啄木鳥
現在の栃木市から西に進むと、佐野市がある。この町の歴史は古く、平安時代には「佐野庄」という荘園名が出てくる。越後と奥州それぞれからの道が、この佐野で結ばれ、そして関東へと続く。佐野は古来、東日本における交通の要衝であった。
佐野という地名には、幾つかの説がある。奈良時代、蝦夷討伐のために東北地方へと出征する者たちから見て、左側にある平地であったから「左野」から「佐野」となった説。万葉集東歌の「安蘇山」、「三毳山」、「赤見山」などに囲まれた狭い平野であり、この地形から狭野が転じて佐野となったという説がある。
その三毳山に一万の兵と共に本陣を置いた又二郎は、北に広がる安蘇山塊に目を向けた。安蘇山塊とは群馬県から栃木県に広がる山々の総称であり、銅山で有名な足尾や、唐沢山も含まれる。
「三毳山を押さえることができたのは祝着至極にございますな。この山は上州、唐沢山、北武蔵を睥睨する要衝でございます。これで我らが有利となり申した」
「と言うよりは、武田や上杉が捨てたと言ったほうが良いでしょう。この山を押さえられたら、我らは長期戦に持ち込むしかありませぬ。敵も、それを忌避したのでしょう」
奥州からの補給線を確立している新田は、長期戦となってもまるで困らない。敵は違う。武田、上杉、上州の国人たちを合計すれば三万以上の兵力になる。当然、それだけの兵を食わせていく兵糧が必要であり、上州一国では賄いきれない。武田信玄があれこれと策を弄したのは、すべて短期決戦に持ち込むためであった。
「ですが、彼らに付き合うのはここまでです。我らはこの三毳山に陣を張り、敵が動くのを待ちます。短期決戦を望む彼らは、鉄砲が待ち構えていようが関係なく、此方に仕掛けざるを得ません。あるいは北武蔵の動きを待つかもしれませんが、そこは蠣崎宮内殿が押さえています」
「上杉や武田の兵はそれなりに鍛えているでしょう。ですが上州の兵など農民が鍬の代わりに槍を持っただけです。一方、我らの軍は奥州で戦いに戦い、鍛えに鍛え抜いた精兵揃い。勝負は見えておりまする」
「柏山殿が率いる二万も、岩舟を進発しているはず。唐沢山を押さえれば、三毳山と線でつながり、我らの勝ちは決したも同然でござる」
長門藤六広益は無表情のまま、本陣内を見渡した。本陣で開かれた軍議では、弛緩した空気が流れていた。確かに新田軍の方が圧倒的な優勢にある。だが優勢と勝利は違う。それまで黙っていた又二郎が、牛蒡茶の入った器を机上に置いた。ゴトンッという思いの外大きな音がして、皆が口を噤んだ。弛緩した空気に緊張が走る。若き当主はギロリとした眼差しで、家臣たちを睥睨した。
「思い上がるな。武田信玄、上杉謙信。日ノ本でも屈指の傑物が揃っている。上州を束ねる長野業盛は、幼少から父親である信濃守(※長野業正)と共に武田と戦い続け、若年ながら歴戦の猛将として知られている。従う家臣たちもまた名将揃い。それらが皆、退路を断ち、死兵と化して挑んでくるのだ。これまでのどの戦よりも、厳しいものとなろう」
家臣たちは一斉に一礼した。皆の顔つきが一変している。長門広益は内心で頷いた。これで良い。一兵卒ならば緩んでいても良いだろう。だが将は違う。将が緩めば、それは軍全体へと波及し、思わぬ落とし穴に嵌まる。古来、勝てる戦で負けた事例の多くが、自軍の油断が原因なのだ。
「予定通り、柏山殿、田村殿が率いる二万をさらに進め、唐沢山城を押さえるべきでしょう。三毳山と唐沢山を結べば、上州全体が袋の鼠となります。その上で、狭野の地で決戦となるでしょう。ですがそれは武田や上杉も見越しているはず。何らかの動きがあるはずです」
