関東大乱の前途
関東に颱(※中世における台風の呼び方)が吹き荒れようとしている。その中心に位置するのは、遥か北の果てから南下してきた怪物である。奥州を統一し、怒涛の勢いで関東に流れ込もうとしているが、鎌倉から続く坂東武者たちが、奥州武士の支配を簡単に受け入れるはずがない。恐らく一、二年の間、関東八州は荒れるだろう。
「大殿、宜しいでしょうか?」
「勘助か。構わぬ。入れ」
永禄九年(一五六六年)、武田信玄は家督を嫡男の義信に譲り、自身は躑躅ヶ崎館を出て、館からほど近い「湯村」に居を構えた。その名の通り、弘法大師が開いたと伝わる温泉が湧き出る土地で、信玄も気に入っていた。
(太郎が一人前になるには、あと一〇年は必要であろう。それまでは死ねぬ)
甲斐、信濃、駿河を得た武田は、北条に匹敵する大大名となった。だが、家督を継いだ太郎義信はまだ若く、新田という危機が迫る状況で家を束ねるには、やはり信玄の存在が不可欠であった。長生きをするためにも、こうした温泉地に居を構えたのである。
「上州箕輪から使者が来たか?」
「御明察通りです。それと……」
「皆まで言わずとも判るわ。佐竹からも来たのであろう?」
軍師山本勘助は黙って一礼した。家督を譲ってから、その切れ味はさらに増しているように感じた。家中のことから解放され、純粋に天下について考えることに集中できるからだろう。
家督を継いだ太郎義信も、その資質は決して悪くはない。だが父親とは違い根が陽性であるため、勘助自身は先代である信玄のほうが自分は相性が良いと感じていた。甲斐の虎と呼ばれた父親を追い出して家督を奪った先代と、父親から認められて家督を継いだ今代とでは、やはり気質に差が出てしまうものなのだろう。
「それで、太郎はなんと言っておる?」
「動かぬし、動けぬと」
「動けぬ、か……」
それだけで信玄は察した。北条が動かないのだ。となれば、武田が新田と対するならば、西上州から箕輪城に出るしかない。だが、隠居したとはいえ越後の上杉謙信は健在であり、その上杉家は新田に従属している。北条から攻められることは無くとも、信濃は不安になる。
それに兵力も問題であった。上州で一万、武蔵や下総の国人衆で一万、佐竹で一万としても、最大で見積もって三万である。武田が加われば四万を大きく超えるだろうが、それでも新田を止めるには不足である。北条と上杉が加われば、推定で八万になる。それでようやく五分といったところだ。
「勘助はどう思う?」
「短期で見るならば、殿の御判断は正しいと存じます」
「フム…… 長期で見れば?」
「二、三年は掛かるやもしれませぬが、新田は上州と武蔵北部、そして常陸を征するでしょう。そうなれば最早、新田を止める力は日ノ本には無くなりまする。御当家が選べるのは、臣従に近い従属がせいぜいでしょう」
信玄は無言のまま頷いた。確かに、軽々には動かないという点では義信の判断は正しい。だが、今動かなければ将来がないというのも事実であった。「動けぬ」というのは消極的な選択なのだ。そうした選択をせざるを得ない状況に追い詰められた。間違いなく、新田の謀略だろう。
「条件は、最低でも上杉が動くことか……」
「ですが輝虎、いえ謙信殿は動かぬかと。彼の御仁は義を重んじまする。少なくともそう見せておりまする。隠居し、新田に従属した以上、それを反故にすることはないと考えまする」
「だろうな。太郎に言われた程度では、上杉は動かぬだろう」
上杉謙信は美意識の強い男である。武田家とはいえ、自分より遥かに年下の、経験の浅い当主に言われて動くような男ではない。この状況で、上杉謙信を説得できる者がいるとすれば……
「儂が行く」
