関東大乱の始まり
パチリ、パチリ……
宇都宮城の大広間では、沈黙が広がる中で扇子を開閉する音だけが響いていた。
「で、武田は新田に臣従すると言うのか?」
「ハッ! 甲斐、信濃、駿河の三ヶ国をお渡し致します。そこで何卒、先代徳栄軒様の御命だけは、どうかお助けください」
永禄九年卯月末、宇曽利から戻ってきた又二郎は、その翌日に武田からの使者と対面した。使者は高坂弾正忠昌信であった。百姓生まれながら、武田信玄の小姓として仕え、政戦両略を学んだ名将である。その佇まいは涼やかで、それでいて武将としても第一級であることが伺えた。新田でいえば南条広継に近いだろうか。
「それは無理だ」
又二郎のにべも無い返答に、高坂昌信は言葉に詰まった。
「先代が勝手にやったこと。我らは新田と戦をするつもりは無い…… などという言い訳が通用すると思うなよ? 一万もの軍勢を整えるには、武田家全体が動かねば無理であろう? つまり、当主の太郎義信も承知の上で、信玄は上州に出陣したのだ。宿老の飯富をはじめ、山本勘助や真田幸隆など、錚々たる顔ぶれが並んでおる。手加減をして戦える相手ではない」
南条越中をはじめとする軍師たちや、長門藤六ら武将たちも一斉に頷いた。彼らは又二郎が留守の間、九十九衆を使って徹底的に武田、上杉の武将たちを調べていたのだ。この時代、武将は自分の名を知らしめるために、武功を喧伝する。調べようと思えば簡単に調べられた。
「恐れながら武田信玄の力量は、亡き南部晴政公に匹敵するか、それを上回るやもしれませぬ。しかも、副将となっている飯富虎昌は老年ながらも歴戦の名将。山本勘助、真田幸隆は軍師、謀臣として名が知られておりまする。助命を前提に戦をすることなど、とてもできませぬ」
八柏道為は、珍しく険しい表情を浮かべて進言した。又二郎は頷いて、高坂昌信に返答した。
「高坂殿が選べる道は一つだ。先代を説得せよ。いま降るのであれば、命まで獲ろうとは思わぬ。正室殿と共に、駿河に居を構え、不自由ない余生を過ごせるようにする。武田の家臣たちも同様だ。新田に仕えられぬという者は、隠居暮らしを認めてやる。無論、当主の義信殿もな」
極めて寛大な条件であることは、使者として来た高坂昌信も、認めざるを得なかった。今回は、武田から新田に仕掛けたのである。普通であれば、皆殺しにされても文句は言えないのだ。
だが高坂昌信にも譲れない一線があった。百姓の家に生まれ、一六の時に父を失い身寄りが無かった自分を取り立ててくれたのは、先代である武田信玄なのである。なんとしても助けたかった。
「この使命、果たせぬならば……」
高坂昌信は懐から短刀を取り出した。ザワリッと大広間に殺気が広がる。又二郎は慌てて叫んだ。
「止めろ!」
自分の腹に付き立てようとした短刀を止めたのは、蠣崎政広であった。
「止められよっ! 腹を切って何になるか!」
「腹を切らねば、気が済みませぬ。我が命と引き換えに、どうか、どうか……」
「たわけがぁっ! 貴様の命などいらぬわっ!」
揉みあいになっている姿を見て、又二郎は立ち上がって怒鳴った。苦虫を噛み潰したような顔になり、ドカリと座ると、盛大に溜息をついた。
「月斎爺、戦に勝ちながらも助命する策はあるか?」
騒ぎの中でも泰然としている老軍師に、又二郎は策を尋ねた。田村月斎は、顎鬚を撫でながら、まるで悪戯をするかのように面白そうに笑った。
「グフフッ、あるぞ。武田、上杉を相手に完勝しつつ、かつ信玄の命を救う方法が一つだけある。戦をせぬことよ」
「月斎殿、それは……」
武将たちが首を傾げる中、南条広継は慌てた。それ程に悪辣な策ということであった。
「上州一国で、四万もの軍勢を維持することなど無理であろう。半年もすれば兵糧が不足し、飢えるようになる。北越後は既に新田の統治下にあり、兵糧の調達は信濃からか、あるいは北武蔵からしかできぬ。じゃが北武蔵にも、そんな余裕はあるまい。つまり、義信殿が父親を見捨てれば、結果として信玄を救うことができるのじゃ」
