一〇年の差
夜明けと共に、武田軍は三毳山から撤退した。後背を突かれた新田軍の被害は思いのほか大きく、二〇〇〇を超える兵を失った。一方、武田方もほぼ同等の被害を出しており、三毳山の戦いは結果だけを見れば引き分けであった。だが無論、当事者たちの考えは違う。
「月斎、具合はどうだ?」
田村月斎は七〇過ぎにも関わらず、矢と槍の傷を受けながら奮闘した。致命傷ではないにしても、十分な重傷である。陣幕内で手当を受けていた月斎を見舞った又次郎と長門広益は、その場の光景に唖然とした。
「御主らは些か、頭に乗っておったのではないか? 軍師たる者、裏の裏の裏まで読まねばならぬ。殿はまぁ、仕方がない。生まれたときからこれまで、負けを知らずに駆けてこられたのだ。足下が見えぬこともあろう。じゃが、それを支える謀臣まで足下が見えなくなってどうするというのじゃ」
「面目次第もありませぬ」
寝込んでいたと思っていた老軍師は、寝板の上で胡座し、酒を飲みながら南条越中守広継、武田甚三郎守信ら謀臣二人を立たせて説教をしていた。すり潰した薬草を塗った傷口を縫い、さらしを巻いた半裸の状態だが、老人とは思えぬ筋骨隆盛な肉体を露わにしている。
「月斎爺。なぜ寝ておらぬ。死にかけたのだぞ?」
又次郎は苦笑しながら床几を用意させ、立たされていた軍師たちも座らせた。この二人は十分に反省している。これ以上攻める必要はないと判断した。
「フンッ、あの程度で儂は死なぬわ。それより、殿にも苦言せねばならぬ。思いのほか南側が早く退いたから良かったものの、それでも辛うじてじゃ。あと半刻でも長引けば、殿の首は落ちておりましたぞ? 大将たるもの……」
「まず生き残ること。解っておるわ。こんな無茶はもうせぬし、このような危機は二度とない。であろう?」
軍師二人が強く頷く。主君が啄木鳥と読んだときに、更に裏の可能性まで気づくべきだったのだ。陣中でもっとも冷静でなければならないのに、これで勝ったと浮かれ、敵の立場から読むことを怠った。軍師二人は、血が流れるほどに唇を噛んだ。
老いた軍師の前に座る。七〇過ぎだというのに夜を徹して戦い続けた。よくぞ生き残ってくれたという思いから、自然と口調が柔らかくなる。
「それにな…… 自分のために死なれたほうは、堪らんよ」
月斎は何も言わずに、グビリと酒を干した。照れているのかもしれない。又次郎は話題を変えた。
「それにしても、さすがは武田信玄よ。あの男が一〇年早く生まれていたら、天下を諦めざるを得なかったかもしれぬな。さて、被害も大きいがそれ以上に兵たちの士気が落ちている。これから見回るつもりだが、その前に確認しておきたい。越中、上杉はいつ頃来ると思うか?」
「武田の策は本来、啄木鳥によって我らを狭野に追い落とすことでした。たとえ引き分けでも、そこに無傷の上杉軍が駆けつけてくる。そう考えると、今夕、あるいは明朝かと思われます」
「うん。藤六。柏山の二万が上州軍を打ち破るのに、どの程度掛かると思う?」
「戦の展開次第ですが、一日か二日は掛かるでしょう。上州軍をまとめる長野業盛は、若年ながらも歴戦の勇将と聞きまする。それが守りに入れば、手強いかと」
最悪を想定して三日とするならば、武田と上杉の連合軍を相手に二日間は粘らなければならない。夜襲を受ける前であればそれも可能であったが、無視できない被害を受けた状況で、無傷の上杉軍を迎え撃つことは難しい。今後について、武田甚三郎守信が進言した。
「殿、ここは一旦、撤退すべきではないでしょうか。三毳山を東に降りて、柏山殿と合流するのです」
「当然、武田は三毳山を取ることになるな。そして唐沢山と挟んだ狭い地で戦えば、我らは挟撃を受ける。つまり岩舟から先、上州を後回しにするということか?」
「必ずしも三毳山が獲られるとは限りませぬ。武田、上杉には時がありません。我らが長期戦の構えを見せれば、必ず何らかの動きを見せます。三毳山を取らずに上州軍と合流し、狭野まで退くことも考えられます」
兵糧の問題からも、武田信玄は短期決戦を考える。だがあまりに優位な地で決戦となれば、新田は乗ってこない。少なくとも此方が、五分以上の戦いができると判断できる地となれば、やはり狭野しかない。
「まずは負けぬことを考えるべき、ということか。戦の仕方も変わったな」
又次郎はそう呟いた。田名部三〇〇〇石の頃は、南部家という巨大な敵を相手に戦っていた。陸奥や出羽でも、常にギリギリの戦いであった。そして今、新田家は日ノ本でも最大の大名となった。戦の仕方も必然的に変わる。
「よし。ここは一旦、三毳山を降りて柏山、田村と合流する。その上で腰を据えて上州を攻めよう」
又次郎はこれまでの戦の方針を転換し、物量戦へと切り替えた。新田家の戦の仕方は、ここから変わることになるのであった。
「新田は三毳山を降りるであろう。もはや奇策は通じぬ。正面決戦となる」
武田信玄は陣中に家臣たちを集め、今後の方針を述べた。三毳山はあえて獲らない。三毳山を獲れば、新田は上州攻めを後回しにする。そうなれば上州は兵糧不足に陥る。ここはなんとしても、新田を決戦に引きずり出さなければならない。
「明日には、上杉や上州兵たちも狭野に退いてくる。この地で新田と決着を付ける。互いの兵数はほぼ互角。ここで新田の進撃を止める」
夜襲における武田軍の被害はおよそ一五〇〇程度であった。八五〇〇の兵に、上杉軍と上州軍二万が加わる。一方の新田軍はおよそ二万八〇〇〇、数の上では互角だが選択肢は新田のほうが多い。武田としては兵糧の問題からも、秋までには戦を終えたいと考えていた。
「申し上げます。上杉より使い番が目通りを願っております」
軍議の中、唐沢山方面に向かっていたはずの上杉から使者が駆け込んできた。信玄は使者が差し出した書状を一読し、軍師である山本勘助に渡した。目を通した勘助は複雑な表情を浮かべ、他の将に説明した。
「上杉は、あと数刻で合流するとのこと。また上州軍も明日の昼までには駆けつけてくるそうです」
「数刻だと?」
「兄上、これは……」
「謙信は、儂の策を読んでおったということであろう。上手くいけば武田だけで新田を討ち、その足で空の箕輪城を狙うつもりであったが、そうはさせまいとしたのだ」
武田信玄は野心家である。ただ新田と戦うだけではなく、その先まで考えていた。もし新田又次郎を討ち取れば、越後、上野、下野あたりまで草刈場となる。
武田は甲斐、信濃、駿河を持つ大国である。あと一回り大きくなれば、天下を狙えるだろう。上州を押さえれば、東は安全となる。新田に従属した上杉も混乱して動けない。その隙に上洛のために西進する。それが信玄の描いた図面であった。
「一〇年、遅かったか……」
信玄は小さく呟いた。武田信玄が天下を諦めた瞬間であった。