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狭野の決戦(中編)

 戦が始まってから、まもなく一刻半が過ぎようとしている。がんまく、らんまくの兄弟は、武田甚三郎守信が率いる軍に所属していた。長兄のがんまくは、当初こそ文字すら読めない農民であったが、機転が利き人の面倒見も良く、気がつけば足軽頭となり、禄も二〇〇石を得ていた。小頭を務める弟を含め、一二〇人をまとめている。あと数回の戦で活躍できれば、ひょっとしたら侍大将まで出世するかもしれない。もっとも本人は、百姓出身の自分はそんな柄ではないと思っていた。


「なんだ? 動きが悪いぞ」


 がんまくは指示を出しながら、足軽たちの動きの鈍さに険しい表情を浮かべていた。新田家では苛烈な調練が行われる。鍛えぬいた足軽たちでさえ、三日に一度は、胴回りをつけた状態で長距離を駆けさせられる。身体の力を維持するためだ。その精兵たちが、息を切らせているのだ。


「暑さのせいか」


 頬から汗が滴った。「伍」を作らせ、交代で水を飲ませながら戦い続けているが、自分の想像以上に疲弊が早い。相手が自分たちよりも鍛えられているとは思えないのに、ほとんど五分で戦っている。ここは一度退いて、立て直すべきではないかと思った。


 中央軍を束ねる武田守信も、それは感じていた。だがここで中央が退けば、左右にいる上杉、武田が全面に出てくるのではないか。左右に展開した南条広継率いる鉄砲隊や、柏山、長門などの名将たちが押さえてくれるだろうが、勢いづいた敵中央軍がそのまま押し寄せ、果てしない死闘になるのではないか。その懸念から、守信は決断できないでいた。


「これまでの相手とは違う。北方育ちが多い我らの弱点を見越して、この時期に戦をすることまで、読んでいたというのか?」


 まさかという思いがある。だが同時に、そう考えると説明できることも多い。そもそも唐沢山城の北条(きたじょう)の離反から妙であった。唐沢山城一つが独立したところで、行き詰まることは目に見えている。粗忽と言えばそこまでだが、曲がりなりにも要所を任せられる武将が、そこまで愚かだろうか。


「唐沢山の独立、上州国人衆の混乱、佐竹の動き、北武蔵国人衆の北上、そして上杉謙信の南下…… このすべてが武田信玄の描いた図面であったとしたら……」


 そんなことが人間に可能なのかと思い、首を振った。今さら考えても仕方がないことである。法螺貝の音の後に、大太鼓が三回鳴らされた。一旦、退けという合図である。武田守信はすぐにその指示の意図を悟った。


「中央全軍で一気に押し返し、すぐに退く。左右翼の動きに気を付けよ!」


 武田と上杉がどう動くか。それを見極めるためである。騎馬隊を出して敵の何箇所かに穴を開け、足軽対でその亀裂を広げたところで退く。亀裂は表面だけであり、すぐに塞がることは目に見えていた。





「予想通りじゃのぉ。武田も上杉も、まだ機が熟しておらぬと見抜いたか」


 田村月斎はそう言って空を見上げた。夏の日差しが強い晴天である。陽が天頂を過ぎれば、気温はさらに上がる。盆地で戦うことに慣れている上州軍や武田軍に、さらに有利な状況となる。決戦は午後となる。両軍がそう考えていた。

 又次郎は本陣に留まったまま、ジッと動かずにいた。湧き上がる不安を押さえ、膝を揺すりたくなる衝動を堪える。相手は武田信玄と上杉謙信なのである。武将としての能力も実績も、自分よりも格上なのは間違いない。それを相手にする以上、下手な指示を出すよりも、それに伍すると期待した家臣たちに任せるしかない。部下を信頼して任せるのも、上に立つ者の器量なのだ。


(武田、上杉、佐竹、上州、武蔵…… 反新田をまとめて叩き潰し、関東を北条に任せる。だが信玄は、新田に各個撃破をさせず、戦場をここに限定させた。上杉に北武蔵を荒らさせ、成田をはじめとする北条の国人たちを新田憎しで固めさせることで、対武蔵について新田に受け身の形を取らせた。北武蔵を先に攻めれば、上州は一気に宇都宮まで攻める気配を見せただろう。一方、佐竹攻めに集中すれば時間が掛かり、結果として北条まで反新田となったかもしれない。新田は奥州人、関東人にとっては異人。この弱みを突かれたか……)


 どちらがどちらを戦場に引き摺り出したのか。今となっては何とも言えない。圧倒的な国力を持つ新田は戦略上ではほとんど勝ちに近い優勢だが、狭野という局所に限れば、追い詰められているのかもしれない。だが今さら撤退するわけにはいかない。この合戦は関東のみならず、信越、東海の大名国人たちが注目している。撤退すれば今度こそ、北条も小田も離反するだろう。


「戦況は今のところ五分…… 中央軍はこのまま潰し合いが続く。要は左右の動きか」


 この決戦に至るまでに、勝つための算段は整えたはずである。新田には、まだ隠している兵力があるのだ。だが越後から上州、そして狭野までは遠い。早く着いても、遅く着いても無意味である。


「左衛門尉には九十九衆の手練れが付いている。戦が始まったことも伝わっているはずだ」


 理想としては左右を撃破し、追撃が始まった段階で合流するのが望ましいが、それは出来過ぎだろう。撃破できるかどうかが、まず問題なのだ。又次郎は、いつの間にか揺すっていた右膝を手で押さえた。





