長親の一所懸命
「甚三郎殿、これはどういうことか?」
忍城から戻った武田甚三郎守信は、降伏の交渉に失敗したことを伝えた。武田守信は新田家中でも屈指の智将である。また礼法も修めており、交渉に失敗するとは誰も思っていなかった。
「申し訳ない。某の伝え方が悪かったのです」
守信は包み隠さず、自分はどのように伝えたのか、その反応はどうだったのかを伝えた。長門広益や南条広継は、黙って聞いた後に首をかしげた。高圧的に聞こえたのかもしれないが、これは降伏勧告なのである。忍城は確かに攻めにくい立地ではあるが、城内には小者たちまで含めても二〇〇もいない。それを一万二〇〇〇で包囲しているのだ。強気の姿勢を見せて降伏を促すのは、当たり前であった。
「どうやら、見窄らしい田畑という言葉が気に入らなかったようなのですが……」
守信の言葉に、その場にいた将たちは丸墓山から忍城を見下ろした。周囲を取り囲んでいる田畑は歪で、稲の伸びも悪い。利根川を挟んだ北の宇都宮城では、田畑は整然と整えられ、伸びた稲が青々と風に揺れている。
使用している道具はともかく、田畑の整備や植え方などは、簡単に真似ができたはずだ。実際、北条家はおろか上杉家でさえ、数年前から真似ていたのだ。本当に内政に関心があるのならば、新田の繁栄に少しでも近づこうと努力したはずだ。それなのになんの工夫も見られない。見窄らしいと言われても仕方がないだろう。
「確かに、御当家ではいったんは、農民からも土地を取り上げる。だがそれは田畑を整備し、畦道や水路を整えるためだ。その間に、田植えの仕方や道具の使い方を教える。そうすることで、驚くほどの収穫が得られるようになる。だから人が集まる。少し考えれば解るはずだ」
柏山明吉は吐き捨てるように言った。土地に誇りを持つこと、民を慈しむこと自体は、美点ではある。だがそのための具体的な行動が伴わなければ、ただの夢想家でしかない。現状が少しでも良くなるよう、情報を集め、頭を悩ませ、案を練り、そして民を動かす。これが国人領主の役目ではないか。
「ですが、民からの人気はあるようですね。あれを見てください」
南条広継が指さす。そこには、次々と、老人や女たちが忍城に詰め掛けていた。
「長親様はなんも出来ねぇんだから、俺らが助けてやんなきゃ、しゃぁあんめぇよ!」
五〇過ぎの男が、笑いながらそう怒鳴っている。その光景に、正木利英は首を傾げた。なんなのだ? なんでこんなに、皆が長親を慕っているのだ? 普通であれば、こんな負け戦に誰も加わろうとはしないはずだ。にもかかわらず、長親が戦をすると宣言すると、途端に大勢が集まってきた。男だけではない。女や一〇にも満たない童まで集まってくる。
「皆、すまぬ。俺が我儘を言ったのだ。皆で一緒に耕した田圃が馬鹿にされて、どうしても許せなくなった。皆が馬鹿にされたような気がしたのじゃ。そいで戦すると言ってしもうた。皆、許してくれぇ!」
その夜、城内に集まった一〇〇〇を超える民たちに対して、成田長親はそう叫んだ。まるで子供の言い訳のようだ。これでは士気が下がるのではないか。利英は思わず、止せと小声で長親を諫めた。
だが民たちの様子がおかしい。普通であれば、勝手に戦を始めた長親に罵声が飛ぶはずなのに、シンと静まり返っている。利英には、それが不気味だった。
「俺らの田圃が、馬鹿にされた?」
「皆で一緒に耕したのが、馬鹿にされたのか?」
呟きが広がっていく。やがて火が付いた。
「ふざけんなぁ! 長親様と一緒に耕した田圃が、馬鹿にされたってのか! 皆で一緒に耕して、皆で一緒に収穫することの、何が悪いんじゃぁ!」
誉れ。長親にとっても、百姓にとっても、忍城下に広がる田畑と、共にそれを耕した時間は、誉れなのだ。百姓にとって、田畑とは我が子である。そしてそれは、長親にとっても同じだったのだ。大事に育てている我が子を愚弄されて、怒らぬ親などいないだろう。
(一所懸命…… 長親にとっての一所懸命とは、百姓たちと共に苦悩と喜びを分かち合うことか。百姓仕事など、武士のやることではないと言ってきたが……)
これはこれで、一つの在り方なのではないか。未だに納得できないが、目の前の光景がそれを示している。男たちはおろか、女子供までが一斉に気勢を上げている。新田何者ぞ! 徹底的に戦ってやると叫んでいる。そしてそれは、城内に残された僅かな兵や小者にまで、疫病のように移っていく。
「「「えいっ、えいっ、おぉぉっ!」」」
城内の者たちまで、皆が一つになり鬨の声が上がる。利英は思わず、長親に視線を向けた。この男、こうなることまで見越していたのか? だが長親は、泣いているような、笑っているような顔で、同じように叫んでいるだけであった。利英は顔を戻して頷いた。
「勝てるぞ、これなら……」
城内の兵や民たち併せて一二〇〇が一つになり、鬨の声が響いた。
忍城の鬨の声は、新田軍がいる丸墓山にまで聞こえた。見下ろす新田の名将たちには、忍城全体が士気に包まれ、まるで焔のように燃えあがっているように見えた。
