虎狩りの始まり
戦国時代の「結城氏」と聞くと、下総国結城城(※現在の茨城県西部にある結城市)の結城晴朝を思い浮かべる人も多いだろう。結城氏は鎌倉幕府成立時に、下野国小山の豪族であった小山正光の子である小山朝光が、小山氏に隣接する結城の地を与えられ「結城朝光」と名乗ったところから始まる。関東八屋形にも挙げられる名門の家柄だが、室町幕府中期には没落し、一時は家が潰れたこともあった。それを再興させて、北関東でも随一の軍事力まで伸ばしたのが、結城家中興と呼ばれる「結城政朝」である。その子である政勝や孫の晴朝も本拠である結城城を護り抜き、豊臣秀吉の時代に徳川家康の人質として秀吉の養子にされていた次男の秀康を婿養子に迎え、結城の家門を遺すことに成功する。
一方、陸奥南部、現在の郡山市から白河市一帯を領していたのが「白河結城氏」である。白河氏、あるいは陸奥結城氏とも呼ばれたが、これは結城氏初代である結城朝光が白河の土地を与えられ、そこに孫の結城祐広が移り住んだところから始まる。茨城県西部と福島県南部という。それ程離れていない二つの場所に二つの結城家が存在したため、後世の人間から見ると混乱を招きやすい。さらに下総結城家の中興の祖である結城政朝と同時期(正確には二〇年ほど時期が重なっている)に、白河結城家にも結城政朝という別人が当主となって白河結城家の全盛期を築き上げたため、余計に混乱を招く。
白河結城家は、下総結城家と比べるとその没落は著しい。佐竹からの侵略を常に受け、ついには一族の小峰氏に所領を乗っ取られ、白河結城家当主の座まで奪われてしまう。江戸時代初期までは当主に返り咲くことを願っていたようだがそれも果たされず、小峰氏から「仙台藩白河氏家」が続くことになる。
福島県郡山市は今でこそ県の中核都市として栄えているが、郡山の開拓が始まったのは江戸時代からである。戦国時代においては一面が原野であった。その平原を田村氏二四代当主、田村隆顕が率いる一万五〇〇〇の軍勢が進んでいた。副将は元伊達家の猛将と名高い鬼庭良直、隆顕の嫡男である田村清顕が務める。米沢城からの兵站を担当するのは、元伊達家宿老の遠藤基信である。この陣触れに対して、隆顕は当初こそ首を傾げた。鬼庭良直は一廉の武人であり、陣中で衝突するのではという懸念を持っていた。だが蓋を開けてみると、鬼庭良直は年下の田村隆顕を大将として立て、副将の役に徹してくれていた。これには理由があった。良直はすでに五〇を越えていたが、自分よりも遙かに年上の軍師がいては、年長者を気取るわけにもいかなかったのである。
「結城は衰えたとはいえ、その力は侮ることは出来ぬ。当主の晴綱も決して凡庸の男では無い。それに家臣にも見るべき男がいる。斑目広綱、広基の兄弟は猛将として知られておるし、河東田上総介は内政家として確かな手腕を持っておる。じゃが、気をつけるべきは小峰義親じゃ」
七〇過ぎの老人が狸汁を啜りながら鞭で地図を示した。小峰城である。鬼庭良直は目の前の老人に視線を向けた。田村月斎、田村家の大軍師として南陸奥では知らぬ者はいない。
「小峰左衛門佐義親は、齢二五の若年ながら、小峰城城主として佐竹の侵攻を幾度も食い止めてきた。知勇に優れ、晴綱の信も篤く、調略も効かぬ。小峰がおらなんだら、結城などとうに滅んでおったろうな」
隆顕、清顕が揃って頷いた。田村家にとって白河結城家は累代に渡る敵である。当然、結城家の内情については調べ尽くしていた。だが田村領は伊達、蘆名、相馬、佐竹、結城に囲まれて動くに動けなかった。その状況を激変させたのが、新田家の南進であった。新田に降れば、田村領は失うだろう。だが結城家と決着をつける機を得られるかもしれない。機を読んだ田村月斎の勧めに従った隆顕は、自分の判断が正しかったと実感していた。
「大叔父上、聞くところによると小峰左衛門佐は当主晴綱を説得し、佐竹と手を結んだとか。小峰城には、佐竹の援軍が来るのではありませんか?」
