織田の躍進
新田又次郎政盛は、由良成繁の降伏により新田金山城に入っていた。戦国時代中期においては珍しい、石垣を持つ山城である。金山は標高二三五メートルの独立峰で、関東平野を一望できる。また越後から関東に入る街道の要衝にも位置しており、北関東に睨みを利かせるには最適な城であった。
「それで結局、成田一族は逃したわけか……」
金山城の評定間において、当主の場所に座りながら、又二郎は北武蔵における戦の報告を受けていた。長門広益を総大将とする新田軍一万二〇〇〇は、忍城を墜として北武蔵全土を手に入れようとしていたが、成田長親が抵抗して降すことができず、結局は諦めて北上したところで、藤岡城からの追い打ちを受けながらもなんとか利根川を渡った北武蔵国人衆と激突、散々に打ち破ったが、成田一族は誰一人、捕らえられなかったという。
無論、これはわざとである。又次郎も報告を聞いて、すぐにその意図を理解した。
「そこまで、成田長親を警戒したわけか」
もしここで、成田家当主を討ち取るなりしたら、成田長親が城主となるかもしれない。成田長親に惣領という権限を与えてはならない。与えれば、忍城はそれこそ難攻不落になるかもしれない。それが、南条広継、武田守信が出した結論であった。
「無理をすればあるいは、墜とせたやも知れませぬ。されどその戦で二〇〇〇でも失えば、後に響きまする。北武蔵につきましては、利根川以南の川沿いに橋頭保を築きました故、時を掛けて懐柔しては…… 南条様より、そう承っておりまする」
「うん、道為と祐光の意見はどうか?」
二人の謀臣に意見を聞く。八柏道為、沼田祐光ともに、状況を十分に理解していた。だから余計な解説などは不要である。これをどう活かすかで意見を求められていると解した。
「越中守殿の判断は当然かと考えます。ただでさえ、武蔵の国人衆は自らを武士の源流と自称するほどに気位が高く、手に入れたところで統治は難しいでしょう。ここは、北条に片付けさせたほうが良いでしょう。そのためには、もう一押しが必要です」
道為はそう言って、祐光に視線を向けた。
「分断策が良いかと……」
祐光は言葉少なく、そう述べた。これだけで主君は察するだろうという判断からだ。又次郎はニヤリとして歯を見せた。
「武蔵を中心に噂を撒け。忍城を攻めなかったり、圧倒的不利の中で成田長泰らが逃げ延びられたりしたのは、最初から新田と密約が結ばれているからだ。成田家は新田と通じて、北武蔵を押さえようとしているとな。それと北条にも遣いを出せ。上州で盛大な葬儀を行うので、氏政殿の参加を願うとな」
武蔵七党としてまとまっていたのは、新田という脅威があるからである。北条を呼ぶということは、これ以上、新田は南下しないという意思を示すことになる。そうなれば、武蔵七党は割れる。北条とて、勝手に新田と戦をした武蔵七党に対しては、内心では疎ましく思っているだろう。武蔵北部を荒れさせ、逃げてくる民を吸収した後は、北条に統治させればよい。
「都への使者もお忘れなく」
沼田祐光は無表情のまま、又二郎に次の一手を促した。上州の戦で無視していたが、畿内でも大きな異変があったのである。
史実では、永禄一一年(西暦一五六八年)に、織田信長は一五代将軍足利義昭を奉じて上洛戦を開始する。六角義賢、義治の親子は観音寺城において織田信長と戦い、大敗して南の甲賀郡へと逃れる。その後も、三好三人衆と同盟を結んで抵抗し続けるが、対織田包囲網が破られ、畿内が織田家によって統一されていくとともに史実からも姿を消すようになる。甲賀、伊賀の国人衆と共にゲリラ戦などで抵抗していたと考えられるが、はっきりとした記録は残されていない。
豊臣秀吉が天下を統一すると、六角親子は御伽衆として秀吉の傍に仕えた。また嫡男の義治は、一六一二年まで生存した。一時は畿内で一大勢力を誇った名門六角家だが、戦国時代末期には没落し、元百姓の御伽衆、つまり話し相手という立場に成り下がる。そんな自分をどう見ていたのか、記録としては一切、残されていない。
一方、又二郎がいる戦国時代では、六角家の立場は大きく違う。永禄八年に、織田信長は独力で美濃を手に入れた。そのため浅井家に妹の市を嫁がせる必要がなく、永禄の変で近江へと逃れた覚慶(※以後、混乱を避けるため足利義昭に表記統一)を伊賀に匿っていた六角家に対して、友好の使者を送った。
義昭自身は、名門である朝倉家を頼ろうと考えていたが、朝倉家の後背には加賀一向宗がいたため、容易には動けなかったこと。また織田家は六角家と隣接しており、行き来がしやすかったことなどから、織田家と六角家が、義昭を支える形となった。
