八戸久栄の正体
大変お待たせいたしました。
日ノ本の北に位置する陸奥とは違い、美濃や尾張では長月(旧暦九月)に入ると米の収穫時期となる。永禄八年の長月、尾張と美濃を合わせて一二〇万石を領する織田家では、過去にない大豊作となった。それはまるで、上洛し一気に天下を狙おうとしている織田信長を天が祝福しているかのようであった。
「収穫量は例年と比べて二倍以上でございます。殿が御指示された新しい植え方が、これほどまでに成果を出すは…… 面倒だと抵抗していた百姓も納得するでしょう。来年からはすべての田畑において、同じように致します」
新田家を真似て、苗を育てての正条植えを試験的に実施したところ、明らかにこれまでとは育ち方が違った。この結果には当主の信長自身でさえ驚き、そして複雑な心境となった。試験した初年でさえこの成果である。これを一〇年以上続けている新田家は、どれほどの収穫を得ているのであろうか。
「……なるほど。故に、銭の世というわけか」
得心して小さく呟く。経済感覚に優れた信長は、米の大豊作を当たり前となればどうなるかを直感的に見通していた。これまで一石しか採れなかった田畑が、四石を実らせるようになる。すると米の価値は劇的に下がる。つまり石高の価値そのものが下がるのだ。相対的に米以外の物品の価格か上昇する。それを避けるには、様々な産業を興し、全体の生産力を向上させねばならない。
(米の生産力が上がれば、より多くの民を食わせることが出来る。そして増えた民を米以外の作物や漁業、畜産、さらには鍛冶などの物作りに充てる。様々な物品が生産される。それを世に流し、取引を活発にさせるには、銭を使うのがもっともよい。だが銭を使えるようになるには、民たちに基本的な算術などを教えねばならない……)
理屈は解る。だが今の織田家では無理だとも思った。来年早々には上洛戦を開始しなければならない。内政を後回しにするというわけではないが、領内を劇的に変えるには時が足りなかった。
「殿、丹羽五郎左衛門尉長秀様が目通りを願っておりまする」
「であるか」
立ち上がり、岐阜城の評定間に向かう。平伏する丹羽長秀を一瞥し当主の座にドカリと座った。
「表を上げよ。近江和田城までの遣い、御苦労であった」
現在、幕府は空洞の状態である。第一三代将軍の義輝を殺害した三好義継ら三好家は、平島公方家の足利義栄を擁立しようと動いているという噂もあるが、朝廷は未だ動いていない。普通に考えれば信じられないことである。衰えたとはいえ天下人である将軍を殺害する以上、その後の混乱を収束するために予め次代将軍を用意しておいて当然であろう。だが実際には、将軍職は未だに空位であり、このままでは一年以上も将軍不在となりかねない。
「覚慶様は来年には還俗され、名も改められるおつもりです。その際に、左馬頭の叙位を受けたく、御当家にはその後ろ盾をお願いしたいとのことでござます」
信長は頷き、丹羽五郎左を使者に出した自分の判断に満足した。織田家は、先代の信秀の頃から急速に台頭した家であり、都の礼法などとは無縁の家柄であった。信長自身も意味不明な礼儀作法などより、武人の無骨さを好んでいる。だが織田家飛躍のためには、将軍家をはじめとする都人との付き合いはどうしても必要となってくる。そのため、最低限度に相手を不快にさせずに、柔軟な判断ができる人物を選んで遣いとした。機転という点では木下藤吉郎でも良かったが、あれは決定的に教養が不足していた。
(もっとも、都人など気位が高いだけの無能者ばかりよ。いや、無能なだけならばまだ良い。世に害を為すような者たちは、皆殺しにせねばなるまい)
焦りではないが、悠長にはしていられないという思いが、信長の中にあった。新田がついに関東に届いたという噂は、東海道を経て尾張にまで届いている。だが国人の集合体であった陸奥国とは違い、関東以西は力を持つ大名が揃っている。特に上杉、武田、北条はいずれも大国で、たとえ陸奥を征した新田であっても簡単には抜けないだろう。自分はその間に畿内を征し、出来るだけ西へと進む。
「五郎左も知っておろうが、新田が奥州を征した。勢いそのままに、この美濃まで届くと思うか?」
「恐らくは…… 少なくとも殿は、届くと思われているのでございましょう?」
「うむ。もし新田と決戦するとなれば、どこが良いと思う?」
丹羽長秀は目を細めて中空を眺めた。条件が異なるため、二つの場所を思い描く。
「御当家が畿内を征していると仮定して、もし御領外で戦うのであれば、三河あるいは遠江での決戦となりましょう」
信長も頷く。それは想定して、松平家康には三河遠江の地形調査を依頼している。だが信長自身は、その見込みは低いと思っていた。松平と新田ではあらゆる点で力が違い過ぎる。松平への援軍程度で止められる相手ではない。
「恐らく、竹千代めは持ち堪えられまい。怒涛の如く尾張に流れ込んで来よう。そうなった場合はどうする?」
「新田の攻め口次第ですが、いずれにせよ御領内を通るのであれば、伏兵を置いて物資兵糧を叩きます。その上で大軍を展開し、一気に包囲します。兵の規模は……」
「両軍合わせて一五、いや二〇万を想定せよ。此方は七万、新田は一三万だ。その上で、兵の少ない此方が、出来るだけ有利となる地を選ぶのだ」