死に場所を求めてきた武士たちに、戦をさせずに飢えさせる。なんと悪辣で非情な策であろうか。だが悪辣ではあるが卑怯ではない。そしてその効果は抜群だ。一兵も損ねることなく、上州四万に完勝できるのである。
その策を聞いた長門藤六広益をはじめとする武将たちは、皆が顔を顰めた。たとえそれで勝ったとして、その勝ちは誇れる勝利なのか。むしろ、己自身を貶める行為ではないのか。
「月斎爺、解っていて言っているだろう? 武田も上杉も、死を覚悟して最後の戦に挑んできたのだ。恐らく将たちも誰一人、生きて帰るつもりはあるまい。俺は天下を獲る。だが獲り方というものがある。新田は、益荒男からの挑戦に、背を向けることはせぬ」
田村月斎は頷いて自分の意見を引っ込めた。だが同時に、そこが新田又二郎政盛の限界だとも思った。土地を取り上げ、新たな国を打ち立てるという大戦略のためには、武士たちの心を掴まなければならない。だからこの選択は仕方がないのかもしれないが、本来、戦とは勝てば良いのである。ここで受け身になってどうするのか。謀を駆使して主導権を手にしていながら、戦場においてそれを相手に渡すことになるのだ。優勢と勝利とではまるで違う。今はとにかく、勝つことに集中すべきではないのか。
(甘いのぉ…… まぁ、名にし負う武田信玄公と、軍神上杉謙信を相手に全力で戦えるのじゃ。これが生涯最後の戦となったところで、恥ではないの)
高坂昌信はそのまま、宇都宮城の座敷牢に入れられた。牢とはいっても、布団もあるし食事もしっかり出される。むしろ腹を切らせないための措置であった。又二郎は、武田の仕置きを一旦横に置き、全軍に戦支度を始めさせた。
「大殿。我が手の者が、宇都宮城より戻りました。どうやら戦に決したようです」
「フン。太郎の奴め。儂の助命のために、源助(※高坂昌信)を使者に出したのであろう? 戯け者めが。あたら重臣を粗末にするなど…… 当然、囚われたであろうな」
「御明察。すべて大殿の読み通りでございます」
「よし。交渉役として真田を新田に送れ。此方も蠢動し、できるだけ新田の注意を上州に引き付けるのだ。新田はいま、上州を睨みつつ岩城を攻めている。そこで、新田の急所を突く」
武田信玄はいつの日か新田と戦う日が来ることを予見し、以前から情報を集めていた。その中で気づいたのは、新田又二郎という人間の「拘り」であった。謀を巡らせるくせに、最期には堂々と決戦に及ぶ。例えば小野寺との三本勝負である。自分が小野寺の立場であれば、勝負を受けたと見せかけて又二郎を殺している。卑怯者と言われようとも、まずは勝たねば意味がないのだ。
(正々堂々というのは、そのように見せておけば良いのだ。大将たる者、自ら死地に立つものではない。真正面からの決戦に応じてどうする? 要するに、若造なのだ)
奥州武士の心を掴むためだというのは理解しているし、決して新田を侮るわけではない。むしろ一人の男としては敬意さえ抱いた。だがどこかに「甘さ」がある。非情になり切れない部分があるのだ。それが新田陸奥守又二郎政盛の限界なのだと感じた。
「……羨ましくもあるがの」
「忍人」と呼ばれた信玄ではあるが、情がまったく無い者に、あれほどの名将たちが付いていくはずがない。甲斐国は、夏は暑く冬は寒い。米すら獲れぬ山間の貧しい土地である。その土地に生まれ、北条や今川という大国と隣接しながらも家を大きくしていくためには、非情になるしかなかった。卑怯卑劣、裏切り者と後ろ指を指されながらも、歯を食いしばって耐えてきたのだ。
環境が、武田信玄という傑物を磨き上げたと言って良い。その信玄から見れば、甘さを持ちながらも家を大きくした又二郎が、羨ましく思えた。自分が自分のままに生きられるのであれば、人は幸福であろう。
「いやはや、見事なものでございまするな。この宇都宮の繁栄ぶりに比べれば、我が真田乃荘など襤褸小屋の集まりでございまする。甘味処まであると聞きますれば、帰りに食っていきとうごいますな」
