誰が為の戦
蘆名氏の本拠である会津と、新田家が新たに手に入れた二本松との間にあるのが「猪苗代」である。猪苗代の由来は、磐椅神社に祀られている磐椅明神が、猪に苗代を耕作させていたためと伝えられている。他にも、蝦夷の民の言葉という説もあるが、漢字からも解る通り、稲作に関係している可能性が高い。猪苗代には磐梯山や猫魔ヶ岳、そして猪苗代湖がある。
猪苗代湖は別名「天鏡湖」とも呼ばれ、その名の通り正に天を映す鏡のように透き通った湖である。これには理由があり、火山地帯である磐梯山や猫魔ヶ岳から流れて来る長瀬川が強酸性であり、また湖底から湧き出る水も酸性であることから、猪苗代湖には水生生物が少ない。また水中の金属イオンが流入してくる酸性の水と化学反応をする際に有機物を沈殿させるため、猪苗代湖の水は驚くほどに透き通っているのである。
こうした猪苗代の特殊性は、少なくとも四万年前には完成していた。一万二〇〇〇年前には、猪苗代湖湖岸に日本列島の先住民が住み着き、縄文時代以前の遺跡も発掘されている。狩猟民族であった彼ら先住民にとって、北の磐梯山は格好の狩場であり、また透明な湖水によって水に困ることがなく、この土地は住み心地が良かったのである。磐梯山は幾度か噴火を繰り返しその形も変わっているが、猪苗代湖が映す磐梯の空は、彼ら先住民が見た景色から変わっていない。
猪苗代盛国は苛立っていた。蘆名家の重臣として扱われてはいたが、猪苗代の土地は会津と仙道(※福島県中通)とを結ぶ重要地であり、本来であれば蘆名と互角の大名であって然るべきと考えていた。それなのに、先の新田戦では他の家老たちに睨まれながら戦わされ、挙句に褒美の一つもないのである。いっそ田村と戦をしてやろうかと思っていた矢先、田村隆顕は蘆名盛氏と接触し、従属すると見せかけて時を稼いでいた。その挙句に新田に臣従したのである。
「面白くないわっ! 蘆名も新田も、俺を舐めやがって!」
まだ昼間だというのに、盛国は酒を飲んでいた。蘆名盛氏は新田と対決することを選んだようだが、盛国のところには使者すら来ていない。二本松と田村を得た新田は、次は二階堂、結城、そして蘆名を狙う。猪苗代の土地は対新田の最前線となる。そして盛国の性格から、猪苗代の土地を奪われることなど我慢できなかった。蘆名盛氏も、猪苗代は放っておいても新田と戦うだろうと見切っているのである。
「いっそ本当に臣従してやろうか…… いや、だが……」
従属ならまだ受け入れられる。だが新田は原則的に、臣従しか認めない。新田にも利益がある場合のみ、従属を認める。そして猪苗代の地理を考えれば、従属など認められるはずがなかった。
「面白くないが、蘆名の先鋒として新田と戦うほかあるまい。二階堂や結城も動くであろう。戦であれば、俺は負けん! 一戦し、新田に俺の強さを見せつける。降るのはそれからだ!」
無論、猪苗代盛国とて新田の全軍を相手に勝てるとは思っていない。だが戦場で活躍し、将の一人でも討ち取ればその後が大きく変わる。降った場合でも戦に強い武将として新田家中で厚遇されるだろう。これは盛国の考え方がおかしいのではなく、この時代の武将たちにとっては当たり前のことであった。武士は槍働きをするもの。槍働きに長けた者は厚遇される。そしてそれは戦によって証明される。これが戦国武将の常識であった。
だが残念ながら、新田又二郎政盛に武将の常識などない。猪苗代城に兵が集まっているという報せを米沢城で聞いた又二郎は、脇息に肘を置いて頬杖を突いた。
「なぁ、道為。俺はこれまでも、新田と戦をした者たちを赦し、家臣に加えてきた。だがそれには共通点があった。猪苗代盛国は、その共通点に当てはまるか?」
又二郎はこれまでも、新田と戦をした大名、国人を寛大に赦してきている。南部家、柏山家、小野寺家、伊達家、最上家などだ。家を守るため、武士の誇りのため、主君への忠義のため…… 様々な理由があるが、己が立身のために戦をした者など一人もいない。新田という巨大な敵の前にあらゆる策を考え、歯を食いしばりながら耐え、なんとか勝つ可能性を見出そうと足掻き、武士としての矜持を胸に最後まで戦ってきた。伊達輝宗も最上義光も、家臣領民のために自分の中の葛藤を抑え、膝を屈したのだ。その辛さは又二郎にもよく理解できた。
「どう考えても当てはまりませぬな。猪苗代殿が主家である蘆名家を支え、その盾となる覚悟で御当家に抗おうというのであれば別ですが、どうも己一人が生きるために戦をしようとしているようですな」