「来るであろうな。佐竹どころか宇都宮や下総結城からも援軍が来るであろう。単純な数であれば我らを越えるやもしれぬ。つまり儂らの役割は攻めることに非ず。護ることにあるのじゃ。今はの……」
田村家次期当主に向けて、グフフフと老人が笑う。鬼庭良直は微かな疑念を抱いた。蘆名方面の決着が着くまで、結城を抑え込むということが役目ということは理解している。だが目の前の軍師からは、何やら悪辣な策謀を感じた。自分たちには聞かされていない、凶悪な謀略があるのではないか。であるならば、戦の仕方にも関わる。確認すべきか迷った。
「あの小童は、誰を倒すべきかをよう理解しておる。この戦の狙いは結城でも蘆名でも佐竹でもない。奥州統一ですらついでであろうな。グフフフッ」
皺くちゃな顔を歪めて極悪な笑みを浮かべる稀代の大軍師を見て、良直は確認するのを諦めた。天下は広い。まるで常識が通じない二〇歳の怪物もいれば、七〇半ばでありながら、自分よりも大食漢な妖怪もいる。自分に出来るのは戦だけだ。ならば目の前の戦に集中しよう。良直のみならず、田村親子もそう腹を括った。
「白河方面の軍勢は、今頃は郡山を抜けているでしょう。越後方面からは上杉輝虎率いる一万の軍勢が会津に向けて進み始めました。庄内方面では沼田殿が恙なく動いておりまする。機は熟しました。我らもそろそろ……」
南条越中守広継は、涼し気な笑みを浮かべて主君に進言した。齢一九になる若き当主は、その若さからは考えられないような凶悪な笑みを浮かべ、歯を見せた。
永禄八年卯月末、新田又二郎政盛率いる三万の軍勢が米沢城を出陣した。猪苗代を粉砕し、蘆名盛氏の本拠である黒川城を目指す。
「恐らく決着は、向羽黒山城となるであろう。修理大夫(※蘆名盛氏のこと)が急がせているため、かなり建築が進んでいると聞く。阿賀川を挟んでの決戦となろう。三方面での呼吸を合わせねばならぬ。九十九衆を使って連絡を密にせよ」
「御意」
新田軍は米沢城から杉目城(※現在の福島市)を通り、二本松城から西へと向かう。時をほぼ同じくして、上杉輝虎率いる上杉軍一万が、越後平野を東に進み、会津蘆名領を目指していた。越後山脈と阿武隈高地に挟まれた蘆名領を目指すため、軍勢はどうしても細長くなる。ようやく一万の軍勢が阿賀野川を上って西会津方面に入ったところで、九十九衆が動いた。津川城(※現在の麒麟山公園付近)から西側の街道に複数の忍びが配置されたのである。
「殿の狙いは輝虎を孤立させることだ。そろそろ庄内も動く。その報せを持って使者が通るはずだ。必ず殺せ。越後の様子を輝虎に知らせるな」
その庄内方面でも、軍勢が動き始めていた。酒田から余目にかけて、安東太郎愛季を大将、蠣崎宮内政広を副将とする一万五〇〇〇の軍勢が集結していた。もっとも南進の様子は見せない。余目の平原で調練をしているだけであった。新田の調練好きは既に上杉方にも知られているため、鶴ヶ岡城の本庄弥次郎繁長をはじめとする揚北衆も、それほど警戒はしていなかった。
「宮内殿、九十九衆からの報せが届きました。いよいよ、殿が猪苗代を攻め始めたようです」
「上杉も会津に入ったのですか?」
「そのようです。先程、沼田殿が出羽三山から戻られました。首尾は上々とのことです」
安東太郎と蠣崎宮内は互いに頷きあった。庄内方面には自分たち以外にも、九戸左近政実や下国重季など新田家の次代を担う若き将たちが集められていた。彼らを後見するように小野寺輝道が後方に控え、新田家の軍師となった沼田祐光もいる。本来であれば会津方面の先陣にいてもおかしくない面々が置かれていたのだ。これは何を意味するのか。
「皆々様方、虎狩りの支度は整いました。この策は三方面が呼吸を合わせるのが肝要。二日後に、狩りを開始します」
軍師である沼田祐光の言葉に、若き将たちは一斉に目を輝かせた。