「大殿? まさか、御自ら越後に行かれると?」
「儂でなければ、謙信を動かすことはできまい。越後と武田の国人の中でも、特に反新田の者たちを選び、上州に出陣するのだ。太郎には動くなと伝えよ。武田が動くのではない。儂や謙信のような、旧き戦人が勝手に動くのだ」
山本勘助は察した。内心では、未だに主君と崇めている目の前の巨人は、武田の大掃除のために死ぬ気なのだ。今のままでは、新田に臣従どころか従属すらもできないだろう。国人衆が黙っていないからだ。だから、そうした者たちを束ねて新田と一戦する。新たな時代に適応できる若者だけを残すつもりなのだ。
「では、某も軍師として、大殿と共に征きまする」
「勘助よ。其方は武田の軍師。太郎にとって必要な男ぞ?」
「いえ。真田喜兵衛(※真田昌幸のこと)をはじめ、若い者たちも育ってきておりまする。某はもう六〇をとうに過ぎた身。この老骨を散らす最後の場をお与えくだされ」
信玄は返答することなく、代わりに近習に酒を持ってこさせた。目の前の老いた軍師に盃を取らせる。片目の醜男は、微かに手を震わせながら注がれる酒を受けた。
「其方が武田に来て、もう二〇年は過ぎたか…… 駆けに駆けた二〇年であったな」
「そうですな。特に砥石は、酷い戦でございました」
時折、笑い声を交えながら、二人の男の語り合いが続いた。
宇都宮城において、又二郎は逐次入って来る情報を整理していた。関東は風魔の結界内ではあるが、上州や北武蔵などでの限定的な活動は、風魔も見逃しているようであった。この辺は九十九衆を束ねる加藤段蔵と、風魔党棟梁の風魔小太郎との間で、何らかの密約が交わされたらしい。
「岩城、佐竹、成田をはじめとる武蔵七党、長野業盛が束ねる上州か。思った以上に集まったな。だが束ね役がおらぬ。所詮は烏合の衆よ。土地に拘る気持ちは解らぬでもないが、新田によって時代が変わるのだ。それに適応できぬ者などいらぬわ」
宇都宮城には、南条越中守広継、武田甚三郎守信、八柏大和守道為の新田家三軍師に、怪老田村月斎まで加わり、参謀府は万全であった。将も揃っている。長門広益、柏山明吉、三田重明、田村隆顕ら戦上手の将に加え、最上義光、蠣崎政広、九戸政実の若き武将三人も加えた。安東愛季は入れていない。気質的に内政の方が得意なので、北越後方面の内政整備を担当させている。
「相馬が正式に臣従を申し出てきた。この状況で、家中も纏まったらしい。一方、岩城は反故にしたな。文七郎(※遠藤基信のこと)、総次郎(※伊達輝宗)に伝えよ。面目が潰されたなどと考えるな。俺はなんとも思っておらぬ。義兄がケジメを付けてくれるゆえ、引き続き南奥州の慰撫に当たれとな」
最上源五郎義光は顔を引き締めて一礼した。これで、岩城攻めは最上義光が担当することが、ほぼ決まった。義光は一万石の家禄の半分を出して、氏家守棟を自分だけの軍師としている。二人三脚で、新田家の中で出世していくつもりなのだ。
又二郎もそれを良しとしていた。今は家禄の上限を一万石としているが、天下が片付けば三万石(※現在価値で三〇億円、当時の銭換算で約三万貫)に増やしても良いと思っていた。無論、その頃には米の価格も下がるため、銭の方が喜ばれるだろう。
「殿の神算鬼謀により、関東に一気に火が回りました。ですが懸念もありまする。北条は動かぬでしょうが、武田は解りませぬ。もし武田が動けば、火は勢いづきますぞ」
おい、悪巧みとか言うな。策の半分は、南条越中と田村月斎が考えたんだぞ。俺は相談し、そして決断しただけだ。
「それは我らも考えました。ですが、武田が動く条件は、最低でも上杉が動くことです。ですが上杉輝虎は隠居して謙信と名乗り、春日山城には新田の内政官も入っておりまする。幼き新たな当主の下で、縮小した上杉家を纏めることで精一杯でしょう」
