フロイスの商い
ルイス・フロイスは宇都宮城の城下にある客殿に滞在していた。平戸にある教会、そしてインドのゴアに結果を報告するため、使い古した筆記具を手にする。インクは既に切れているが、日本や明には「墨」と呼ばれるインクのような液体があるため、それを使って手紙をしたためる。万一、誰かに読まれても問題ないように、ラテン語を使って書く。
「日本の北は私の想像を遙かに超えて発展していました。大友様の領地など、新田様の領地に比べれば未開の土地の寂れた集落のようなものです。宇都宮城の町は、堺を上回るほどに活気があり、多くの人々が行き来しています。彼らは皆、清潔な服を着て、飢えている様子もありません」
まずは自分が見た新田領の様子を報告する。次いで、最も重要な布教の可否についてである。
「新田様は条件付きで、布教をお許し下さいました。新田領内にいる限り、新田の法を守ること。新田様はハッキリと、キリスト教の教えよりも、新田の法が勝ると断言されました。法を破らぬ限りは布教しても良い。ただしその法の中には、己の信仰を他者に押しつけてはならないという文言があり、自発的に信徒になりに来た者のみ、布教を認めるとのことです。これは私たちカトリックのみならず、既存宗教である仏教も同じ法を当てているそうです。新田様は、宗派によって弾圧することはしないが、特定の宗派を保護することも無いと言われました。今はまだ、私は新田様の客として扱われていますが、布教を本格化させるには、まずは拠点を設ける必要があります」
九州でも大きな力を持つ大友は、イエズス会を庇護し土地を与え、教会まで建ててくれた。財力のある現地協力者として、大友は心強い味方であった。だが新田は違う。差別はしないが援助もしない。やりたければ自分たちの力でやれというのだ。大友とて、領内のことならともかく、遠い地での布教のために大金を出すほど、お人好しではない。
「新田様は、私に商売を持ちかけてきました。布教のためには費えが必要であろう。それを稼ぐために、新田と商売をせよというのです。新田様は大友様を遙かに超える富裕です。溢れるほどの金銀をお持ちとのことです。そこで、イエズス会に依頼したいことがあると仰られました。玉薬の原料となる硝石かと思ったのですが、それは必要ないとのことです。新田様は、ポルトガルやイスパニアの言葉を話せる者を育てたいようです。そして、ヨーロッパにある技術、知識、芸能、文化のすべてが欲しいと言われました。まずは外洋航海に耐えうる船の建造方法、ガラスの製造方法などを知る職人たちを連れてこいとのことです。その人間の体重と同量の金と交換するとのことです」
そこで手を止める。フロイスは、昼間のやり取りを改めて思い出した。
「鉄砲も硝石もいらぬ。新田が求めるのは物品では無い。それを生み出す知恵と技術、つまり人だ。南蛮中の学者、芸術家、職人を連れてくるのだ。かといって、こちらも騙されないようにせねばならぬ。そこで、一年以内に南蛮の言葉を操る者を一〇名育てよ。寝食を共にし、とにかく言葉を教えるのだ。一日六刻(約一二時間)を教えれば、一年もせずに南蛮語を操れるようになるだろう。其方も日ノ本の言葉を覚えることもでき、一石二鳥であろう?」
「ヒトというのは、つまり奴隷ということでしょうか?」
「奴隷でも構わぬ。例えば借金で首が回らなくなった者。お前たちがいうところの異端とされ、牢獄に入れられている者。あるいは異国を見てみたいという情熱ある学者でもよい。とにかく知識と技術を持つ者だ。一人や二人ではないぞ。これから一〇年で、最低でも一〇〇〇人は欲しい。それと動植物だ。こちらが指定する植物を持ってくるのだ」
了齊とて、すべてを通訳できるわけではない。又二郎は言葉を尽くして説明した。目に見えるモノなどに価値はない。知識と知恵にこそ価値があるのだと断言する権力者に、フロイスは寒気を覚えた。
言われた通りにしていたら、数十年もせずに日ノ本はヨーロッパの科学技術をすべて吸収し、それを発展させ、ポルトガルやイスパニアに匹敵する大国となるのではないか。吸収し尽くしたら、もはや用済みと交易関係を破棄し、逆にポルトガルの植民地を攻め始めるのではないか。
予感というよりは、確信に近いものがフロイスの中にあった。未開の土地の野蛮な権力者と馬鹿にしていたら、間違いなくヨーロッパは喰われるだろう。
