田村家の伝説
遅くなり申し訳ございません。
日本国史上初めての「征夷大将軍」は誰か、知っているだろうか。源頼朝と考えた人は、もう少し歴史を学んだ方が良い。征夷大将軍とはその名の通り、中世以前に日本列島の関東以北を領していた蝦夷を征する役目を負った、臨時の官職のことを指す。そのため鎮東将軍だの征東大将軍だの、呼び方は様々に存在したが、日本人の記憶に長く残ることになったのは「征夷大将軍」の呼称であった。
歴史を学んだものは、蝦夷を征する将軍と聞けば「坂上田村麻呂」を思い出すだろう。だが坂上田村麻呂は、征夷大将軍ではあったが最初ではない。それ以前に「大伴弟麻呂」が征夷大将軍に任命されており、これが現存する記録としては日本史上最初の征夷大将軍である。ちなみに副将軍も存在しており、最初の副将軍が坂上田村麻呂であった。
坂上田村麻呂は、奈良時代から平安時代にかけて、大和朝廷の征東活動で名を成した。大伴弟麻呂よりも名が知られている理由として、田村麻呂は征夷大将軍に二度任命されていること。蝦夷の族長であった阿弖流為を降したことにより、東北地方までの制圧を完成させたこと。征夷のみならず「薬子の変」などでも護国のために活躍したことなどが考えられる。当時においても田村麻呂は「王城鎮護」「平城京の守護神」などと呼ばれ、崇められた。日露戦争に勝利した東郷平八郎を「軍神」と呼んだ人々と、同じようなものであったのだろう。
坂上田村麻呂は子に恵まれ、後に田村麻呂流と呼ばれる家系を残した。その中でも大野系、広野系、浄野系を坂上本家とよび、陸奥守や鎮守府大将軍といった陸奥国の高官を多く輩出している。坂上家は公家ではあるが武門の家柄であり、たとえば清和源氏にも坂上家の血脈は流れている。まさに坂上家は、武士の源流と言えるだろう。
その坂上田村麻呂を祖として、小領ながら奥州でも知られた家として「田村家」がある。田村麻呂の征東以来、陸奥国田村荘(※現在の福島県郡山市と田村市一帯)を領してきた「田村庄司家」は、南北朝時代に南朝を支持していたが、田村領内の武士集団であった「御春輩」は北朝を支持し、やがて領内で争うようになる。北朝の勝利により、田村庄司家は没落し、御春輩を中核とする「三春田村家」が田村氏本流となる。
後に「田村庄司の乱」と呼ばれるこの一連の過程は、実際にはもう少し複雑で、鎌倉公方下における権力闘争の側面もある。田村庄司の乱によって勢力を伸ばしたのは、実は三春田村家ではなく、まったく関係のない白河結城家であった。田村家や白川結城家の領地は陸奥の南端であり、関東と隣接している。鎌倉府の影響を強く受ける土地柄なのだ。白河結城家は検断職(※今でいう徴税官)の立場から、鶴岡八幡宮の段銭を田村氏から取り立てようとした。これは南北朝分裂の中で、白河結城家が上手く立ち回り、足利尊氏から田村領の検断職を任されたからである。
当然ながら田村氏にとっては面白い話であろうはずがなく、田村氏と白河結城氏は対立を深めることになる。やがてその不満は鎌倉府に対する反乱という形に帰結し、田村庄司家は鎌倉公方足利氏満によって没落する。田村荘は鎌倉府の御料所となり、その代官を白河結城氏が任されることになる。
三春田村家の当主である田村隆顕と嫡男の清顕が米沢城を訪れたのは、永禄八年(一五六五年)の弥生(旧暦三月)上旬のことであった。坂上田村麻呂を祖とする田村氏は、奥州ではそれなりに名が知られていたが、所領はそれほど大きくない。かつては伊達氏に従属していた一国人であり、今でも大名と呼べるほどの力は持っていない。伊達や相馬、佐竹などと手を組んで、その力を背景に生き残りを図ってきたのが田村家であった。
「新田に仕えるということは、田村荘を手放すことを意味する。安芸守(※田村隆顕のこと)はそれを理解しているのか?」
又二郎は訝しむような視線を向けた。田村からの執り成しを頼まれた伊達総次郎輝宗は、その視線に思わず身が竦んだ。田村隆顕が外交に東奔西走しているのは、すべて代々伝わる田村の土地を守るためである。田村家は領地こそ小さく小国人であるが、坂上田村麻呂を祖とし、武辺者も多い家柄である。土地を取られるくらいなら、いっそ一戦して華々しく散る道を選ぶほうが、田村らしいのではないか。総次郎自身もそんな気がしていたのだ。
「まぁ良かろう。取り敢えず会ってみよう」
又二郎や総次郎の疑問は、田村隆顕、清顕と対面した時に氷解した。親子二人だけだと思っていたら、もう一人、老人が入ってきたのである。
(おいおい…… 実在したのかよ!)
