軍神の決断
直江神五郎景綱は、得体の知れない薄気味悪さに脇に汗をかいていた。目の前の男を知らぬ者など、奥州信越関東にはいないだろう。僅か二歳で最北の宇曽利の地に立ち、二〇年足らずで奥州を統一した怪物である。寒く貧しいはずの奥州が、この男の手によって黄金を産み出す桃源郷へと変わった。多くの商人たちが新田との交易を求めて北に向かい、船一杯に特産品を載せて戻ってくる。それらの品々は遠く都にまで届いているという。こと内政の力は、清盛、頼朝、尊氏など過去の天下人でさえも及ばないだろう。
「大抵の人間は、今が永遠に続くと考えるものだ。武士の世が未来永劫続くと思うか? 断言しよう。続くわけがない。武士とはそもそも戦があることを前提とした存在だ。太平の世になれば間違いなく、無用の存在となる。物を産み出す術を持たない武士は、刀までも戸倉(※江戸時代以前の質屋のこと)に入れ、口に糊するようになるだろう」
数百万人の怨讐を「是非に及ばず」と切って捨てた怪物はそう断言した。その物言いは、まるで未来を見てきたかのようである。主君はその存在そのものが半神的で、戦になれば神懸かり的な力を見せる。だがこの怪物は、主君以上に異質な存在に思えた。
「数百万の怨讐だと? そのようなもの、戦が無くなり皆が豊かになれば、綺麗に消え去る。飢えることなく、寒さに震えることも野盗に怯えることもない太平の世で、民たちは明日を夢見て生を謳歌する。俺が目指す新たな日ノ本の姿だ。そのためならば、何十万でも何百万でも殺す。その業を背負い、地獄に落ちる覚悟などとうに出来ている!」
「戦の無い世を創るために、敢えて戦に明け暮れると申すか? 今ある秩序を破壊し、今ある日ノ本を否定し、己が望む世を他者に押し付け、逆らう者は悉く殺すと申すか!」
主君が大きな声を出すなど滅多にない。新田が小人の欲で戦をしているわけではないことは、主君も私も理解している。だが、己が目指す世のためにというのもまた、個人的な欲求ではないのか。滅ぼす側は良いだろう。だが滅ぼされる側は、新たな世のためと言われて、受け入れられるものではない。
「受け入れられるとも、納得してもらえるとも思ってはいない!」
主君の声に反応するかのように、怪物はギラギラとした眼差しでそう返した。
「だがそれでもやる。これから数百年続く太平の世のために、今この時代で戦を終わらせねばならぬ! 戦を終わらせ日ノ本を一つに統一し、民の世を創り上げる。南蛮の諸国にも負けない知識と技術を普及させ、何者にも負けぬ強い国家を築き上げる。たとえ誰から恨まれようとも次代のために、俺は敢えて煉獄の道を歩む!」
「………」
主君が黙り、沈黙が流れた。「新田とは何者か?」という疑問が氷解していくのを感じた。途方もない大野心家であり、日ノ本開闢以来最大の内政家、そして次の時代という明確な天下の姿を描く天下人。それは、主君には無いものである。直江景綱は自問した。主君と共にどこまでも征く覚悟である。もし新田に抗するならば命を賭して戦う。
だが「歴史」という視点で捉えた場合、果たしてそれは正しいことなのか。今の世は地獄である。大名国人は親兄弟親族で殺し合い、名も無き民たちはその日を生きることにすら苦しむのが今の世だ。それを終わらせるという新田に抗するならば、それは戦ではなく「次の天下の姿」で競うべきではないのか。その姿を提示できない者に、新田の歩みを止める資格があるのだろうか。
「議論も尽くしたな。決めろ。新田に降るか。それとも戦を続けるか」
「待つのじゃ、陸奥守殿よ。まだ話し合っても良いではないか?」
「殿下、言葉では解り合えぬこともあるのです。某と輝虎殿とでは、見ている世が違う。目指す世が違う。良し悪しの問題ではなく、何に価値を置くかの違いです」
その通りだと直江景綱も思った。これ以上は話し合っても平行するだけだろう。主君と新田は決して交わらない。生き方が、価値観があまりにも違い過ぎる。
「三日差し上げる。その間によく考えられよ。殿下の御顔を立てて会合したが、戦となれば容赦はせぬ」
宇曽利の怪物はそう言って立ち上がった。
「御実城様、何と言われましたか? 今一度、仰せ下され」
「新田には降れぬ。だが皆には迷惑を掛けられぬ。儂は出家し寺に入る。上杉家の後継ぎは、昨年養子にとった卯松(長尾政景の二男、後の上杉景勝)とする」
本光寺の別室に入った輝虎は、ドカリと座りそう言った。その言葉に、直江景綱をはじめとする重臣たちも唖然とし、そして必死に止めた。長尾卯松はまだ一〇歳でとても上杉家を束ねることなど出来ない。上杉家は輝虎という軍神がいてはじめてまとまるのだ。いま、上杉家は存亡の危機である。この状況で輝虎が居なくなれば、北条は無論、武田でさえどう動くか判らない。