「そう。それが気になる。上杉謙信という男は、戦場において神懸かりの力を発揮する。だがそれは、戦術に限定された力だ。より有利な場所に戦場を設定するという戦略の力が、上杉には欠けていた。これまではな……」
「武田信玄は、その戦略の力に優れておりまする。この二つが揃っている以上、決して油断はできませぬ。思わぬ策を仕掛けてくるやもしれませぬ」
軍師たちも顔を引き締めて進言する。五〇〇年後にも名を残す戦国時代の英雄を二人同時に相手にするのだ。又二郎の中には、敗北の二文字すら浮かんでいた。
新田軍が三毳山に入ったことは、当然ながら武田・上杉連合軍にも伝わっていた。武田信玄は床几に座りながら、机上の地図を眺めていた。手に持っている碁石がカリカリと音を立てた。
「なんとか五分の状況まで持ち込んだか。だが新田は、これ以上は動くまい。この狭野の地で決戦となれば、敵味方入り乱れての混戦となる……」
三毳山にパチリと黒い石を置いた。今回の戦は新田又二郎の首を獲ることが目標である。そのためには、敵本陣を落とさなければならない。三毳山にいる本陣をどのように攻めるかが問題であった。小高い丘ではあるが、下から攻めれば被害が大きい。
「勘助、策はないか?」
同じように地形図を眺めていた山本勘助は、白い碁石を置くと、ツツと動かした。回り込むように三毳山の側面へと滑らせる。それだけで武田信玄は察した。
「啄木鳥か」
「御意」
「どれくらいだ?」
山本勘助は胸元に指を三本立てた。敵の諜者が潜んでいるかもしれないのだ。戦場では言葉を最少にする。それが軍師山本勘助であった。そしてそれを許し、察するだけの知略が主君にはあった。
「弾正と美濃に任せよう」
真田弾正忠幸隆と馬場美濃守信春である。指揮力、判断力に優れ、現場で万一が起きても冷静に動くことができる。新田軍三万といっても、三毳山にいるのは本隊の一万のみ。そこに三〇〇〇で奇襲を掛ければ驚いて山を駆け下りてくる。そこを武田と上杉の本隊が迎え撃つのだ。
問題は、こちら側の連携である。武田と上杉が呼吸を合わせなければならない。だが下手に動けば新田に露見し、各個撃破されるかもしれない。武田信玄は紙を一枚、取り出した
『啄木鳥や 落ち葉をいそぐ 狭野の木々』
下の句は付けない。所謂、連歌である。だが重大な意味が込められている。落ち葉をいそぐというのは、本来は冬の句である。それをあえて、夏の時期に詠む。これだけで伝わるだろう。武田信玄は使者を出すと、三毳山方面に軍を進めた。
狭野に軍を進める上杉謙信は、その途上で書状を受け取った。一読すると、馬上で矢立(中世の携帯筆記具)を手にした。
『降りしる雪も 明けに彩り』
降りしる雪とは、三毳山を降りてきた新田軍を指す。明けに彩りとは、朱けのこと。つまり新田軍が包囲殲滅される様子を指す。上杉謙信は上の句を黙読して、一瞬で武田信玄の策を察したのである。
「御実城様」
使者に持たせて送り返した後、柿崎弥次郎景家が確認した。だが上杉謙信は一度頷いただけであった。それだけで景家も、重大な策であること察して黙った。新田の諜者は、間違いなく軍内に潜んでいる。下手なことを口にするわけにはいかない。
「唐沢山に向かう。弥五郎(北条高広)と合流する」
上杉謙信に率いられた越後、上州勢二万は、三毳山に背を向けて、唐沢山方面へと移動した。新田軍は一万が三毳山、二万がその後方である岩舟に位置している。武田信玄は恐らく、一万を三毳山方面に進める。自分たちは岩舟の二万に備えて動いていると、新田からは見えるだろう。事実、唐沢山城を獲られれば、三毳山と唐沢山で線が繋がり、上州は完全に封鎖され、自分たちは攻めあぐねる。上州勢にもそう伝えている。
