天下人の視点
「佐竹が降る。これで、関東が決したことになる。我らは伊豆、相模、武蔵、下総半国、上総、安房を領する。小田は下総の北半分と常陸の一部、そして新田は上野、下野、そして常陸の大半を手に入れた。聞いて判るとおり、小田が小さい。一〇年もせずに、小田は新田に降ることになるだろう。我らも、新田との向き合い方を決めねばならぬ」
江戸城内の一室で、北条氏康は嫡男の氏政、家老の松田左衛門佐憲秀、北条左衛門大夫綱成と話し合いをしていた。嫡男の氏政は当然として、二人の家老が呼ばれた理由は、この二人が北条家の内政と外政、そして軍事の実質的な支柱だからである。
「大殿。新田は須賀城、羽生城の二つを墜としたと聞きました。武蔵の北端ではありますが、武蔵七党をはじめとする国人たちも大いに焦っていることでしょう。これを機に、武蔵への締め付けを強められてはいかがでしょうか」
「某も同じ意見です。川越城を中心として武蔵の開発を進めるにあたり、国人衆に任せるのではなく、我ら北条の方針に従わせるのです。そうせねば結局のところ、民たちは利根川の向こう側を羨み、逃げ出すことになるでしょう」
二人の家老が進言する。新田の動きは速い。佐竹を攻めながらも宇都宮から上州にかけて集落に人を派遣し、検地と刀狩りが始まっている。この冬には田畑の整備が行われ、来年から田植えにも新田式が導入されるだろう。その上で、新田は物流すらも大きく変えようとしていた。
現在、利根川を越えるには渡し船を使う必要がある。だが新田は利根川に何本かの橋を架け、人が行き来できるようにしようとしていた。まだ着工すらされていないが、調査はすでに始まっている。来年には着工される見通しであった。
もし橋が完成すれば、新田領へと逃げ出すものは激増する。だが同時に、北と南を繋ぐ物流がさらに活性化するのも確かだ。しっかりと開発を進めれば、新田に隣接することを利点にも変えられるだろう。
「父上、新田はどうやら来月には、上州で大規模な葬儀を行うつもりのようです。その際に、当主である某自身が赴き、新田陸奥守殿に従属を願い出るつもりです」
「そうか…… お前がそう決めたのなら、儂は何も言わぬ」
北条は変わらざるを得ない。今の統治体制のままでは、北条は五年も経ずに、新田に飲み込まれる。その寿命をせめて二〇年以上に伸ばすためには、統治体制そのものを新田式に改める必要があった。
「段階的に領内を直轄領にしていき、同時に米と金銭による禄の形式を取るようにします。金銭は新田が作っている良銭のみを認め、分国法も新田のものを参考に見直します。また各種物産の振興を行い、銭の流通を促します」
若き当主が述べた構想に、氏康は満足げに頷いた。新田と隣接する以上、せめて新田の八分くらいまでは開発をしなければならない。とてもではないが、従来のやり方では不可能である。従属といっても、統治権は手放さないのだ。新田又二郎をして侮り難しと思わせねばならない。
「港湾の開発を進め、海運を充実させるのだ。新田の弱みは、その本拠が北にあることよ。尾張、紀州、土佐、薩摩といった、新田が簡単には船を送れないところと交易を強める。須賀(※横須賀のこと)は鎌倉の頃より良港として使われていた。須賀を開発し、交易の中心とするのだ」
確かに新田は、関東まで進出することはできた。犬吠埼に灯台を設置し、沿岸域を整備することで、東回り航路を安定化することもできるだろう。だが陸奥から紀州、薩摩、さらには琉球まで船を出すことは、やはり危険であった。北条が新田の交易の中継地点となれば、それだけで銭が落ちることになる。
北条は代々、内政に強みを持つ家であった。だからこそ氏康も氏政も、新田又二郎が目指す「新たな世」の一端が見えていた。次の時代を生き残るために、北条家の大改革が始まろうとしていた。
一方、新田又二郎は上州での一通りの仕置きを終えると、宇都宮城へと戻った。第一正室の桜と、第二正室の深雪が出迎える。
「御戦勝、おめでとうございます」
桜と深雪、そして嫡男の吉松と長女の瑠璃が出迎えてくれる。うむ、と返そうと思った又二郎は、二人の嫁の姿に固まった。
「……うん? ひょっとして、懐妊しているのか?」
「はい。私と深雪、二人ともでございます」
「戦の最中ゆえ、お伝えするのを控えていたのですわ」
「そ、そうか。いや、目出度い」
久々に戦場から戻ったのである。二人に溺れようと思っていたのに、その二人が揃って懐妊しているのだ。これでは晴らしたくとも晴らせないではないか。
城下の遊女とでも遊ぶかと思っていたのを察したのか、桜が一人の娘を紹介してきた。目鼻立ちが整い、ハッとするほどの美少女であった。八〇年代のアイドルに似ていると思った。
「伊達左京太夫様の妹御であります、彦殿です。今年の春から、私の側仕えとして登城させております」
「総次郎の? 俺は何も聞いておらんぞ」
「はい。実は……」
伊達家の先代であった伊達晴宗は、奥州一の美女と称された久保姫との間に多くの子がいる。だが晴宗が斃れ、嫡男の輝宗は新田に臣従し、伊達家は家のみが残り領地を失っている。新田の分国法では、家臣の家同士の婚姻は、当主である又二郎の許可が必要であるため、新参の伊達は遠慮していた。
「笑窪様(※久保姫のこと)より相談を頂いたのです。どうせならば、殿の側室として城に上げたいと……」
