会津長原の戦い 後半
戦国時代における鉄砲を使った合戦として有名なのは、やはり「長篠の戦い」であろう。武田勝頼率いる騎馬隊一万五〇〇〇に対し、織田・徳川連合軍は三〇〇〇丁の鉄砲を用意し、それを一〇〇〇丁ずつ三部隊に分けて三段撃ちを行い、連射性能を高めて押し寄せる騎馬隊を打ち破った。現在、多くの日本人が長篠の戦いをこのように認識しているが、これはまったくの間違いである。
まず合戦の場所が違う。長篠とは「長篠城」のことであり、合戦が行われた場所からはかなり離れている。実際には長篠城から西に数キロの距離にある設楽原で合戦が行われた。
次に合戦の様子が違う。「原」と付いていることから広い平原を想像するかもしれないが、設楽原は南北に細長く、その中心を河が流れており、織田信長は舌状台地に柵を構築した。つまり「野戦築城」を行い、武田を引きつけたのである。関ヶ原の戦いのような野戦ではなく、攻城戦に近い様相であった。
そして最大の違いは鉄砲の数である。信長公記や甲陽軍艦の中に、織田軍の鉄砲の数は明記されていない。それどころか設楽原の発掘調査では鉄砲の弾が殆ど見つかっていないことから、実際にはかなり少なかったのではないかと考えられる。三段撃ちについても、信長公記には「鉄砲をさんざんに撃ちまくった」と書かれているだけで、三〇〇〇丁を三段にという記録はどこにもない。いつの間にか「さんざんに」が「三段に」と誤解されたのではないだろうか。
長篠城および設楽原の合戦で織田・徳川連合軍が勝利した要因は、純粋に「兵力差」が大きいと考えられる。武田軍一万五〇〇〇に対し、織田・徳川連合軍は三万五〇〇〇であった。甲陽軍艦の中にも、織田の援軍が来ることを知った武田家重臣たちは、勝頼に対して撤退を進言しているとある。跡部勝資、長坂光堅といった勝頼の側近が主戦論を唱えたため、無謀な戦いが行われたのである。
織田信長が天下統一のために、鉄砲を重視していたことは間違いない。また当時の織田家の力であれば、数千丁の鉄砲を集めることも出来たであろう。だが残念ながら、長篠(設楽原)の戦いにおいて用いられた鉄砲は、多くて一〇〇〇から一五〇〇丁程度であり、武田の騎馬隊(※実際にはこれも存在しなかった)が負けたのは、兵力差と佞臣に惑わされた当主の愚かさが原因である。
上杉輝虎率いる二〇〇〇の部隊が突撃を開始する。それを見た他の兵たちも勢いづく。輝虎という半神的な男が放つ圧倒的な影響力に、上杉軍は足軽に至るまで死を恐れなくなった。そして上杉軍が勢いづけば、蘆名軍まで持てる以上の力を発揮する。
「これが上杉の車懸りか! 化け物め!」
又次郎は思わず舌打ちした。兵数ではこちらが上のはずなのに、押され始めているのだ。車懸りとは単なる波状攻撃ではない。上杉輝虎自らが出ることで、兵たちを熱狂させるのである。現代風に言えば、アドレナリンの異常分泌による「バーサーク・モード」となる。
「ですが輝虎さえ討ち取れば、こちらの勝ちは確定します」
「頼んだぞ、越中!」
アレが本陣に届けは、自分は確実に死ぬ。又次郎はそう確信した。人間が持つ力は、近代戦の理屈をも凌駕する。一〇年以上前、自分の顔を青ざめさせた男を思い出した。
「あの時とは違う。上杉輝虎、貴様を待っているのは三〇〇〇丁の鉄砲隊だ!」
又次郎は野獣のような笑みを浮かべた。だが、それはまるで自分を安心させるかのようであった。騎馬の音が本陣まで響いてくる。そこに轟音が響いた。量産されている火薬を使って呆れるほどに調練を重ねた鉄砲隊の第一射であった。
「御実城様! 危のうございます。我らの後ろにお下がりくだされ!」
「無用!」
重臣である吉江景資の長男である六蔵(※後の寺島長資)が叫ぶが、輝虎は意に介さない。自分が率いるのは、鍛え抜かれた二〇〇〇の旗本である。二〇〇〇騎が一丸となって発揮する殺気は凄まじい。たとえ敵が種子島を用意していようとも、撃つのは人間である。迫り来る二〇〇〇の鬼を相手に、冷静でいられるはずがない。五射、いや四射に耐えれば突っ込める。そして一箇所でも崩れれば、そこから一気に本陣まで抜ける。輝虎はそう読んでいた。
ダダーン
通常の種子島の射程外から弾が掠めてくる。だが自分には当たらない。口端が歪む。毘沙門天の声が聞こえてきた。このまま進め。前へ進め。敵を粉砕せよ! 輝虎は雄々しく吠えながら大太刀を抜いた。
「殿に続けぇぇっ!」
六蔵の大音声とともに、背中を押すように二〇〇〇名の声が響く。さぁ、決着をつけようか。宇曽利の怪物よ!