「フロイスよ。一人の人間として、政事を考えるなとは言わぬ。だが宗教家として布教する以上は、政事で判断し行動することは許さぬ。侵略のために余計な知恵は付けさせたくない、などと思わぬ事だな。もし俺を騙したら、お前はおろか日ノ本中のすべての信徒を皆殺しにする。異国の教えを跡形も無く、日ノ本から消し去る。これは脅しであり警告だ。だが俺は、実行できぬ脅しなどせぬぞ?」
その時の表情を思い出して、ブルリと震え、羽ペンからインクが飛んだ。アレは本気だ。眉一つ動かさずにやるだろう。布教のためには、ヨーロッパの英知を渡すしかない。いや、英知と思っているのは、国の外に出て世界を見てきた自分だからであろう。同業者組合の中には、腕は良いのに人付き合いや商いが下手なため、借金苦を負っている者もいる。そうした者たちならば、心機一転と発起し、この「黄金の国」に来るかもしれない。ヨーロッパの職人は、全体で考えれば決して豊かではないのだ。
「呂宋やゴアにも、船大工はいます。まずは彼らの中から、志願者を募りましょうか」
自分はひょっとしたら、途方もないことをしているのではないかという不安と、ヨーロッパから見れば東の果てにあるこの国が、これからどのように変わっていくのかという期待が入り交じりながら、フロイスは再び筆を手にした。
一見すると、ルイス・フロイスに対して厳しい態度を取っているように見えるが、又二郎は時折、フロイスを城に呼び寄せた。カトリックの教義についての話をすることもあれば、南蛮の食事についての話もする。キリスト教の教義については、フロイスも驚くほどに又二郎は簡単に理解した。
「理解はしたが、やはり俺の心には響かんな。俺はそもそも、唯一絶対という考え方には否定的だ。そんなものは存在しないと思っているからな」
「新田様は、神も仏も信じておられぬのですか?」
「ふむ…… 信じるというのは少し違うな。この大いなる宇宙を生み出した、ヒトを遙かに超越した存在というのは確かにある。俺はそれを知っている。だが、それに縋るつもりは無い。己を救うのは己のみと考えている。まぁ、例えて言うなら新田教だな。信者は俺一人だが、新田教によって俺は救われているのだ。それで十分よ」
ルイス・フロイスは、新田又二郎政盛という一人の人間に関心を抱いた。神を否定する者は他にもいる。だが又二郎の考え方は、それとは違う。神を肯定することと、神を信仰することは違うと考えているのだ。
かといって無信仰というわけでもない。死者を悼む気持ちや、他者を愛し思い遣る心はある。浄土宗の寺で南無阿弥陀仏と唱えた翌日には、法華経の寺で南無妙法蓮華経と唱えるのだ。恐らく、教会ができたら「アーメン」と唱えるだろう。
どのように生きれば、こうした柔軟性を持つことができるのだろうか。一人の宗教家として、又二郎の心の有り様に興味を持った。
「俺のこともしっかりと記録せよ。数百年後の遠い未来において、其方が書いた記録はきっと、学者たちにとって貴重な史料となるだろうからな」
理解不能という表情を浮かべるフロイスに対し、又二郎はそう言って笑った。
宣教師ルイス・フロイスの来訪という事件はあったが、永禄九年も平穏な春を迎えようとしていた。如月(旧暦二月)が過ぎ、弥生を迎える。北限の宇曽利とは異なり、宇都宮では桜が開花していた。自分と同じ名を持つ薄紅色の花びらが舞い散る樹を、正室である桜乃方はいたく気に入っていた。
「……美しいな」
宇都宮城内に植えられている桜の木を夫婦で見上げる。舞い散る花弁を愛でる正室の美しさに、又二郎は思わず呟いた。桜乃方は微笑みながら、舞い落ちてくる花弁を手にした。食べ物が良いためか、あるいは毎日のように風呂に入るためか、妻の美しさは陰るどころかますます輝いていた。
(そろそろ、次の子を作るか)
肩に手を掛けて抱き寄せる。自分の胸にもたれ掛かる妻の長い髪を撫でながら、夜まで待てないなと思い、抱き寄せた手に力が入る。だがそれは長くは続かなかった。こうした夫婦睦み合いの時に限って邪魔が入るのが、乱世に生きる男の宿命である。
「殿、お許しくだされ」
「田子九郎か。構わぬ。申せ」
背後から声を掛けられた又二郎は、振り返ること無く返答した。石川田子九郎信直は、頭を下げたまま用件を伝えた。その場の空気を感じ取り、気を利かせたのである。
「岩城より、使者が参っておりまする。使者が申すには、北常陸の龍子山城が、佐竹に寝返ったとのことです。岩城は相馬と共にこれを攻める故、後詰を願いたいとのことです」
「そうか…… 今の俺は酔っておる。一刻、待たせよ」
又二郎はそう返答し、愛妻と共にその場を後にした。田子九郎は最後まで、頭を上げることはなかった。