桜の話を聞いていた又二郎は、不快というより戸惑った表情を浮かべた。
「俺はお前たち二人で十分だ。他は一夜限りの遊女でよい。それよりも、総次郎からは何も聞いておらぬ。伊達は奥州随一の名門。そこから側室を得るということは、今後は安東だの最上だの、武田や佐竹からも、側室が出てくるやも知れぬ。はっきり言って、面倒だ」
「御前様! 天下を獲るという約束を、忘れたとは言わせませぬよ?」
うんざりという表情を浮かべた又二郎に、桜は迫り、その頬を抓った。日ノ本最大の大大名の当主の頬を平然と抓る正室に、恐縮していた彦姫は驚愕の表情を浮かべた。
「新田はただでさえ、一門衆が少ないのです。多くの子を成さねばなりません。奥のことまで悩んで、どうやって天下を獲るというのです! 奥のことは私たちに任せ、御前様は天下のことを考えていればよいのです」
「桜殿の言う通りですわ。天下統一こそが最優先なのだと、常々仰っているではありませんか。又二郎殿は、奥においては種を捲くだけの一人の男であれば、それで良いのですわ」
深雪まで調子に乗って、頬を抓ってきた。こうやることで、側室を迎えるにあたっての嫉妬を晴らしているのだろう。あと何度、抓られるのだろうか。又二郎は諦めることにした。
常陸の国人衆が、宇都宮城に続々と詰めかけてくる。又二郎はその光景を見て、己の勘違いに苦笑していた。滅ぼされたくなければ、宇都宮城に登城せよと命じたが、まさかこれほどの人数になるとは思っていなかったのだ。数十石の小さな土豪から数千石の国人まで、一族郎党を連れてやってくる。その数は数千人になるだろう。
「来た者たちは赤子にいたるまで記載せよ。そして当主だけ、宇都宮城の大広間に集める。子供たちには菓子を、女たちには湯浴みと着物を与えてやれ。最初が肝要だからな」
本当に降って良かったのかと、悩み続けている者も多いだろう。ここでしっかり、新田の富裕さを見せつけるとともに、代々受け継いだ領地がさらに栄えることを伝えねばならない。
又二郎は国人衆を相手にする前に、大名である佐竹次郎義重と別室で対面した。
「千代での戦以来だな。あの戦では蠣崎宮内を相手に、見事な差配であった。攻めあぐねた上で取り逃がしたと、宮内が悔しがっていたのを憶えている」
伊達晴宗を討ち取った宮城野の合戦(※一四六話)を話題にし、まずは歓迎の姿勢を見せる。義重は表情を崩すことなく、両手を畳について頭を下げた。
「先の戦から今日まで、新田家と戦うと決めたのはすべて、当主である某です。すべての責は某にありますれば、どうか家臣、国人、そして民たちには、寛大な措置をお願い申し上げます」
又二郎は後ろに置いてあった冊子を取り出し、義重の前に置いた。顔を上げた義重が、これは何か?という表情を浮かべる。
「俺は、新田がまだ宇曽利で南部家と相対していたころから、歩き巫女や忍びの者を使い、各地の国人衆を調べていた。それは今も続いている。関東における各国人の領地や、その為人、戦働きの実績など詳細にまとめたものだ。上杉、武田、北条のものまである。(※一五三話)今は、織田を調べようと動いている。読んでみろ」
そう促され、義重は冊子を手に取って開いた。そして内容に愕然とした。見開き二頁(※戦国時代では葉と呼んでいたが、あえて頁を使用する)を使って、各国人の当主の年齢や家族構成、領地んの石高や領内の様子、戦働きの功績や領民からの評判などがまとめられている。
「すべての国人が、優れた統治力を持っているわけではない。だが国人領主である以上、そこに生きる領民たちを思い遣るべきだ。米が採れぬのならば他の作物を。農地が乏しいのならば他の産物をと頭を悩まし、創意工夫せねばならぬ。そうした努力すら見られず、あまつさえ民から搾り取ることしか知らぬ者など、新田の統治には不要である。少なくとも、俺の家臣にはいらぬ」
新田は敵対する相手には容赦がない。だが戦った後に降った者を、皆殺しにしてきたわけでもない。降伏が認められ、取り立てられた者もいれば、認められずに滅ぼされた家もある。
その判断基準は、一体何なのか。いま手に取っているこの冊子こそが、判断基準であった。新田は独自の基準で、残すべき家と滅ぼすべき家を峻別していたのである。
これは考えようによっては、傲岸極まりない行為である。是非はともかく、このようなことは武士では思いつかないし、やろうとも思わない。武士同士が手を取り合うのも、あるいは敵対するのも、相手を認めているからこそである。
だが新田のこの行為は違う。遥か天空の視点から、戦国の世を生きる者たちを冷徹に眺め、次代に残るべきかを一方的に判断する行為である。国人領主は無論、大名でさえ持つことが困難な視点であろう。
「降ってきた者たちを殺すことはせぬ。裏切り者は別だがな。だが、どう取り立てるかは俺が決める。人はそれぞれに強みがあり、弱みがある。その者をどう活かすかを考えることが、上に立つ者の役目だろう。佐竹家には、武辺に優れた者、政事に長けた者、人望ある者、あるいは人付き合いが苦手な者もいるだろう。それぞれが生きられるようにするのが、俺の仕事だ。当然そこには、佐竹次郎、お前も入る」
視野の広さ、視点の高さが自分とはまるで違う。武士という枠の中では、とてもではないがこの視座は理解できない。これが、天下人というものなのか。佐竹次郎義重は衝撃と共に、自分の器の限界を思い知った。