当然、信長の指摘は丹羽長秀も理解していた。もし新田が尾張にまで来たら、その兵力は少なくとも一〇万を超えているだろう。だが二〇万が展開できる土地となると限られる。
「その条件ならば、一つしかありませぬ。岐阜城より西、近江へと続く原野でございましょう」
「関ヶ原、か……」
そう口にした信長は、ブルリッと背中を振るわせた。
笛や太鼓の音が響く。人々の笑い声の中に、酒に酔った者の大声が響いている。陸奥を統一し、関東への道を開いた新田家は、新嘗大祭を復活させ、領内各地で祭りを開いていた。
「澄酒も各地で作られ始めているが、俺はこの濁り酒が好きだ。これを呑むたびに、田名部を思い出す。まだ幼かった俺は、試飲と称して酒を飲み、御爺に拳骨を貰った。懐かしい……」
外の賑やかさとは違い、その部屋は静かさと緊張があった。奥州の覇者となった新田家の当主、新田陸奥守又二郎政盛は、実に一〇年ぶりに実兄と対面していた。新田家を追われ、津軽浪岡城の近くにある浪岡八幡宮の宮司となった八戸久栄である。史実では政栄という名前だが、又二郎に遠慮して、新田家が使う「政」の字を敢えて使わなかったのである。
「暮らしはどうだ、兄上?」
「某は一介の宮司に過ぎませぬ。もう、兄などとはお呼びになられますな。貴方様は、奥州の覇者。新田家の当主でございましょう」
「この場は二人だけだ。小姓たちも下げている。誰も聞いておらぬ。父母を同じくする実兄であることは、事実だからな。最近、御爺の体調が思わしくないようだ。万一の時は、兄上が田名部に戻ることを赦そうと思う。母上も喜ぶであろうしな」
久栄は無言で両手をついた。又二郎は口端に笑みを浮かべて頷くが、眼は笑っていない。血縁は御家騒動の火種となる。新田家の種は自分ひとり。自分が種馬となって、子供たちを増やしていく。そして自分の代で天下を統一し、平和な世を子供たちに渡す。その邪魔となり得る要素は、たとえ表面化していなくても排するべきではないか。今でも半分は、そうした思いを持っていた。
だが何の咎もないのに、血を分けた実兄を殺すというのは、余りにも外聞が悪すぎた。家臣たちにもいらぬ不安が芽生えるであろうし、女房たちからは白い眼で見られるだろう。だからこうして生かしている。
「ところで兄上。俺はここのところ戦続きでな。自分が死んだらどうなるか、少し思うようになったのだ。人は死んだらそこまでだろうか。あるいは別のところに生まれ変わるのだろうか」
「御魂は死してなお、残り続けます。氏神となり、御家を守るのでございます」
「神社ではそう考えているな。一方で、仏の教えには輪廻転生というものがあるらしい。命は巡り、また生まれ変わるという考えだ。この日ノ本には、死後についての考え方が違う教えが、一人の人間の中で共存している。実に面白い。自分のことを俺自身だ、という自我を持ったまま、どこかの異世界に生まれ変わったら…… 兄上は、そんなことを考えたことはないか?」
「さて…… 某にはなんとも。しかしながら、人は時として、大きく生き方を変えることがあります。それもまた、一つの生まれ変わりと言えましょう」
「で、あるか……」
又二郎はグビリと酒を飲んだ。そして確信する。こんな問いを受ければ、普通なら訝しげな表情を浮かべるだろう。だが目の前の男は「異世界」という言葉を聞いて、すんなりと返した。自分と同じ転生者と考えて、まず間違いない。
だがこれまでの監視と、改めて会った感触から、この男と自分との間には決定的な違いがあるとも思った。すなわち「野心」である。たとえ現代人の知識を持っていたとしても、この男の立場では路傍の石ころ程度の価値しかない。知識とは、場面、権限、資本の三つが無ければ無意味だからだ。そしてライトノベルの世界とは違い、現実世界では往々にして、権限と資本に限りがあるものなのだ。
(殺さない場合のリスクと、殺した場合のデメリットを天秤にかけると……)
又二郎は干した盃を置いた。
久栄は去っていく実弟を見送りながら、なんとか虎口を脱したと安堵した。三〇代のサラリーマンだった自分は、車に撥ねられたと思った次の瞬間には、布団の上で見知らぬ天井を見つめていた。八戸だの南部だのという言葉から、自分が戦国時代に転生してしまったことにはすぐに気づいた。だが歴史が食い違っていた。歴史シミュレーションゲームでは、陸奥といえば南部家のはずなのに、その南部が滅んだという。新田という聞いたこともないような武将が、南部家に代わって陸奥と津軽の覇者となっていた。
とにかく生き残るために、必死になって命乞いをして何とか生き延びた。そして浪岡という聞いたことも無いような土地の神社を任された。食べ物は悪くない。さらに煉瓦だの石鹸だの、日本最北端の津軽なのに、戦国時代には無いはずのものがある。
そして確信した。自分の弟は、新田家の当主は間違いなく、自分と同じ転生者である。だがそれ以上に恐ろしいのは、歴史の流れに身を任せず、その歴史そのものを大幅に書き換えているということだった。自分の手で歴史を創るなど、普通の人間にはまず無理だ。そして自分は、ごくごく普通の人間なのだ。
「すべてを忘れよう。自分は一介の宮司、久栄なのだ」
そう呟き、首を振った。