家のため、家臣のため、領民のため、あるいは武士の矜持のために命を懸けるのであれば、又二郎もその意思を尊重した。九戸や斯波、あるいは久慈など新田に滅ぼされた者たちも多くいるが、又二郎の中で彼らを馬鹿にする気持ちなど微塵もない。生き方や目指している世が違うというだけで、彼らには彼らの正義があると理解していた。だが猪苗代盛国は矜持のために戦をしているのではない。最初から負けることを見越して、新田に登用されるために戦をしようとしているのだ。
「阿呆だな。さっさと降伏して、土地を差し出せばそれなりに遇するのに。登用されるために戦をするという発想が、俺にはまるで理解できん」
八柏道為はなにも言わなかった。確かに愚かしいとも思うが、猪苗代盛国のような考え方は、むしろ武士の常識なのだ。この場合は、それを理解できない又二郎の方が異常なのである。
「まぁ良い。立身出世も武士の矜持も天下統一も、すべては己の都合に過ぎん。天下統一と三無の夢が尊くて、己一人の立身が下劣というわけではない。だが、力なき都合などただの妄想だ。そして俺にとって、この土壇場で主家を支えられぬ猪苗代など不要。新田の都合と猪苗代の都合、どちらが生き残るか決めようではないか」
口端を上げて白い歯を見せる。爛々と輝く瞳は脂ぎっており、とても一〇代の若者とは思えない。道為はそれを頼もしく思った。必要とあればどんな卑劣な事でも眉一つ動かさずにできる。だがそれにより、より多くの人が幸福になる。大のために小を切り捨てる。大悪と大欲を持つ者こそが、天下人に相応しいのだ。
永禄八年五月、柏山明吉率いる新田軍一万五〇〇〇は、猪苗代領への侵攻を開始した。
新田家が奥州統一に向けて最後の戦を始めた頃、越後上杉家においても動きがあった。上杉家に叛き、庄内南部を手中に納めた本庄繁長が、再び上杉に従属を求めたのである。無論、上杉家中からは反対の意見が続出した。一度裏切った者は、何度でも裏切る。このまま放置して、新田に滅ぼさせれば良いという意見が半分を占めた。だが本庄を使い潰せという意見も複数出た。直江景綱がその代表である。
「本庄をはじめとする揚北衆はもともと独立志向が強く、御家の方針に従わぬこともありました。此度、本庄が手にしたのは新田に隣接する南庄内。揚北衆同士での戦はありましたが、御家そのものと争ったわけではありませぬ。本庄殿には嫡男が生まれたとのこと。奥方と嫡男を人質として春日山城下に置き、新田を抑えさせるのです」
史実においても本庄繁長は叛乱の後に帰参を赦されている。だが嫡男の千代丸を人質として取られ、上杉謙信存命中は合戦などでは用いられることはなかった。本庄繁長は合戦に強く、川中島の戦や関東征伐などで活躍したが、その気質は「できれば他者に頭を下げず、独立独歩をいきたい」という、典型的な戦国国人であった。最終的には関ヶ原の戦いにおいて、徳川への抗戦継続を訴える直江兼続を抑え、終戦工作の責任者として上洛、上杉家は米沢三〇万石にまで減封され、繁長も三三〇〇石となるが、福島城主として慶長一八年(一六一四年)まで生き続ける。国人として奔放に戦国時代を生き、そして生き残ったという点を考えれば、本庄繫長は戦国時代の「勝ち組」と言えるだろう。
「確かに、繁長殿は戦に強く、調略も使いこなします。決して油断はできませぬが、新田に当てるには最適かと存じます。新田領は切り取り次第としておけば、意外と粘るやもしれませぬ」
越中国から戻っていた斎藤朝信も景綱の意見に賛成する。欲に任せたまま叛乱を起こすなど、武人としては決して褒められたものではない。だが同時に、心のどこかで羨ましいという気持ちがあるのを朝信は否定できなかった。誰に憚ることなく己が野心のままに生きるというのは、戦国を生きる一人の男子として誰もが持つ夢であろう。
「欲深き者よ……」
上杉輝虎は低く呟いた。生きるために飯が必要なのはわかる。女も欲しくなるし、酒も飲みたくなるだろう。だからそうした人の本能までは輝虎も否定はしない。だが一万石を超える国人ともなれば、少なくとも飢えることはない。民百姓と比べれば、遥かに恵まれているのだ。なぜそれで満足しないのか。
(我らが今に満足し、幕府のため、民のために生きれば戦など無くなるであろうに……)
新田又二郎政盛とは真逆の考え方ながら、上杉輝虎もまた、戦国を憂う一人であった。