三毳山の戦い
本作「三日月が新たくなるまで俺の土地!」第一巻が、2月15日にアース・スターノベル様より出版されます。本作の流れを踏襲しつつも、新たな登場人物を加え、展開も少し変わっております。なにより、口絵がとてつもないレベルの完成度となっております。
出版された際はぜひ、お手にとってくださいませ。
戦国時代の夜というのは、現代人には想像しがたいものである。地平の彼方まで明かり一つない砂漠地帯の夜と考えれば、少しは思い描けるだろうか。簡単に言えば、足下どころか手元を見ることすら困難なほどに闇が深いのが、江戸時代以前の夜である。
そのため夜戦というものは、日本史上全体を見ても数が少なく、日本三大奇襲のうち二つ(河越夜戦、厳島の戦い)に夜戦が挙げられるほどである。闇の中で安易に戦えば、ほぼ間違いなく同士討ちが行われる。夜戦、夜襲というのは、現代人が思っている以上に、困難を極めるものであった。
永禄九年(一五六六年)水無月(六月)、狭野東部にある三毳山の南東を静かに動く軍勢があった。馬場美濃守信房と真田弾正忠幸隆が率いる三〇〇〇の別働隊である。新田に従属した上杉とは違い、武田軍には新田の間者が入り込む余地はなかった。ただでさえ甲斐の閉鎖的で貧しい土地で、互いに助け合いながら生きてきた者たちである。さらにそこに、武田信玄の「厳選」まで行われた。見ず知らずの者は排除され、身元確かな者たちだけで構成されている。これは、小領を治める国人だからこそできることである。各農村からの徴兵であり、各国人の目の届く範囲で選別されるからだ。これは、新田家にはできないことであった。
「新田は油断なりませぬ。当主の又次郎は戦にも強いと聞いておりまする。此方の策を読んでいるとまでは申しませぬが、動きに違和感を持っている可能性は否定できませぬ」
「つまり、警戒が厳しいということであろう? だが犬伏からここまで、三杉川を使って回り込むように来たのだ。如何に新田とて、動きを掴んではおるまい」
真田幸隆の懸念を馬場信房は否定した。武田の別働隊三〇〇〇は、完全に日が落ちてから動き始めた。武田本陣がある犬伏と三毳山の距離は、直線距離でおよそ二里である。地元の者を道案内に雇い、回り込むような形で四里の距離を動いてきた。満月ならば気づかれたかもしれないが、幸いなことに月明かりは少なかった。
「今宵は三日月。月明かりも少ない。まったくの無警戒ではなかろうが、新田は犬伏に向けて北西を特に警戒していよう。南東への警戒は緩いはずだ」
「確かに…… それに万一、夜襲への備えがあったとしても、そのときは一旦退き、本軍と挟む形で攻めれば良うござる。そこに上杉が加われば前後挟み撃ちとなり、新田は進退窮まりましょう。守りに入った三毳山を落とすことは厳しいかもしれませぬが、大いに痛手を与えることはできまする」
二人は頷き合い、そして兵に号令を下した。日付が変わる頃、武田三〇〇〇の別働隊が、三毳山南東部から一気に山を駆け上がり始めた。狭野の戦はまず、この三毳山夜戦から始まった。
甲冑を着たまま板に横たわっていた又次郎は、眠ることなくその時を待っていた。ガシャガシャという音が近づいてくる。
「申し上げます。南東より所属不明の軍三〇〇〇が攻めてきております」
又次郎は立ち上がり、そのまま外に出た。あらかじめ予想していたとはいえ、陣中は思いのほか混乱している。南条広継と武田甚三郎守信が兵を指揮していた。
「全軍で迎撃する。寝ている奴は叩き起こせ。まずはここで、敵の別働隊を完全に打ち砕くのだ。その上で、武田と上杉が合流したところを挟み撃ちにする。まずは鉄砲だ。狙う必要などない。下に向けて適当にぶっ放せ!」
戦とは、とにかく相手に主導権を握らせないようにしなければならない。現時点では、主導権は武田が握っている。だがそれは、極めて微妙な均衡である。ここで武田の別働隊を壊滅させれば、その天秤は新田側に大きく傾くだろう。当然、別働隊を率いる馬場信房、真田幸隆も同じことを考えていた。ここで新田を三毳山から追い落とせば、天秤は一気に武田に傾く。
「火縄を使うのは、此方を近づけさせないためだろう。闇の中に潜む我らには、確かに恐怖を与えるものだ。だが種火の灯りによって位置を教えてしまうという欠点もある。近づいてしまえば此方が有利だ」
馬場信房は三千の兵をさらに三つに分け、三方向からの同時攻撃を仕掛けた。兵力が違うとはいえ、闇の中からいきなり仕掛けられれば、どんな兵でも混乱する。又次郎は鉄砲から弓矢、さらには槍へと持ち替えさせて迎撃したが、後方から矢を射かけられるなど、意外なほどの難戦となった。
「考えてみれば、夜襲を受けるのはこれが初めてか。調練を積み重ねているとはいえ、実戦はやはり違う」
又次郎は舌打ちしたが、それでも一万の兵がいるのである。あらかじめ夜襲を受けることを予想していたため、逃げ出すほどに追い詰められてはいない。しばらく踏みとどまれば、やがて混乱も収まるだろう。そうなれば一気に攻勢に出られる。
新田軍の様子に、真田幸隆も顔を顰めた。思いのほか守りが固い。つまり新田は、夜襲まで読んでいた。このままでは自分たちは反撃を受けるだろう。一瞬、ここは退くべきか迷った。
