念ながら常陸にはいなかった。
「倅は今、見聞を広めるため旅に出ておりまする。今はどこで、何をしているか……」
「塚原卜伝殿と共に、諸国漫遊か。だが卜伝殿もそろそろ御歳であろう。鹿島の地を整備しておく。倅殿が戻られたら、ぜひ一度、顔を出してもらいたい」
久幹は内心で、そこまで調べているのかと驚いたが、さすがに顔には出さない。必ず出仕させると約束すると、又二郎に断りを入れて、立ち上がった。後ろで「俺、俺、俺だよ」と煩い男がいるためだ。
「重行、礼を弁えぬか! 久幹殿、申し訳ない。この男はどうにも我が強く、臍曲がり故、御容赦を……」
長門広益が一喝して、頭を下げる。だが久幹は笑ってそれを止めた。
「いやいや。臍曲がりであることと、世を拗ねることは違います。滝本殿は己に真っ直ぐなのでしょう。それは決して、悪いことではありません」
そして棒を手にして構える。気負った滝本重行は、一合すら交えられずに肩を突かれてしまった。それでもまた立ち上がり、向かい合う。又二郎はその様子を暫く眺めていた。
(武の中でしか生きられない者たちもいる。彼らもまた、日ノ本の民だ。彼らが食っていけるようにするのも、為政者の仕事だな。学校の授業に取り入れたらどうだ? 体育としてではなく、自分に向き合い、人に向き合い、世に向き合うことを学ばせる。修身として、子供たちに学ばせるか)
天下統一後は、法によって治める。だが法を普及させるためには、教育が欠かせない。中世の江戸時代から日本が急速に近代化できたのは、広く教育が普及していたからだ。教育こそが、国を繁栄させる基盤なのである。
(関東が落ち着き次第、領内に本格的な学校教育を導入しよう。試行錯誤しながら義務教育の型を完成させ、天下統一後はそれを全土に普及させる。俺が死んだ後も、日ノ本が成長し続けるように……)
棒が打ち合う乾いた音を聞きながら、又二郎の思考は遠い未来へと飛んでいた。
常陸の国人や佐竹家中の大多数は新田に降ったが、一部は常陸に残り、虚しい抵抗を続けていた。だがそれも二〇日も続かなかった。通常ならば、土地開発の代官として降した大名を指名するのだが、佐竹義重は宇都宮城に留め置かれた。
佐竹が四〇〇年間、常陸の事実上の国主であったことも理由の一つだが、南に小田氏治がいることが大きい。佐竹と小田は長年にわたって抗争を続けていた。家中間の対立意識も強い。ここで佐竹を太田城に置けば、再び抗争が始まるかもしれない。
「関東は決した。新田、北条、小田による統治だが、新田と北条に挟まれる小田は、氏治の代が終われば新田に吸収する。新田は上野、下野、武蔵の一部、そして常陸の大半を手に入れた。北条は伊豆、相模、武蔵、下総半国、上総、阿波の五カ国半。それに比べ、小田は下総の北半分と常陸南部に過ぎない」
宇都宮城では、新田家の評定衆の中から、又二郎が指名した者たちが集まっていた。内政の最高責任者であり筆頭家老の田名部吉右衛門政嘉、朝廷工作などの外政を担当する浪岡弾正少弼具運、南奥州の慰撫を担当する伊達総次郎輝宗、新田軍を預かる長門藤六広益、謀臣として南条越中守広継、八柏大和守道為などが集まる。
伊達輝宗、八柏道為を除けば、新田家の中でも古参の者たちが集められている。それを気にしてか、田名部吉右衛門が一つの案を提示した。
「上州での葬儀が終わり次第、新参の者たちに田名部を見せては如何でしょうか。その頃には宇曾利山も美しく色づきはじめているでしょう」
それは良いと皆が賛同する。佐竹義重をはじめとする新参の者たちは、新田の力を戦でしか知らない。その広さ、豊かさを肌で感じさせるには、田名部を見せてやるのが一番だろう。
「そうだな。関東も一段落した。武田、上杉、北条の仕置きが終わり次第、皆に宇曽利を見せてやろう。自分たちの生まれ育った土地でも、同じように豊かになるのだと知れば、少しは慰めにもなるだろう」
日本人は土地に執着する。現代でも、殆ど資産価値のない山林や、廃屋の地権に拘り、死ぬまで手放さないという人も多い。これは歴史的なものである。一所懸命の考えから生まれたという説もあれば、江戸時代の身分制度によって、農民が土地に縛られたからだという説もある。いずれにせよ、これからの政策によって、その後の日本人の精神性が決まる。転生者である又二郎は、そこまで考えていた。