「上杉謙信は従属を約束した。あの男は、一度吐いた唾を飲むような男ではない。隠居して毘沙門天に手を合わせている日々を棄て、己の生き様そのものを否定してまで動くとは思えん」
南条広継と又二郎の言葉に、八柏道為も頷いた。謀臣として、あくまでも可能性を提示しただけである。言った自分でさえ、上杉や武田が動くとは思っていなかった。
「フォッ! まぁ、最悪を想定しておくのは、軍師の基本じゃて。それで、仮に上杉と武田が動いた場合は、どうするかの?」
「佐渡島では、石川殿が八〇〇〇の兵とともに春日山城を睨んでいます。北越後はまだ十分に統治されているとは言えませんが、小野寺殿や安東殿がいます。新潟の湊開発も進んでおり、いざとなれば出羽からの援軍も迅速に送れることから、北越後が抜かれることはまずないかと」
「可能性があるとすれば上州への援軍として、武田と連合。信濃小諸から余地峠を越えて西上州に入る可能性でしょうか。箕輪城への援軍としては、それがもっとも早いかと」
老軍師の問い掛けに、二回り以上年の離れた壮年の軍師たちが答える。まるで師弟だなと思いながら、又二郎はその場合の敵の姿を想像していた。
(武田信玄と上杉謙信。援軍としては合計で二万から三万か? 上州国人が一万、北武蔵から一万、佐竹から一万…… うん? 最大で六万ということは……)
「上杉と武田が加われば、最大で六万程度にはなるかのぉ。新田憎しで固まった者たちに、武田と上杉という束ね役まで加わったら、果たしてどうなるかの?」
老軍師が面白そうに笑う。だが南条広継と八柏道為は、万一の想定を真剣に考え始めた。新田の石高は現在、およそ六〇〇万石。総兵力は八万五〇〇〇に届く。だが全軍を関東に向かわせるわけにはいかない。佐渡島に八〇〇〇、北越後に一万、そして岩城攻めに一万。さらに兵站まで考えると関東攻めに充てられる兵力は五万程度となる。
「信濃への間者は増やしておりまする。武田が動けば、すぐにでも報せが届きます。それに、北条が背後にいる以上、北武蔵の国人衆も好きには動けないでしょう。念のため、北条と小田に使者を出し、いざという時は兵を動かすよう、手筈を整えては?」
「いや、それはいけません。北条も小田も、新田に臣従しているわけではないのです。彼らの手を借りなければ上州攻めができないとなれば、逆に彼らは離反を考えるでしょう。ここは、我らの手だけで決着を付ける必要があります」
軍師二人が議論を始める。又二郎はそれを置いて、老軍師に顔を向けた。
「月斎爺。問題を提起した以上、解決策も考えておるのだろう? 年下の軍師たちに示してはどうだ?」
「フォッフォッ! 殿も、とうにお考えであろうがの。決まっておるわい」
軍師二人の議論が止まり、田村月斎に視線が集まる。老軍師は右拳を握りながら、メラメラと闘志を昇らせた。
「我らは戦人! 武田と上杉が出てくるのならば此れ幸い。五万対六万。関東の趨勢を賭け、血で血を洗う一大決戦をすれば良いのじゃぁっ!」
勝つために情報を集め、謀を巡らせるのは当然である。だがそれは、戦から逃げるということではない。短期間で関東の決着を付けるには、反新田をまとめて葬るための決戦をするしかないのだ。今更、彼是と迷うまでもない。殺し殺される大戦をしようではないか。
ゾクッ
八柏道為は背筋を震わせた。見ると、柏山明吉以下歴戦の武将たちが、ギラついた眼に変わっている。それは最上義光以下、若き武将たちも同じであった。主君に視線を向けると、そこには猛獣のように猛々しい笑みを浮かべる怪物が座っていた。