南条広継は込み上げる恐怖を必死に抑えていた。理屈では勝てるはず。負ける要素は一切ない。だが迫りくる敵の勢いと迫力は、そうした戦理をも突き破ってしまうのではないか。見ると自分のみならず、兵たちまでブルブルと震えている。歴戦の兵でさえも、これまでにない気配を感じているのだ。戦は時として、常識では計れない力によって左右されることがある。世の中にはいるのだ。神に愛されているかのような強運を持ち、敵も味方も吞みこんでしまう圧倒的な気配を放つ者、天才と呼ばれる存在が。
「ならば、我が殿とて負けてはいない」
チラリと本陣に目を向ける。齢二歳にして宇曽利の地に立ち、二〇歳にして奥州の覇者となった主君もまた、神から愛されし天才である。そして主君は一度、経験しているのだ。神懸かり的な強運を持つ人間をどのようにして止めれば良いか。
「人を狙うな! 馬を狙え!」
第二射の音が響く。倒れる者が出始めた。
上杉輝虎は大太刀を一振りした。それだけでキンキンと弾く音が聞こえた。狙ったわけではない。だが確信していた。毘沙門天の加護を受けている自分に、弾が当たるはずがないのだ。
ダダーン!
第三射が響いた。倒れる者が出始めているが、自分にはまだ当たらない。どうやら相手は馬を狙っているようだ。悪い判断ではない。勢いを止めるには、まず馬を狙うべきなのだ。次の斉射を乗り切れば、本陣にまで突撃できる。輝虎はひたすら馬を進めた。だが……
「御実城様!」
ガクンと馬が崩れ、輝虎は地面に放り出された。身体を捻って一回転して受け身を取る。何処も折れていないし、怪我もしていない。だが愛馬は眉間から血を流していた。輝虎はその表情に微かに感情を走らせた。
「御実城様を御守りしろぉっ!」
六蔵の号令で旗本たちが自分を守ろうと動く。そこに第四射が浴びせかけられた。自分を守ろうと盾になった者たちが倒れる。敵陣まであと五町(約八〇メートル)の距離だ。通常ならば、たとえ徒歩であろうとも突撃することは出来る。だが相手は鉄砲隊だ。駆けたところであと二射は受ける。そしてそれまでに、連れてきた兵の半数は討ち取られるだろう。何より、兵たちを死兵と変えていた神通力が解けていた。少なくとも輝虎はそう感じた。
「退く!」
「御意!」
兵たちに囲まれながら、輝虎は後退した。途中で残っていた馬に飛び乗り、一気に下がる。そこに鉄砲が撃ちかけられた。左肩に微かな痛みを感じた。
上杉輝虎の後退と共に、上杉・蘆名の全軍が退いた。だが新田側に追撃する余力は残っていなかった。生き残り、敵を退かせたことで満足し、その場に尻餅をつく兵が続出する。
「何を腑抜けておるか! 追撃するぞ!」
三田主計頭重明が怒鳴るが、柏山明吉がそれを止めた。新田の常備軍は徹底的に鍛えられている。体力はまだ残っていた。だが気力が付いてこなかったのだ。それほどに上杉は強かった。常に敵を上回る兵力により優位に戦ってきた新田軍にとって、初めての苦戦と言えた。
「物見を出して、上杉、蘆名がどこに後退したのかだけ押さえれば良い。傷を負った者も多かろう。今日の戦はここまでよ」
「そうですな…… それにしても、強かったですな」
「誰かのために、何かのために戦う時、人は持てる力以上を出す。上杉軍は、輝虎という存在によって一つになっているのだ。上杉輝虎こそが上杉軍の強さの根源。厄介な相手だ」
新田本陣において、又二郎は不機嫌そうな表情を浮かべて頬杖をついていた。近習の者たちも、緊張したまま黙っている。決して負けたわけではないのだ。新田軍は無傷ではないが、上杉も蘆名も同等の傷を負っている。そして退いたのは敵であり、こちらはこのまま進めば良い。むしろ勝ちに近いだろう。
だがそれでは駄目なのだ。そもそも敵よりも多くの兵を揃え、武器も兵糧も十分にあり、練兵も十分に行った精兵揃いなのだ。それが敵と同数の被害というのは、実質的には負けに近い。それが又二郎の評価であった。
「殿、越中守殿がお戻りになりました」
石川信直の案内で本陣に入ってきた南条広継は、腰を掛けることなく又二郎の前に進み出て頭を下げた。
「申し訳ございませぬ。上杉輝虎、討ち損じました」
「あぁ、それはいい。元々、簡単に討てるとは思っていない。疲れているだろう。まずは座れ。越中も他の皆も、良くやってくれた。いやはや強いなぁ、上杉は……」
結果が出た以上は仕方がない。自分が不機嫌にしていれば、周りにも影響を与える。又二郎はフゥと溜息をついて笑った。ようやく、緊張していた陣中の空気が緩んだ。