「郷里を想うのは誰でも同じだ。生まれ育った土地が豊かになることを喜ばぬ者などいないだろう。だが郷里を想うことと、郷里に縛られることは違う。今後は教育をさらに促進するぞ。他の土地を観ることは、それだけで学びになる。子供の頃から、外の世界を教えるのだ」
話はやがて、関東の仕置きについて移っていく。特に重要なのは北条をどうするかであった。
「上州で行う葬儀の取り仕切りは、弾正少弼(※浪岡具運)に任せる。武田太郎義信、北条新九郎氏政と面識もあるゆえ、接待を任せるには最適であろう。だが問題は、北条家を従属させるべきかどうかだ」
早くから新田の内政を真似ていた北条家は、現時点で二〇〇万石を越える力を持っている。新田の農法、統治方法を本格的に導入すれば、四〇〇万石に達するかもしれない。石高と兵力の比率は、一万石で二〇〇人から二五〇人程度の兵力と見込まれる。
つまり現時点でも最大五万、将来的には一〇万の兵力を持つ大大名なのだ。現時点でこれほどの力を持つ大名は、数えるほどしかいないだろう。
「正式に従属させるのは、難しいかと存じます。また従属させぬ方が良いでしょう。北条の箍が緩めば、武蔵が荒れかねません」
「越中殿の意見に、某も賛成します。武田とは違い、北条の家臣たちに負けの気持ちは無いでしょう。極端な話ですが、御当家と対等の立場だ、くらいには考えているかもしれませぬ」
南条広継、八柏道為の両名がそう進言した。さらに浪岡具運が続ける。
「調べたところ、北条家と武蔵七党の間に亀裂が生じているようです。北条家がもっと本腰を入れて兵を出せば新田は動けず、上州を失うこともなかっただろうと。もしここで北条を従属させれば、武蔵が離れかねません。そうなれば、関東は再び荒れるでしょう。さらには関東公方への対処も抱えることになります。御当家も、西進どころではなくなります」
従属同盟というのは、ただ従わせて良いように使うという関係ではない。従わせた側にも、庇護の責任が生じる。北条と武蔵七党が争うことになれば、新田も関わらざるを得ない。
だが関わると言っても、武蔵七党を一方的に攻めるわけにもいかない。北条を従属させるということは、武蔵七党も従属させることを意味するからだ。つまり仲介役を担うことになる。攻めるよりも、よほど面倒な話であった。
さらに、関東公方の足利藤氏が古河城を出て太田資正のいる岩付城に入り、未だに健在である。史実では北条によって追放された藤氏だが、上杉謙信によって小田原城を失った北条は、武蔵七党をはじめとする関東の国人衆を無視できるほどの力はない。上杉の南下によって北条から離れた太田資正は、その後はいったん北条に従属したが、内心では別であった。関東管領上杉謙信が擁立した足利藤氏を庇護していることが、その証明である。
新田は足利義輝から「幕敵」とされている。かつての新田包囲網が形成された際には、室町幕府から討伐令が出され、それは未だに解消されていない。つまり関東公方足利藤氏は、明確に新田の敵であった。
「足利藤氏なぁ…… 面倒な存在だな。いっそ、ぶっ殺すか?」
「それは御止めになったほうが宜しいかと……」
「冗談だ」
浪岡具運が慌てて止めたが、又二郎は笑って手を振った。衰えたとはいえ、室町幕府の権威は侮れない。特に関東から奥州にかけては、室町幕府に対して一定の敬意を持つ武士たちが多い。敵対しているとはいえ、踏みにじるように殺害すれば、家中が混乱するだろう。
「関東公方の扱いについても、北条に押し付けよう。北条とは、表向きには対等な同盟を結ぶが、安房沿岸の灯台整備と港の利用権で譲歩させ、新田に配慮している姿勢を取らせる。東回りの航路を太くすれば、北条にも富が落ちるのだ。拒否はすまい。吉右衛門、灯台整備と港湾整備には、新田から人を出す。準備させておけ」
「九十九衆の調査で、いくつか良港となり得る候補地を見つけています。その中も、須賀という場所に構えるのが宜しかろうと存じます」
日本列島は、関東で折れる逆L字形をしている。新田が西に進む上で、東回り航路の拡充は欠かせない。内政と外政を考えつつも、又二郎の視線は西への道を捉えていた。