(新田は恐らく。岩舟の二万を前に進めてくる。唐沢山の麓は狭い。回り込めず、正面からぶつかることになる。ならば鉄砲がある分、新田の方が有利となる。そう読むだろう)
だが狭いということは、包囲される心配もない。守勢に徹すれば寡兵でも耐えられるということだ。二万を足止めしている間に、新田を狭野の平地に追い落とし、上杉と武田の連合軍で一気に討つ。新田軍二万が、上州勢を食い破って狭野に流れ込む前に、決着をつける。それが武田信玄、上杉謙信の描いた絵図面であった。
「殿、武田と上杉に動きがありました。上杉・上州連合は唐沢山城を守るために動いているようです」
三毳山の新田軍本陣では、諜報部隊である九十九衆から、続々と情報が入ってきていた。軍師たちがそれらをまとめ、今後の戦況を描く。南条広継、八柏道為、武田守信の三人は、それぞれ地図上の駒を動かし、戦況を予想していた。
「武田と上杉が離れた。武田が我らを押さえている間に、上杉は唐沢山を押さえつつ、柏山殿率いる二万を迎撃するつもりであろう」
「つまり、唐沢山麓での決戦ということか。動きだけを見ればそうだが……」
軍師たちの言葉を聞きながら、又二郎はジッと地図を見つめていた。動きだけを見れば、南条広継たち軍師三人衆の言うとおりなのである。だが何か、違和感を覚えていた。それは軍師たちも同じであった。
「素直すぎるのぉ」
干し肉を食みながら、田村月斎はそう呟いた。そう、芸がなさ過ぎるのだ。仮にここで、新田が負けたとしよう。一万以上を失う大打撃を受けたとしよう。だが、そもそも互いの国力が違う。這々の体で宇都宮城まで撤退したとしても、新田は一年もあれば回復できるのだ。武田・上杉は短期決戦を望んでいる。その割には、動き方が平凡すぎた。
「儂であれば、どこまでも殿の首を狙うがの」
田村月斎の言葉に、又二郎も頷いた。自分であれば、武田・上杉。上州の三万で一気に三毳山を攻める。無論、後背を柏山明吉、田村隆顕に見せることになる。一日か二日で三毳山を落とし、敵総大将の首を獲る。失敗すれば後背を突かれるため、危険な賭だ。だがそれくらいしなければ、この状況を覆す方法はない。
「この戦況…… どこかで……」
又二郎は床几から立ち上がり、地図が置かれた机をグルリと回った。別の角度から地図を見ようというのだ。そしてピタリと歩を止めた。
(唐沢山を茶臼山に例える。そして俺たちがいる三毳山を妻女山とすると、武田信玄の一万が海津城となるわけか。武田には山本勘助がいる。可能性としてはある)
「殿?」
又二郎は無言で駒を手にして、武田信玄の一万から、別働隊の駒を動かした。そして唐沢山からも駒を動かす。それを見ていた軍師たち四人が一斉に頷いた。
「なるほど。啄木鳥ですな」
「山を駆け下りた状態では、我らの陣は整っておりませぬ。その隙をついて挟み撃ちにする。仮に戦が長引いても、上杉が後から駆けつけてくるというわけですか」
「となれば、策は簡単です。これを逆手に取ればよいのです。まず全軍で別働隊を迎撃し、これを討ちます。その後、我らはここから動かず、柏山殿の二万が、数が減った上州勢を打ち破るのを待ちます。そして、この狭野で武田と上杉を包囲すればよいのです。柏山殿と呼吸を合わせれば、各個撃破ができるでしょう」
永禄九年(西暦一五六六年)、関東大乱における最大の戦となる、狭野の戦いが始まった。