北条家の決断
更新が滞り、誠に申し訳ございません。
もうしばらくバタバタしているのですが、年度末が終わって少し落ち着きました。
板東武者の始まりはいつであろうか。日本国史上初の武家政権は鎌倉幕府であったが、武士あるいは武者と呼ばれた人間は、もっと前から存在していた。日本書紀では、遠江と信濃を繋ぐラインよりも東側を「東国」と呼び、防人も置かれていた。平安時代には、駿河と相模の境である足柄坂(足柄峠のこと)より東側を「板東」と呼び。西暦八〇〇年に起きた富士山の延暦噴火で箱根峠が整備さて以降も、足柄峠と箱根峠は東国への入り口として重要な交易路となっていた。
板東の地は、鎌倉幕府誕生前までは大和朝廷の支配領域の果てであった。そのため支配領域であることを示すために、蝦夷(陸奥)の境に「神宮」が建てられた。鹿島神宮や香取神宮である。この果ての地では、蝦夷への護りのためにも郡司の子弟たちが中心となり「健児制」と呼ばれる武装集団が組織されていた。これが「武者」の原型となる。
桓武天皇の血を引く「高望王」は、臣籍に降下して上総介平朝臣高望、いわゆる平高望となって上総国の国司となった。その孫である将門は、親族との対立の中で徐々に武士集団を組織し、鉄製の農具を開発して農民を保護し、原野を開拓するなど政戦両略に長けていた。将門は軍事に明るく、特に馬上での戦い方に注目し、それまで直刀だった刀身を馬上でも扱いやすいよう反らせることを思いつく。これが「日本刀」の始まりである。
平将門は。当初は圧政を敷く国司に対抗し、農民を保護していただけであったが、一国を相手にするのであれば、いっそのこと板東の地をすべて征すれば良いと考えるようになる。そして自らを新皇と名乗り、東国独立を目指して関東八州を攻め始めた。いわゆる「平将門の乱」である。大和朝廷という国体そのものを否定し、自ら新たな「帝」となることを目指した平将門は、おそらく日本国史上唯一の「革命家」であった。
平将門によって、それまで国司の下部組織として蝦夷に備えていた武士集団は、急速に力を持つようになった。それがやがて武家の台頭、鎌倉幕府政権の樹立へと繋がる。
このような歴史から、板東武者は武士であることに誇りを持ち、雅な西国(京都)を否定するかのように、無骨で粗野な振る舞いを良しとする傾向すらあった。また奥州武士に対しては、蝦夷への征討やその後の藤原氏滅亡などから、自分たちよりも劣った武士と言う意識があった。
「新田動く」
永禄八年(※一五六五年)卯月(四月)から本格化した奥州統一に向けた新田の動きは、迅速に関東、そして越後へと齎された。春日山城には主だった重臣たちが集まり、新田を止める策を練っていた。
「新田は大きく三つに分けられる。出羽庄内から揚北を伺う蠣崎、安東軍。佐竹、結城を伺う伊達、田村軍。そして会津蘆名を攻めようとしている新田軍だ。それぞれが万を越える大軍で隙を見せれば一気に食い破られるであろう」
「結城は佐竹が後押しし、庄内方面には本庄弥次郎殿(※本庄繁長のこと)が踏ん張っている。さらにその後ろを中条、新発田などが支えている。裏切り者を支えることには彼らも不満だろうが、新田に土地を取り上げられるよりはマシと考えているのだろう。皮肉なことに、新田への恐怖が揚北を従順にさせているのだ」
「ならばそれを使えば良い。佐渡への備えとして、春日山には最低でも三〇〇〇は残さねばならぬ。越中は畠山や一向宗への備えとして五〇〇〇、庄内は七〇〇〇とすると、上野と越後から集められて一万といったところか」
「いや、蘆名とて一万近くは集められよう。我らと併せて二万。新田の本軍は三万と聞くが、蘆名には地の利がある。五分で戦うこともできよう」
重臣たちが頷く。結城家と佐竹は併せて一万二〇〇〇に達する。伊達と田村は一万五〇〇〇、十分に抵抗できる。庄内方面はもともと、攻勢の様子を見せていない。新田もまた、上杉を警戒している証拠であった。つまり決戦は会津ということになる。
「問題は北条だ。北条さえ動かなければ、佐竹に加え里見を動かすことができる。さすれば伊達、田村勢を上回り、新田の喉元に食らいつくことができる」
「あるいは新田に靡いた岩城や相馬を攻めることもできよう。だが北条が我らに付くとは思えぬ」