「卯松の後見は、新田陸奥守に頼む。越後、上野、越中の三ヶ国が手に入るのだ。陸奥守とて受け入れるであろう。儂はどうしても新田を認めることは出来ぬ。だがそれは、儂一人の事情によるもの。家臣たちまで巻き込むわけにはいかぬ」
「ならば一言、お命じ下され。新田と戦う故、皆も付いて来いと! さすれば上杉の男たちは死兵と化して、どこまでも付いて行きますぞ!」
「それは出来ぬ。儂一人の思いを皆に押し付けて戦うなど、それでは陸奥守と同じになってしまう。儂には新田を止めれなんだ。この先、新田はさらに多くの血を流していく。だがその果てに出来る世は、少なくとも今よりは、マシなものであろう。一介の僧として、儂は新田の目指す世を見届ける」
輝虎の眼は本気であった。弘治二年(一五五六年)、国人衆の離反や家臣同士の対立に絶望した輝虎(※当時は長尾景虎)は、実際に春日山城を出奔し高野山へと向かってしまった。その時は家臣たちが総出で説得して何とか食い止めたが、元から仏教に傾倒していたのだ。こうした決断をすることも十分に有り得た。
(止めねばならぬ。隠居されるにしても、御当家の大黒柱として残っていただかねば。だがどうやって……)
ここは新田を巻き込むしかない。いま上杉輝虎が消えて困るのは新田である。主君は三ヶ国が手に入るなどというが、そんなはずがない。越中の一向一揆、北信濃や北越後、そして関東…… 輝虎一人が消えることで様々な混乱が起きるのは、容易に想像できた。直江景綱はその日のうちに、新田に相談しようと決めた。
「……駄々っ子だな」
又二郎は呆れて笑った。目の前には上杉家の謀臣、直江景綱がいる。南条広継は、半ば同情するような眼差しで景綱を見ていた。上杉輝虎という男は、又二郎とはまた違った意味で「非常識」な男である。だが家臣も領地も捨て、勝手に仏道に入るなど、責任のある大名がすることではない。形骸化しているとはいえ、上杉輝虎は関東管領という役職にも就いているのだ。後は新田に任せるなどと言われても困る。
「御実城様は、父君である守護代様に(※長尾為景のこと)、愛憎半ばの感情を抱いておいでです。亡き守護代様は、正に下剋上を地で征く御方でした。残忍にして強欲、我が子すら信じぬ程に疑り深い方でした。国人衆が混乱していた当時の越後では、それが必要だったのかもしれません。ですが結果、幼年より才覚に優れた御実城様は父親から疎まれ、林泉寺に入れられたのです」
「長尾家のために病弱な兄を支え、その兄が無くなると当主となり、好き勝手する国人衆を何とか纏めようと四苦八苦してきた。だが混乱は収まらず、皆が我欲のまま好き勝手なことをしている。だったらもう好きにしろ、俺は知らん。そんな気持ちを抱いても不思議ではないな」
「関東管領となり、ようやく越後が纏まろうとしてきたら、今度は新田家の登場というわけですか。世を儚み、倦まれてしまっても仕方がないのかもしれませんね」
南条広継も頷いた。今風に言えば、ストレスで疲れたのだろう。史実でも、上杉謙信は酒豪で、それがもとで命を縮めたといわれている。当主としてのストレスを酒で晴らそうとしたのかもしれない。
「蘆名は降った。会津から北越後の代官とし、禄で召し抱える。上杉は半独立の従属という形で認める。新田の法を導入すること。新田軍の通過を認めること。それが条件だ。そして輝虎は、隠居こそ認めるが出家して高野山に行くなど認めん。少なくとも養子が元服するまでは、その成長を見届けろ。それが親としての最低限の義務だ」
「その…… 当家の領は……」
「揚北衆がいる北越後から新潟までは接収する。それと唐沢山城もだ。上野の長野業盛とて、勝手に上杉が降ることなど是としないだろう。関東は北条に任せ、越後半国と上野、越中の二ヶ国半で我慢せよ」
景綱は頷いた。状況からすれば考えられないほどに寛容な処遇である。本来ならばすべての土地を接収されても仕方のない状況なのだ。この条件であれば、越中の斎藤朝信や上野の北条高広も納得するだろう。
「輝虎は、俺が直接説得しよう。坊主も人間なのだ。人としての義理と責務から逃げ、それでどうやって仏道を歩むつもりかとな」
「寛大なる処遇、誠に恐れ入ります。どうぞ、良しなに……」
直江景綱は両手をついて頭を下げた。
永禄八年(一五六五年)、水無月も中旬に差し掛かろうとしていたころ、会津での戦に一応の決着が着いた。蘆名盛氏や重臣たちは、一旦は向羽黒山城に戻り降伏の支度をする。蘆名の降伏をもって、上杉は越後へと戻り、そして輝虎は隠居する。上杉家は従属という形ではあるが、領地を含め存続を認める。ただし国人衆が勝手をした場合は、新田が討ち滅ぼし、その土地を接収する。新田の法の導入についても、細々としたことは今後の話し合いで決めることとなった。
だが、物事は簡単には進まない。又二郎が想像もしなかったことが起きた。向羽黒山城に戻った蘆名は、三日たっても動くことなく、ついには戦支度まで始めた。蘆名の裏切りであった。