四方向同時侵攻
時は少しだけ遡る。永禄八年(一五六五年)卯月(旧暦四月)中旬、庄内地方酒田からほど近い余目において、一万五〇〇〇の軍が調練を行っていた。当然ながら、この動きは上杉方も察知していた。だが常備軍で固めている新田家では、毎月のように調練が行われている。永禄五年秋の東禅寺城攻城戦以来、庄内地方において戦はなく、今回も調練を終えて引き上げるだろうと思われていた。
「いつもの調練とは思うが、念のため守りは固めておけ」
歴戦の勇将である本庄弥次郎繁長が油断するはずもなく、この時も鶴ヶ岡城と尾浦城を最前線とし、守りの備えはしていた。だが上司の懸念が末端まで届くとは限らない。備えては何もなかった、備えては何もなかった、毎月のように二年間も続けられれば、現場の兵たちに「いつものことだ」という緩みが出るのは当然であろう。だが、この日は違った。
「うん? なんだ?」
本庄氏の対新田最前線の城である横山城において、それは始まった。城門を守る一人の兵士が、赤川の水面から立ち込める朝霧に光が輝いた気がして、目を凝らした。その数は増え、やがて姿を現した。
「て、て、敵襲ッ!」
亀ヶ崎城(※東禅寺城のこと)近郊で調練をしていたはずの新田軍が、猛然と攻めてきたのである。横山城の城代はただちに、本庄繁長がいる鶴ヶ岡城に報せを出した。
「一日で落とす!」
蠣崎宮内政広は、下国重季と共に五〇〇〇の兵を率いて横山城に攻め掛かった。横山城には一〇〇〇程度の兵しかいない。炮烙玉によって城門を爆破し、城内に雪崩れ込む。
「宮内様、この城は最早落としたも同然、どうかお退きください」
「馬鹿を言うな。この城一つで終わった訳ではない。農民兵を降して武装解除させ、直ちに鶴ヶ岡城に進まねばならん。此度の戦は三方向同時進行だからな…… いや、四方向か」
「御意ッ!」
父親同様、自分を蠣崎家の嫡男と扱う重季に苦笑しながら、政広は横山城城内へと入った。
同時刻、鶴ヶ岡城北西部にある尾浦城においても、新田軍五〇〇〇の攻撃が開始されていた。率いるのは、九戸政実、親実兄弟である。
「兄上、この城は落ちました。予定より半日ほど早いですが……」
「鶴ヶ岡城にも報せが入っているだろう。先行する太郎殿が、鶴ヶ岡城に向けて進んでいるはずだ。俺たちは鶴ヶ岡城の後方に回り込み、井岡城と高坂館を攻め、本庄の退路を断つ!」
対新田の最前線であった尾浦城、鶴ヶ岡城、横山城のうち、二つがほぼ同時に陥落した。鶴ヶ岡城を本拠とする本庄繁長は、新田軍侵攻の報せを越後、そして会津の上杉本軍に送った。
「我らが抜かれれば、揚北の地は蹂躙されるのだ。越後の色部、新発田、中条ら揚北衆全軍が援軍として駆けつけて来る。耐えるのだ。鶴ヶ岡城の城門は鉄城門ゆえ、新田の炮烙玉にも耐えられる!」
「応ッ!」
一方、安東太郎愛季は沼田祐光を軍師として、鶴ヶ岡城に向けて軍を進めていた。だが蠣崎、九戸らの軍と比べ、その進軍速度は緩やかである。まるで本庄繁長に時間を与えるかのようであった。
「揚北衆全軍となれば、その数は一万五〇〇〇程度。つまり我らと同数になります。しかも出て来る将は新発田因幡守重家、色部弥三郎勝長、中条山城守景資、安田但馬守長秀など北越後の名だたる豪族、名を知られた歴戦の武将たちです。簡単に勝てる相手ではございませぬぞ」
「解っている。だが天下を獲るためには、いつまでも長門殿や柏山殿らに頼るわけにはいかぬ。御当家が飛躍するためには、若い力を伸ばさねばならぬ。殿はそうお考えなのだろう」
安東太郎愛季を始め、蠣崎宮内政広、九戸左近将監政実らは、いずれも二〇歳前後の武将たちである。軍師である沼田祐光も同年代であった。彼らはこれから幾度も経験を重ね、新田の武将として成長していくことが期待されていた。
(南条越中や武田甚三郎、八柏大和などはいずれも三〇代から四〇になったばかり。正に脂の乗った軍師たちだ。その点、祐光は一回り以上若い。新田の天下のためには、より多くの経験を積んでもらわねばならぬ)
「殿は既に、天下獲りのための準備を始めておられます。これから御当家ではより若い力が抜擢され、過酷な戦に置かれるでしょう。小野寺殿を敢えて後方に置いているのは、我らを奮起させるためです。負けても名将、小野寺輝道が後ろにいる。思いっきりぶつかっていけと……」
