狭野の決戦(後編)
新田家の弱みは将が足りないこと。かつてはそう見做されていたこともあった。だが奥州を統一し、伊達、最上、蘆名、田村を降した新田家は、その弱みが解消されている。新田軍本陣から見て右翼の総大将は長門藤六広益であるが、副将には元伊達家の名将である鬼庭周防守良直、片倉壱岐守景親、蘆名四天の一柱であった松本図書介氏輔が並ぶ。その歴戦の将たちが、目の前の光景に歯軋りしていた。
(まるで、焼けた鉄の玉を土手っ腹にぶち込まれたような……)
(これが……上杉か)
「弓隊、放てぇっ!」
大音声で指示を出したのは、鬼庭良直であった。齢五四まで幾度も視線をくぐり抜けてきた猛者は、迫り来る上杉の突撃にも肝を冷やすことはなかった。一瞬だが忘我となっていた片倉景親、松本氏輔も、解き放たれたように一気に動き出す。
「上杉謙信が自ら先頭を駆けるとき、上杉の男たちは鬼人と化す。一撃で敵を屠る正に必殺の突撃だ。だがこれは初見破りよ。長原で儂に見せたのは、失敗であったな」
会津長原の合戦で、長門広益は上杉謙信の車懸りを受けている。あのときは抑えられずに突破されたが、それから幾度も調練の中で、車懸りの対策を練ってきたのだ。
「鬼庭、片倉、松本らはそれぞれに食い止めよ。足止めでよい。真っ正面から受けようとするな。本命は謙信が率いる隊よ。それは儂が受け持つ!」
練兵を重ねている新田軍の動きは、もともとは速い。炎天下のため多少は動きが鈍っていたとしても、農民兵が主体の上杉軍に劣るものではない。上杉謙信という存在が、神通力のような影響を与えているのだ。ならばその元を絶てば良い。
「斜陣に構えよ。上杉は真っ直ぐに突っ込んでくる! それを外に受け流し、広げるのだ!」
まるで飛んでくる鉄砲の弾を逸らすように、長門広益の部隊に突っ込んだ上杉軍は外側へと逸らされた。
「……効かぬか」
上杉謙信は駆けながら戦況全体を俯瞰していた。毘沙門天の神通力は、自軍のみならず敵にも影響を与える。一万もの上杉の益荒男たちが、殺気と闘気を一つに束ねて敵にぶつける。車懸りを受けた敵は戦慄し、そこに荒ぶる男たちが突っ込む。車懸りが持つ圧倒的な破壊力の秘密であった。
だが目の前の敵は怯むことなく動いている。車懸りを読んでいたというだけではなく、それに対する策も用意しているということだろう。だが謙信は止まるつもりはなかった。この戦が生涯最後と決めていたからである。
四男であった自分は、本来は長尾家を継ぐことはなかった。菩提寺の林泉寺で僧として生きるはずであった。父が死に、兄が死に、割れる越後を纏めるために、自分が立つことになった。三七年の生の中で、様々に醜いものを見てきた。それが人の業だと思いつつも、受け入れられない自分がいた。もし生き延びたら、今度こそ僧として余生を過ごそう。生まれ変わったら、戦とは無縁の生を送りたいと思う。
だが今、業の極地を生きようとしている敵と対して、不思議と醜さを感じなかった。自らの手で乱世を終わらせる。そのためなら何十万でも殺す。そう嘯く大欲の男。だが業もそこまで突き詰めると、不思議な輝きを放つようになる。その輝きが、自分の何かを変えた。
「ならば俺も素を出そう。己が魂を燃やし尽くし、一個の修羅として挑む。それでもなお、輝き続けるか。見届けてくれるわ」
弓と盾によって、馬の角度が変わる。斜めに逸らされていた。意図的に導かれている。ならばその先にいるのは……
「放てぇっ!」
轟音が響いた。鉛玉が頬を掠める。毘沙門天の化身は、猛々しい笑みを浮かべた。
「上杉は強いのぉ…… 初見であったなら、あるいは届いたやも知れぬ。じゃが、一度見せた策が二度通じるほど、新田は甘うないわい。越中殿もちゃんと読んでおる。詰みじゃの」
上杉軍が車懸りを仕掛けてくることは、田村月斎も読んでいた。車懸りは呼吸を合わせてこそ、その破壊力が生きる。突撃を逸らされれば各個撃破の的となる。南条越中守広継は、斜陣によって逸らされ、連携が乱れた上杉軍に、鉄砲を射かけ続けた。それは恐ろしいほどに正確で、着弾までの僅かな時間差まで、計算されていた。戦況を冷静に読む知能と、鉄砲への造詣の深さがあってこそできる長距離攻撃であった。
「右は良し。問題は左か……」
月斎は左翼に視線を向け、そして険しい表情を浮かべた。上杉の車懸りと共に、武田の横陣も動き始めていた。だがいつの間にか、その形は徐々に変わり、そして一つの陣形となって突っ込んできたのである。
「鋒矢の陣じゃと? 信玄も退く気はないようじゃな」
↑の形をして一気に突っ込んでくる。強い突破力を持つ反面、横からの攻撃に極めて脆く、攻めに特化した陣形である。信玄はこの陣形を取るために、中央を膠着させたのであった。
だが短期決戦を前提とした攻撃特化の陣である。迎え撃つ側はわざわざ相手にする必要はない。柏山明吉を総大将とする左翼が動く。魚鱗の陣形であった。
「早い。柏山といったか。相当な戦上手と見た」
馬上の信玄は思わず感嘆の声を漏らした。魚鱗の陣形はより多い敵を迎撃するときに使う陣形である。敵とぶつかった部隊を繰引き(※部隊ごと交代させること)することにより堅牢性を確保する。攻めではなく守りの陣である。