小田原城を失った北条家は、新田との交易によって徐々に力を取り戻しつつあった。武田と再び盟を結んだ北条家は、すでに相模を領し武蔵の半ばにまで進出している。武田は上杉とも盟を結んでいるが、東海道を西進するためには北条との盟は欠かせないものであった。新田又次郎政盛が関東進出のために打った一手によって、上杉や佐竹は後背を脅かされることとなったのである。
その北条家においても、新田軍の動きは掴んでいた。
「父上、これは好機でございます。上杉は関東にかまっている余裕などないはず。今こそ武蔵、そして下総への進出を!」
相模国玉縄城(※現在の神奈川県大船駅近郊)において、北条家嫡男である北条新九郎氏政は、関東統一に向けて動くべきと父親である北条左京大夫氏康に迫っていた。弟の氏照、氏規たちも兄の具申に賛成している。氏康も好機であることは認めていた。新田と呼応する形で里見を攻めれば、武蔵統一はおろか下総まで獲れるかもしれない。だがその先にあるのは、新田への臣従である。最初は対等に近い従属を認められるかもしれないが、新田が大きくなれば土地を領する自分たちへの圧力は強まる。そうなれば北条はおろか関東の国人すべてが土地を手放さざるを得なくなり、板東武者の歴史は終わる。簡単にはできない決断であった。
「落ち着け、新九郎。新田に呼応するということが何を意味するのか、理解しておるのか?」
「無論、理解しておりまする。北条は天下を目指さず。民が安寧に暮らせる地を育て上げ、皆で豊かに暮らす国を目指す。新田が天下を取り、その世を成すのであれば、北条はその礎となるべきでございましょう」
「簡単に言うでないわ。伊勢宗瑞公より代々に渡り当家に仕え、ともに生きてきた家臣たちのことを考えよ。新田が天下を取れば、武士が土地を持つことは禁じられる。一所懸命を胸に刻み戦ってきた板東武者の歴史が終わるのだぞ!」
「終わらせれば良うございます! そもそも板東武者とて、日ノ本開闢から存在した訳ではございませぬ。高望王が足柄を越えて関東に入られてから数百年、日ノ本は大きく変わりました。すでに蝦夷はなく、遙か北から巨大な船が伊豆に寄港し、未開と思われていた土地から様々な物産が入るようになりました。時の移ろいは加速しております。我らもまた、変わらねばなりませぬ!」
氏康はギロリと嫡男を睨んだ。その眼差しに、まだ若い二人の弟はゴクリと喉を鳴らした。北条家にとって氏康は畏怖の対象である。まるで睨むような鋭い目付きをした、滅多に笑わない厳格な父は、氏照と氏規にとって怖い存在であった。だがその父親に、長兄は真っ向から意見をぶつけていた。そんな兄の背中が、とても頼もしく見えた。
「……して、どうするつもりだ?」
数瞬の沈黙の後、氏康が口を開いた。氏政はここぞとばかりに身を乗り出した。
「武田の力を借りるのです。風間殿の話では、武田はこれ以上、今川を攻めるつもりは無いとのこと。少なくとも三河が決するまでは動かぬでしょう。そこで、武田より援軍を得て、里見に決戦を仕掛けるのです。武蔵、下総、上総、安房、それに相模と伊豆を加えて六ヶ国を領すれば、新田とて我らを無視することは出来ませぬ。天下の大勢が決するまでは、関東に手を出すことは無いでしょう。我らはその間に新田の統治を学び、国人衆を整理し、新田の天下でも生きられるようにするのです」
嫡男の進言に、氏康は沈思した。板東武者は武士としての気位が高く、簡単には変われない。だが新田が天下を取るまで、あと三〇年は必要だろう。三〇年あれば代替わりし、今よりも柔軟に新たな世を受け入れられるかもしれない。
(一丁前な口を利きおって。まさか新九郎と天下を論ずる日が来るとはな……)
「里見は三ヶ国を領し、我らと五分の力を持っている。武田の助勢を得たとしても、簡単には勝てぬぞ」
「それでも勝たねばなりませぬ。勝たねば、我らは時勢の濁流に吞まれ、翻弄された挙句に露と消えるでしょう。ここが、北条の剣ヶ峰と覚悟しております」
氏康はゆっくり頷いた。もとより動かぬという選択肢はない。新田に味方するか、上杉に味方するか。新旧どちらかに付かねばならない。自分の中には、関東の土地に強い愛着がある。新田に対しても上杉に対しても「放っておいてくれ」というのが本音であった。だがそれは許されない。ならば少しでも生き残る道を取るしかない。
「まずは武蔵を回復させよ。それで、里見との決戦は何処になると思うか?」
「下総との国境。国府台かと考えます」
新田の動きに呼応する形で、北条家の命運を賭けた一大決戦が始まろうとしていた。