「これは、拙い。殿が言われていたのは、このことか!」
柏山明吉は思わず叫んだ。成田長親には、統治の才も戦の才も無いのかもしれない。だが周囲から慕われる不思議な魅力があるのだろう。負けと判っている戦に民たちを参加させ、そしてここまで士気を上げさせるなど、尋常な将才ではない。
「……俺が新田家に入る前だ。七戸家が田名部に攻めようとしたことがあった。その時、田名部の民二〇〇〇は皆が死兵と化し、田名部を守ったそうだ。今は亡き先代様は、この民がいれば南部晴政にも勝てると確信したそうだ。それを思い出した」
長門藤六広益も、険しい表情を浮かべている。城にいるのは五〇前後の老いた男や女子供ばかりであろう。だが油断はできない。この戦続きの関東で、生き残ってきた者たちなのだ。ただでさえ攻め難い城の上に、あれほどの士気を持った兵たちがいるのだ。攻めるならば、相応の傷を覚悟しなければならないだろう。
「不覚ッ……」
武田守信は小さく呟いて俯いた。主君、新田政盛からは気をつけろと言われていた。成田長親が、民たちと共に百姓仕事をしていることも知っていた。だが従来の常識で考えて、侮ってしまった。降す道もあったはずなのに、結果として厄介な敵を生み出してしまった。
「敵にしてしまった以上、仕方がありません。ここは次策を考えましょう。負けたわけではないのですから」
南条広継が、落ち込む守信の肩に手を置いて慰めた。
史実においては、天正一八年の忍城の戦において、石田三成を対象とした豊臣方二万三〇〇〇が忍城を包囲する。それに対し、北条方であり城代であった成田長親が束ねる三一〇〇(内、雑兵二六〇〇)が、孤立無援の中、水攻めを受けながらも城を守り抜き、北条の降伏をもって城門を開けることになった。
豊臣秀吉が、その生涯において堕とせなかった唯一の城、それが忍城であった。
だが、長門藤六広益を総大将とする新田軍、一万二〇〇〇によって取り囲まれた「この忍城」は、史実とは状況が異なる。まず目標が違う。成田長親らの目標は、武蔵七党の軍一万が戻ってくると見込まれる七日間を耐えることである。一方の新田軍は、その武蔵七党一万をせん滅することである。忍城攻めはそのための手段に過ぎない。
もう一つ、異なる状況がある。それは兵站の問題であった。新田の勢力圏は利根川以北である。当初の計画では、忍城を降し、兵站は忍城にある兵糧を使う予定であった。そして、忍城落城をもって武蔵七党を動揺させ、北の藤岡城と南の忍城とで、挟み撃ちにし、短期に北武蔵を押さえるはずであった。
仮に忍城が降伏しなくとも、僅かな兵しか残されていないのである。一万二〇〇〇をもって攻め掛かれば、半日で落城する。負けると判っている戦に、老いた者や女子供が加わるはずもなく、民が雑兵として加わることなど計算していなかった。
「前提が崩壊している以上、次策を考えるしかありません。忍城の様子を聞いた武蔵七党は、このまま藤岡城を攻めるわけにはいかぬと判断し、退くでしょう。藤岡城から追撃が出ることを想定し、戻ってくるまで六日から七日と見込まれます。一方、我らの兵糧は一〇日分しかありませぬ。城を攻めるのならば、最低でも五日で終わらせねばなりません。あの士気を相手にしては、困難を極めます」
「つまり、城攻めを捨てるわけか?」
長門広益の問い掛けに、南条広継は頷いた。目標は武蔵七党を屠ることであり、忍城を獲ることではないのだ。武蔵七党が戻ってくるのであれば、それを迎え撃てばよい。藤岡城からの追撃を受け、這う這うの体で利根川を渡ったところに、一万二〇〇〇が待ち構えるのだ。圧倒的な有利で戦えるだろう。
「野戦であれば短期に決着がつきます。あの異常な士気に付き合う必要などありません。忍城はこの際、放っておきましょう」
「だが、利根川に向かったところで後背を攻められないか?」
その問いに、南条広継は首を振った。あの士気は一時的なものだ。孤立無援の守勢という絶望的状況でこそ、あの士気は燃え上がる。積極的な攻勢に出る場合は、もう一度、火を付けなければならない。戦を仕事とする侍たちはともかく、百姓中心の雑兵は、戦が無くなったことに安堵し、とても攻める気になどならないだろう。
「念のため、備えを置きましょう。二〇〇〇も置いておけば十分です」
「某が……」
武田守信が名乗り出る。勝てると判っている野戦での活躍を捨てて、必要かどうかも分からない後背の備えに当たるというのだ。自らへの罰のつもりなのだと皆が思った。
「相分かった。既に、藤岡城にも状況は伝わっている。忍城は残念ではあったが、最終的に勝てばよいのだ。画竜点睛を欠いた程度と考え、切り替えよう」
総大将の長門広益がそう締める。それから三日間、新田軍は忍城を包囲し、遠方からおざなりに鉄砲の威嚇射撃などを行った。そして四日目の朝、新田軍は忍城から忽然と姿を消した。
「田圃が荒らされずに、良かったのぉ」
呆気に取られている忍城の男たちの中で、成田長親だけが嬉しそうに笑っていた。