六角義賢にしてみても、観音寺騒動で力を落とし、西に三好家、北に浅井家と敵を抱えている以上、せめて東の織田家とだけは結ぼうと考えていた。足利義昭を鎹として、六角織田同盟が結ばれたのである。
永禄九年(西暦一五六六年)卯月(旧暦四月)、吉田神社の神主・吉田兼右の斡旋により、朝廷から従五位下・左馬頭の叙位・任官を受けた足利義昭は、上洛に向けての根回しを始めた。武田、上杉、北条、そして新田に停戦を呼びかけ、自分の上洛を援けよと書状を送ったのである。
だがこの時点では、すでに武田、上杉、新田の前哨戦が始まっており、とても停戦という状況ではなかった。また、今川を退けてようやく三河を統一した徳川家康(※永禄九年に改名。以後、徳川家康に表記統一)は遠江への侵攻を始めていた。当主の家康が上洛戦に加わるわけにもいかず、一門衆の松平勘四郎信一が兵二〇〇〇を率いて加わることとなった。
なお、余談ではあるが史実でも同じであり、織田信長の上洛に徳川家康自身は加わってはいない。
「六角は西に三好、北に浅井を抱えている。そこでまず、我らだけで伊勢を攻める。幸い、武田は新田と対峙しており、此方に兵を回す余裕などあるまい。松永からも従属の使者が来ている。まずは北伊勢を取り、反転して六角と合流、北近江の浅井を滅ぼした後は、一気に畿内を席巻する」
岐阜城において、織田信長は上洛戦の大方針を発表した。新田の内政を真似たためか、美濃から尾張にかけて収穫量が激増した。上洛戦の兵力は、織田家だけで三万五〇〇〇に達する。そこに六角や徳川が加わり、総兵力は五万近くになった。
「新田とて武田と上杉を同時に相手にすれば、相応に傷を負うであろう。統治のために二、三年は要するに違いない。その間に、我らは畿内を統一するのだ!」
永禄九年皐月(旧暦五月)、織田信長は大軍をもって一気に伊勢に攻め込んだ。
「浅井は朝倉に援軍を求めましたが、織田と六角は併せて四万五〇〇〇に達するため、朝倉も二の足を踏んでいる様子です。このままでは、三月もせずに北近江は飲み込まれるかと……」
「織田と六角か……」
金山城の私室にて、又二郎は九十九衆頭領の加藤段蔵から畿内の報告を受けていた。足利義昭からの停戦命令など完全に無視していたが、このまま織田と六角が畿内を席巻するとなると、信濃以西に進むことが難しくなる。なんといっても、京には朝廷が存在する。織田との和睦の勅命が出たら、新田も受けざるを得なくなる。
「織田と六角の間に、亀裂を入れられるか?」
「織田信長殿は、そこにも手を打っています。六角家の当主、六角右衛門督義治殿には正室がおりませぬ。そこで、織田信長殿の妹である市姫を嫁がせるという動きがありまする」
「動きがあるだけか? とうに打っておくべき布石だと思うが?」
織田信長にしては、動きが遅いと思った。普通であれば昨年中には決まっていても不思議ではない。
「どうやら、信長殿本人が乗り気ではないようです。小さな噂ですが、義治殿の器量に不満があると溢したとか……」
「ふむ。それもあるだろうが、織田としては畿内を自分たちだけで統一したいのだろう。南近江は京に隣接しており、畿内統一を果たした後は、織田にとって厄介な存在になりかねぬ。俺であれば……」
六角と共に北近江を獲った後、返す刀で六角をも滅ぼしてしまう。あるいは三好を畿内から追い出した後でも良いだろう。このままでは、獲った土地をどうするかで間違いなく揉める。将来の禍根を断つ意味でも、自分なら六角を滅ぼす。裏切者、卑怯者と呼ばれるだろうが、そんなものは天下を獲った後で考えれば良い。つまり、人質となる市姫を六角に出すというのは、信長にとっては自分の行動を制約することに繋がる。
「朝廷の動きはどうだ?」
「足利義昭公を立てるという大義もあり、朝廷は概ね、好意的のようです。織田家単体では新参者という不安もあるでしょうが、幕府管領代家柄でもある六角が付いておりますので」
又二郎は溜息をついて天井を見上げた。現時点では打つ手がない。六角領内に噂を撒こうとしても、甲賀あたりが邪魔をするだろう。九十九衆はまだ、畿内まで勢力を伸ばせていないのだ。なにより、まだ関東すら纏まっていない。佐竹を降し、旧上杉勢力と武田勢力を飲み込むのに最低でも五年は必要になるだろう。その五年間で、織田信長は一気に飛躍するかもしれない。
「東と西で、割れるやもしれんな」
日本の未来を賭けた、東西の激突を予感した。