「フォッフォッ! なるほど、こりゃ化物じゃわい」
真っ白な髪と髭、目に掛かるくらいに垂れさがった白い眉の奥に、爛々と瞳が輝いている。異常なのはその体躯であった。顔はどう見ても齢七〇は過ぎているように見えるが、背筋はしっかりと伸び肩は張り、胸板は分厚い。身長は六尺近くあり、腕も首も太い老人であった。
「田村家の大軍師、田村顕頼殿まで来られるとは、これは驚きだ。安芸守殿を説得したのは、顕頼殿であったか」
「いまは出家し、月斎と名乗っておる。ただの爺じゃ」
「大叔父上、その言葉遣いは……」
嫡男の清顕は、不安げに老人を窘めた。確かに降る者の言葉づかいではない。だが又二郎にとってこれ程年上の人物は、自分の祖父である新田盛政だけであった。しかも相手は、戦国時代における伝説的な存在なのである。言葉遣いなどこの際、どうでも良いことであった。
「構わぬ。『畑に地縛り、田に蛭藻、田村に月斎無けりゃ良い』とまで畏れられた御仁だ。言葉遣いを改めるべきは此方であろう。それで安芸守殿、田村家は新田に降るという理解で良いのか? もし迷われているのであれば、今回は米沢を見聞して帰るということも認めるが?」
下手をしたら敵に回るかもしれない相手に、又二郎は極めて寛容な姿勢を示した。伝説の大軍師に出会えたという興奮もあったが、伊達総次郎輝宗の執り成しという点を考慮してのことである。総次郎が執り成したから、寛容に受け入れられた。こうしておけば、南奥州の国人たちは伊達を頼って降るようになり、総次郎もその後の内政がしやすくなる。
「田村の土地、すべてをお渡しいたします。されど田村荘には縁者多く、皆が土地に愛着を持っておりまする。我らは日ノ本の果てまで従いまする故、どうか田村の民たちには過酷な仕置き無きよう、お願い申し上げまする」
「当然だ。降る以上、田村の民は新田の民となる。過酷な仕置きなどできようはずもない。されど田村と新田の間には、二本松がある。二本松義国殿は中々に頑固でな。所領が安堵されぬ限り、新田には従えぬと抵抗しておる。さて、どうしたものかな……」
「されば……」
田村隆顕はズイと身を乗り出した。顔つきに太々しい程の頼もしさがある。ここが勝負どころと思ったのだろう。
「二本松攻め、我ら田村にお命じ下され。奮迅の働きを致しまする。その上で、田村の土地を含め、すべてを新田家にお渡し致しまする」
「頼もしき言葉よな。総次郎、二本松の兵力は?」
「掻き集めても、およそ二〇〇〇から三〇〇〇かと。一方、米沢城には二万を置いておりまする。お命じ下されば五日以内に、さらに二万が集結するでしょう」
「よし、二本松の一番槍は田村に任せる。存分に働かれよ。我らもすぐに兵を動員し、一気に二本松を攻める! 問題は蘆名、相馬、結城、佐竹の動きだが…… 月斎殿はどう思うか?」
又二郎に促され、伝説の軍師は白い眉を片方だけ上げた。
「相馬孫次郎はいま、佐竹と争っておる。二本松まで兵を出す余裕はない。それに相馬と田村は縁戚の仲じゃ。我らが降ったとなれば、孫次郎殿も考えるであろう。蘆名はいま、猪苗代の動きを怪しんでおる。猪苗代盛国という男は、我欲は強いが頭は余り働かぬ男でな。すこし突っつけば離反するであろうな。そして結城は……」
月斎の雰囲気が変わった。白髪が波打ち、深い皺が刻まれた眼の奥からメラメラと燃える炎が見えるようであった。
「結城は田村にとって不倶戴天の怨敵! 有無を言わさず滅ぼせば良いのぢゃぁぁっ!」
(なんて爺さんだよ。アンタのほうが化物だよ)
又二郎は乾いた笑い声をあげながら、関東に向けての道程を描いていた。