「しまった。三方向攻めをしたため、我らだけが退くわけにもいかぬ。まぁ良い。ここで散るのも悪くないわ」
状況としては最悪なのだが、真田幸隆は朗らかにそう笑った。出陣したときから、命は捨てているのだ。ならばどこまでも宇曽利の怪物の首を狙う。叶わずに散ったところで、史に名は残るだろう。
「押せっ! ここが命の賭けどころぞ!」
謀臣とは思えぬ命令を下し、真田幸隆自身、前に出た。
「敵は寡兵だ。無理をせず、落ち着いて戦えば良い。あと一刻もすれば、相手も呼吸が切れる」
武田守信は冷静に指示を出した。山攻めでは守り手が圧倒的に有利である。その理由は、攻め手側は山を駆け上がるため、体力の消耗が激しいからだ。守り続ければ必ず攻勢に転じる機が生まれるだろう。
南条広継も同様に考え、とにかく兵を落ち着かせ、守りを固めることに集中していた。三毳山に陣取る新田軍一万のすべてが、南東に意識を向けていた。その中で唯一、怪老田村月斎だけが、本陣で地図を見ていた。
「なにか妙じゃのぉ。啄木鳥という策は解る。じゃが、それだけであろうかのぉ」
自分が武田信玄の立場であれば、二重、三重の罠を仕掛ける。三〇〇〇の兵で一万の兵を攻める。夜襲が嵌まれば良いが、此方が備えている可能性も、武田信玄ならば見越している筈である。ならばどのような策を打つか……
「一〇〇〇ほど、儂について参れ。北の警備を厳重にするのじゃ!」
七〇過ぎの老人とは思えぬ機敏な動きで、田村月斎は兵を率いて三毳山の北へと向かった。そしてその予感は的中した。いよいよ攻勢に転じようかとしていた又次郎に、急進が届いた。
「申し上げます! 北方にて敵の夜襲を受けておりまする!」
「なんだとっ! しまった! 啄木鳥の本命は北か!」
三〇〇〇で後背を突き、狭野に追い落とすのが第一の策。だがそれが叶わない場合は、第二の策として北から七〇〇〇で攻め、三毳山で新田を挟み撃ちにする。山本勘助が立てた二重の策に、又次郎は気づいた。
「俺が行く! 越中と甚三郎は南に集中させよ!」
又次郎は直属の部隊である三〇〇〇を率いて、三毳山を駆けた。
「攻め上がれ! 敵は南に集中しておる。ここが攻め時ぞ!」
武田典厩信繁が指揮する二〇〇〇が三毳山を一気に駆け上る。その後方から、飯富虎昌が同じく二〇〇〇を率いて続いていた。武田信玄は本陣にて地図を眺めながら、口端を歪めた。
「宇曽利の怪物は負けを知らぬ。圧倒的な物量と優れた謀臣たちの策により、勝ち続けてきた。当然、此方の動きを疑う。裏を読む。そして恐らく、その洞察は届く。啄木鳥だと喝破する。そして喝破したら疑わぬ。なぜならこれまで、油断なく策を巡らせ、物量と知略により勝ち続けてきたのだからな!」
三毳山から鉄砲の音が響く。信玄は床几から立ち上がり、陣幕を出て三毳山に視線を向けた。あの山が燃え上がるとき、自分の勝ちが確定する。そしてその時は間もなくだと感じていた。
「月斎、よく気づいてくれた! 誰かある! すぐに手当を!」
田村月斎は寡兵ながら鉄砲隊を指揮して、時間稼ぎをしていた。そこに又次郎率いる三〇〇〇が駆けつける。だが武田軍はすでに陣に届くほどに近づいていた。槍隊による混戦が始まっている。
「殿。ここは儂に任せてお逃げなされ。東から山を駆け下り、岩舟まで退くのじゃ」
月斎はすでに肩と腿に矢を受けていた。命に別状はないだろうが、このまま指揮を執らせ続けるわけにはいかない。下がらせようとした又次郎に、老いた軍師は逃げるよう進言した。
だが又次郎は首を振った。確かに今なら逃げられるだろう。だがここで退けば、軍師三人を失うことになる。そして何より、身中の中に潜む怪物が、撤退を許さなかった。
「退かぬ! まだ負けたわけではない。南は間もなく片がつく。越中たちも駆けつけてくる。この程度で逃げて、どうやって天下を獲るというのだ!」
獣の顔が前面に出る。口端から涎が滴った。月斎は目を細めて、又次郎の後ろに控える石川田子九郎信直に視線を向けた。信直は槍を握り、胸を張った。どこまでも主君と共にあるという意志の現れである。
月斎は息を吐いた。ここで説得している時間はない。木柵が倒れ、武田の兵が押し寄せてきた。又次郎の近習たちが防戦する。又次郎自身、槍を手にした。
「最後まで、殿をお守りするのじゃ。殿さえ生きていれば、負けではない」
田子九郎にそう言って、老軍師は手当を受けることなく混戦の場へと戻った。
空が白み始める。武田信玄の表情は険しいものとなっていた。本来ならば、三毳山が燃えているはずなのだ。だが火の手は上がらない。あれから更に、軍師である山本勘助自身が二〇〇〇を率いて攻めたのに、まだ決着が付かなかった。兵の気力、体力にも限界がある。これ以上の継戦は難しいだろう。
「仕留め切れなかったか……」
追い詰めたのは間違いない。だがあと一歩が足りなかった。人智を尽くしてなお、勝てなかったのである。これが自分の運の限界なのかと思った。
「撤退を指示せよ。これ以上は此方の被害も無視できぬ」
陣幕に戻る信玄の背中は、まるで負け戦をしたかのように、力を失っていた。