安東太郎は苦笑した。それはつまり、これからも厳しく扱かれるという意味である。国人であれば、加増されなければ不満を持ったであろう。その点、新田では家禄の他に役職での俸禄があり、さらにはその時々の働きで特別に報奨される。国人として従属するよりも働き甲斐はあった。
「お互い、上手く使われているな」
「誠に……」
苦笑し合い、視線を前に向ける。鶴ヶ岡城まであと一日の距離である。時間を調整する必要があった。
「今日はここで止まりましょう。そろそろ越後も動き出します。果たして、輝虎殿はどう出るか……」
沼田祐光は薄暗い笑みを浮かべた。既に立派な謀臣になっているじゃないか。安東太郎は内心で思った。
春日山城の留守を預かるのは、別名「越ノ十郎」と呼ばれた上杉右京亮景信である。輝虎にとっては母方の従弟にあたる。一門衆第三位にあり、輝虎の信頼も篤い。
その景信は、春日山城にあってピリピリと神経を尖らせていた。伏嗅の調査により、佐渡の兵力は七〇〇〇程度であることは判っている。問題は、それがいつ春日山城に向かって来るかということだ。実際、佐渡の南端の湊である羽茂には、新田の巨大な船が二〇隻ほど並んでおり、いつでも直江津に向けて進める構えを見せている。
そして一〇日ほど前から、直江津の湊では「新田が攻めて来る」という噂が流れていた。越中国では斎藤朝信が一向門徒を相手に踏ん張っている。越後と上野の兵を蘆名への援軍に向かわせ、北越後の揚北衆は庄内方面に貼りついている。そして不戦の盟を結んでいる武田は、あろうことか北条に援軍を出すという。つまり春日山城を攻められたら、どこからも援軍は得られないということだ。
「北条め。御実城様が動けないことを良いことに、この機に一気に関東制圧に乗り出すつもりだ」
「武田もだ。駿河を得たのなら、そこで大人しくしておればよいものを」
城内では北条と武田への雑言が交わされている。彼らも解っているのだ。戦国なのだ。隙あれば攻めるのは当然のこと。武田も、上杉とは不戦を結んでいるだけで、盟友というわけではない。一方、北条家嫡男の新九郎氏政の正室は武田信玄の娘であり、その夫婦仲の良さは相模で知らない者はいないと言われている。さらには武田の嫡男である太郎義信とは酒を酌み交わし、友誼を結んだ仲とも聞こえていた。
上杉と北条のどちらを武田が選ぶか、自明の理であった。
「今は武田を恨んでいる時ではない。羽茂に送った伏嗅が戻らぬ。つまりそれほど警戒が厳重ということだ。新田は必ず動く。佐渡沖に船を繰り出し、新田の動きを見張るのだ」
上杉には、佐渡を攻めるほどの船はない。小舟を出して交代で監視する。動きがあればすぐに春日山城に報せが届くように手配する。景信は今できる最善の手を打っていた。
「とまぁ、このように考えて、上杉右京亮殿は春日山城に籠っていることでしょう」
八柏道為はそう言って笑うが、その表情を見て石川左衛門尉高信は、背筋が寒くなる思いであった。直江津に新田軍侵攻の噂を流し、羽茂に二〇隻の三〇〇〇石船を並べた。やったことはそれだけなのに、まるで見てきたかのように、春日山城を預かる上杉景信の考えを披露する。
(これが謀臣というものか)
「謀とは、情報を操作して相手を受け身の姿勢にすることでございます。常に此方が主導権を手にし、どこを戦場にするかを此方が決めるのです。景信殿にはせいぜい、春日山城を懸命に守ってもらいましょう」
「なんとも…… 悪い御仁ですな、道為殿」
「悪くなければ、謀臣など務まりません」
呆れたように首を振る石川高信に対し、道為は悪びれることもなくそう返した。石川高信、八柏道為らは最初から、春日山城を攻めるつもりなどなかった。略奪や刈田を一切認めていない新田家において、他領を攻めることは即ち土地の接収が目的となる。春日山城を攻めたところで飛び地になって維持も難しい。だが七〇〇〇もの軍勢を佐渡で遊ばせておくことは惜しい。
そこでまず、春日山城に噂を流して上杉方を受動的姿勢にし、佐渡島の南端を見張らせておく。一方で佐渡島東部の両津にも船を集め、七〇〇〇のうち五〇〇〇をそちらに回す。
「既に用意は整っております。上杉輝虎を討てば、越後は手に入れたも同然」
暗い笑みを浮かべる道為を見て、高信は思った。なるほど、武田守信が自分はこうならないでいたいと思う気持ちも解る。何処から見ても、悪人そのものだと。
永禄八年卯月中旬、新田家が庄内地方を攻め始めたとほぼ同時に、佐渡島両津湊から五〇〇〇の新田軍が出陣した。目指すは北越後の湊「新潟」である。