宇都宮城に、明るい声でお喋りな男がやってきた。武田家の重臣、真田弾正忠幸隆である。笑みを浮かべているが、その表情の裏には様々な謀を忍ばせている。謀臣とはそういうものなのだ。
「で、武田の謀臣が何用だ? 俺の顔を見に来たのか?」
「それもありまする。なにしろ僅か一〇年で奥州を統一し、日ノ本最大の大名となられた御方ですからな。宇曽利の怪物と呼ばれた方は、果たしてヒトなのか。この目で確かめとうござった。この機を逃せば、次は首しかお目に掛かれませんからな」
「ほう……」
つまり来たる戦では、又二郎の首を獲ると言っているのだ。横に並ぶ南条越中守広継と八柏道為は、主君に視線すら送らなかった。明らかな挑発であるが、安すぎる。それに乗るような又二郎ではない。
「で、他に用件は? 無いのであればお帰り頂こうか。俺は忙しい」
「いやいや。ここからが重要でござる。僭越ながらこの真田めが、陸奥守殿に天下の獲り方を指南して差し上げたくて、ここまで参り申した」
「クックックッ、天下の獲り方か。俺には頼れる軍師たちがいる。だが其方は、越中や道為とはまた違った謀臣だな。良く回る口を活かして、はぐらかしつつ策を忍ばせるか?」
「某の言葉に間違いがあると思われるならば、どうぞ遠慮なくお斬りくだされ。この策を用いられれば、新田は三年で天下を獲れましょう」
「面白い。言ってみよ」
真田弾正忠幸隆は胸を張った。
「されば、陸奥守様は優先順位を間違えておられる。まず優先すべきは天下の統一。新田は既に日ノ本最大の兵力を持っておられる。誰も逆らえませぬ。土地を取り上げるのは、天下統一の後でもできましょう」
「かもしれぬな。だがどうやって統一する?」
「そこで、まず……」
真田幸隆は、右手をドンと床に付いた。
「銭を差し出しまする。そして『どうじゃ? 本領安堵の上に、其の方にこの銭を遣わす故、新田に臣従せぬか? 臣従すれば其の方の土地は、新田軍一〇万が守ってやるし、新田の内政によって土地は肥え、豊かになろう。家臣領民皆が幸せになるのだ。どうじゃ?』『ハハァ、それはそれは、誠にもって忝し。是非是非、陸奥守様の臣下に御加え下され……』とまぁこのように、本領安堵し銭を差し出せば、皆がこぞって臣従を申し出てくるようになり、戦無く簡単に天下を獲れまする」
まるで役者のように芝居を交えながら、真田幸隆は天下統一の策を述べた。唖然とする軍師たちをおいて、又二郎はクククッと嗤った。
「面白い策だのぉ。で、銭差し出して本領安堵すれば、武田や上杉は臣従するか?」
「それは無論でございまする。本領安堵を頂ければすぐにでも……」
「たわけがっ! 信玄がそんな器かっ!」
又二郎の一喝で、幸隆は黙った。
「銭差し出して本領安堵すれば、信玄坊主は頃合いをみて裏切り、自ら天下人を目指すであろう。本領安堵と銭だけで満足するような輩ばかりなら、誰かがとうに天下を安んじておるわ! 南部晴政しかり。伊達晴宗しかり。武田信玄しかり。身中に餓狼を飼う者は、そのような小人の幸福では決して満たされぬ。自らが上に立ち、日ノ本の果てを領するまで、戦いを止めぬ。無論、俺もな」
野望に燃えるギラギラとした眼差しに、幸隆は目を細めた。種類は違えど、主君と同じだと思った。自分の中には、あのような獣はいない。誰かに膝を屈するくらいなら死を選ぶ。天下を獲るか。道半ばで死ぬか。二つに一つしかないのだ。
幸隆は、ここまで来て良かったと思った。あとは怪物を煽るだけである。謀の仕上げに取り掛かった。
「されば、決戦しかありませぬな。我が主君、甲斐の虎は上州にてお待ち申し上げる。宇曾利の怪物と堂々と決着を付けたいと考えておられまする」
「良かろう。首を洗って待っていろと信玄坊主に伝えよ」
こうして、又二郎は上州への出陣を決めた。だが、関東大乱は予想だにしないところから始まった。真田幸隆が宇都宮城を出たその日のうちに、「三無」の旗を掲げた一万の軍によって、北武蔵から北条領がある武蔵中ごろまで、大規模な略奪、焼き討ちが行われたのであった。