 武田信玄は床几に腰を据えたまま、瞑目していた。この合戦で、確実に新田又次郎を討ち獲らなければならない。敵の鉄砲隊を突破し、一気に本陣を攻め落とす。そのために中央を硬直させた。ここまでは読み通りであった。だがそれでも、勝てる可能性は三割にも満たないと思っていた。


「兄上、お呼びでしょうか」


 武田信繁が本陣に来ると、信玄は閉じていた目を開いた。


「信繁。其方も解っていようが、間もなく、儂の生涯で最後の決戦が始まる。儂自らが出る。さもなくば、新田本陣には届くまい。だが其方には、ここに残ってもらう」


「なっ! 兄上っ!」


 兄こそが甲斐の支配者。幼少よりそう信じ、ここまで支えてきた。兄は自分の期待を越え、甲斐武田家を最盛期へと導いた。その兄が死を覚悟している。ならば自分も共に死ぬ。そう我が儘を言って、ここまでついてきたのだ。それを今さら、生き残れと言うのか。信繁はそう激高しようとした。だがその前に、兄がそれを止めた。


「勘違いするな。其方にはあるいは、儂以上の死地に立ってもらうやもしれぬ」


 信玄は机に広がった上州の地図を示した。


「ここまでは、儂の読み通りに進んできた。だが新田は奥州の覇者。甘う見てはならぬ。新田には、まだ余力がある。佐渡、北越後にいる石川左衛門尉高信だ。儂が新田又次郎であれば、間違いなくこれを動かす」


「ですが兄上、越後は上杉殿によって、まとまっているのでは?」


 弟の意見に信玄は首を振った。越後の国人衆は、元から長尾家に忠を尽くしてきたわけではない。武田家のような守護としての歴史がないのだ。上杉謙信が不在となれば、身を挺して越後を守ろうなどという国人はいないだろう。数千の新田軍が通ろうとすれば、敵対を恐れて素通しするに違いない。


「時は、今でこそ我らの味方だが、いずれは新田に味方するようになる。後背に無傷の新田軍数千が現れれば、我らは総崩れとなるだろう。其方と真田は、後方の備えとして置く。この役目は重要ぞ。其方を置くからこそ、儂は安心して攻められるのだ」


「兄上……」


 無論、それだけではない。もし負ければ、武田家は窮地に追い込まれる。家督を譲った武田太郎義信はまだ若い。新田を相手にするには力不足である。自分の死後、武田家をまとめられるのは弟しかいない。

信玄は、自分を信じて支え続けてくれた実弟には、何としても生き残ってほしかった。その願いを察した信繁は、苦渋の決断をするしかなかった。この三〇年、兄に意見はしても、その決断に逆らったことはない。ならば最後まで、兄に従うべきだろう。


「……承知しました。兄上、御武運を!」


 武田信繁と真田幸隆は、総勢一五〇〇を率いて後方へと退いた。





 一旦は相互に退いた中央軍が、再び激突する。陽は天頂となり、気温もさらに上がってきている。上杉謙信は立ち上がり、正面を見据えた。越後から新田の別働隊が迫っている。だがその前に新田又次郎の首を落とせば、それで決着はつく。後は武田が上手くまとめるであろう。自分の中に潜む何かによって、ここまで来た。それが何なのか、謙信はようやく理解した。


(俺の中にいたのは、毘沙門天ではなく修羅であったか……)


 ただ一個の武士(もののふ)として、巨大な敵と相対したい。死力を尽くして戦い、そして燃え尽きたい。欲のために戦うことを非難してきた自分が、己の欲のために戦おうとしている。だが不思議なことに、それを醜いとは思わなかった。ひょっとしたら、生涯で初めて、自分に素直になったのかもしれない。

 普段は寡黙で無表情な謙信の口元に、笑みが浮かぶ。近習の者たちは、一様に目を瞠った。そして表情が引き締まる。いよいよ始まるのだ。上杉の益荒男たちの、最後の戦いが。


「始めるぞ。弥次郎(※柿崎景家)からだ」


 太鼓が響き、旗が動く。柿崎景家、甘粕景持、竹俣慶綱、山本寺(さんぽんじ)定長など上杉家の重臣、名将たちが一斉に動き出す。その軍の動きはまるで生き物のようであった。全軍をもって段階的に攻めることで幾何級数的な破壊力を生み出す「車懸り」である。

そして謙信もまた、自らの愛馬「放生月毛」に跨がった。馬廻りたちも一斉に騎乗する。「毘」の旗が掲げられた。謙信自らの大音声を叫んだ。


「駆けに駆けよっ!」


 益荒男たちが一斉に咆吼し、敵めがけて疾走する。上杉謙信、生涯最後の突撃が始まった。


本作「三日月が新たくなるまで俺の土地!」の第一巻が、アース・スターノベル様より出版されています。ぜひお手にとってくださいませ!


挿絵(By みてみん)

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[一言] 三無という夢と実績に対する何も持ち合わせてない 奴らが身勝手な戦で殺しまくる。武士はともかく兵は 何考えてるんだ? 民の離反で戦いにならず、みっともない最後を迎えるがいい。
[一言] ここに近衛前久がのこのこ現れたら笑えますね。
[一言] 武田信玄はもとより上杉謙信も、義だなんだいっても関東にコメ強奪しに来るならず者みたいなもんですしね。
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