赤い甲冑を付けた騎馬隊が突っ込んでくる。ドンと重厚な衝撃が伝わる。柏山家の旧臣である三田主計頭重明は、かつてない手応えに一瞬だが驚いた。これまでの如何なる敵よりも強い。本能的にそう察した重明は、嫡男の義広と矢島満安を前に出す。両名とも戦を重ねることで、自分を超えるほどの豪勇の侍大将に育っている。そのうえで自分も、目の前の好敵手を相手にすべく前に出た。
「老いたりといえど、虎は虎よな。生涯最後の戦に、昂っておるわ」
信玄は目を細めた。弟と共に、自分を支え続けてくれたもう一本の片腕。武田家元筆頭家老、飯富虎昌は齢六三とは思えぬ大音声を叫びながら、剛槍を軽々と振った。
三田重明もまた、その姿にある種の感動を覚えた。自分ももう五〇を過ぎている。嫡男をはじめ後進も育っている。あと幾度、戦に出られるか知れない。老いてもなお戦い続ける名将の姿に、武人とは斯く在りたいものと思った。自然と、腕に力が入る。
「好敵手とお見受けする! 奥州前沢城より出し三田主計頭重明と申す! 一槍、まみえたし!」
「おぉっ! 新田家の剛将にして、目長田三番勝負をされた一人か! 面白い! 我が名は飯富兵部少輔虎昌、儂の最後の相手に相応しき敵よ。いざ、尋常に勝負!」
両将とも笑みを浮かべながら、槍をぶつけ合い始めた。
上杉謙信は自ら先頭を駆け、車懸りを仕掛けてくる。一方、武田信玄は後方から巧みに兵を動かす。良し悪しではなく、両名の気質の違いだが、これは南条越中守広継の読むところであった。そのため上杉謙信を相手には斜陣で受け流しつつ、鉄砲隊の狩場へと誘い込む計算であった。その計算は、半分は的中した。上杉謙信は確かに、狩場へと誘われた。あとはひたすら撃ちまくれば、それで決するはずであった。
「怪物とは思っていたが、これほどとは……」
上杉謙信が太刀を振りながら突っ込んでくる。信じ難いことに、致命的な弾を太刀で逸らしているのだ。さらには馬を巧みに操ることで、以前のように馬を撃たれての落馬まで防いでいる。
「突っ込んでくるぞ!」
兵の半分以上を失いながらも、ついに上杉謙信は南条広継の鉄砲隊に届いた。だが謙信の名馬「放生月毛」も傷だらけであった。鉄砲隊を抜いたところで馬が崩れる。謙信はその瞬間に馬から飛び降りた。
「槍を持てぇ!」
謙信のすぐ後ろについてきた近習が槍を渡す。フォンッと風を切って槍を構えた謙信は、そのまま徒歩で新田本陣に突っ込んだ。その後ろに次々と死地を越えた兵が続く。
「いかんっ! 殿が!」
南条広継も馬を駆けさせる。だが上杉謙信のほうが早い。本陣に突っ込んだ謙信が見たものは…… 無人の陣内であった。謙信をはじめ、皆が一瞬、呆気にとられた。そしてそこに、多数の鉄砲と矢が射かけられた。
「阿呆が。俺には武人の誇りだの美学だのはない。本陣に来ると解っていれば、それを餌に誘うのは当然であろうが。ここで謙信を打ち取る。ありったけ射かけろ!」
謙信が車懸りを始めたときに、又二郎は本陣まで届くであろうことを読んだ。軍神と呼ばれた戦国最強の武将が、そんなに簡単に負けるはずがない。必ず本陣まで押し寄せてくる。ならばどうするか。本陣を捨てて後方に下がり、そして潜む。突っ込んできたところを長距離攻撃で一気に仕留める。それが又二郎が描いた「神殺しの策」であった。
ここまでついてきた上杉の男たちが、次々と倒れていく。卑怯な、と叫ぶ者もいた。謙信は瞑目した。これは卑怯でもなんでもない。勝つためならば何でもやる。戦とはそういうものだ。いつの間にか、相手を自分の枠で捉えていた。正々堂々のぶつかり合い。本陣に届けば、新田又二郎は潔く散る。そう思い込んでいた。なぜなら自分であれば、そうするからだ。
「これが、俺の限界か……」
謙信は、自分の器の限界を知った。自分はどこまでも武人であり、天下人の器ではない。京に上り、幕府を立て直すなど、思い上がりであった。そんなことをしても、天下を安んじることなどできない。天下の姿を描けない自分は、天下人になってはいけないのだ。
「ならば最後まで、武士として散ろう」
ゆっくりと又二郎に向けて歩を進める。晴れ晴れとした気分であった。自分を識るということは、こういうことなのか。悟りとはあるいは、こういう境地なのかもしれない。
弾が掠める。肩に矢が刺さった。だがそれでも歩みを止めない。二本目が刺さり、三本目が刺さる。鉄砲の音が響く。ドスドスと身体に弾が食い込んでくる。だが謙信はそれでも歩き続ける。
その姿に、又二郎は目を細めた。だが逸らすわけにはいかない。しっかりと最後まで見続けなければならない。この業を背負って、それでも自分は天下を獲るために進み続けるのだ。謙信と視線が合う。その口元が微かに上がった気がした。唇が動き、そして眼から光が消えた。
(極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし……)
「皆、撃つでない! 止めよっ!」
又二郎が怒鳴ると、矢も鉄砲も止まった。一〇本以上の矢を受け、同じくらいに弾を浴びながら、謙信は立ったままであった。皆がその姿に戦慄する。中には跪いて拝む者もいた。それを咎める者は誰もいない。壮絶でありながら、美しい姿であった。
上杉不識庵謙信、三七歳でその歩みは止まった。