嫡男誕生
遅くなりまして申し訳ございません。
永禄六年の大きな動きとして取り上げておかねばならないのは、甲斐武田家と尾張織田家との婚姻である。武田家は史実とは異なり、武田太郎義信が次期当主として見込まれている。だがそれでも、諏訪氏の血筋を引く諏訪四郎勝頼の価値は大きかった。特に織田家にとっては、美濃や尾張に近い南信濃伊那谷の高遠城城主である勝頼は、義信以上に縁を結んでおきたい相手であった。
そこで信長は、高遠城とも近い美濃苗木の遠山直廉の娘を自分の養女とし、武田との婚姻を結ぶことに成功した。武田信玄としても、当面は今川攻めに集中したいため、南信濃と隣接する織田家と縁を結んでおくことは、悪い話ではなかった。
「織田、そして松平と盟を結んだことにより、今川は完全に孤立致しました。御屋形様、いまこそ今川攻めの好機でございます」
「うむ。来年の春、武田の全軍をもって薩埵峠を越える。太郎よ、調略の進み具合はどうか?」
「瀬名、葛山からは返事が来ておりまする。どうやら氏真殿は、祖母である寿桂尼殿を遠ざけている様子。自分が当主として差配したいと考えているのでしょうが、寿桂尼殿は今川家中にも大きな影響力を持っておりまする。氏真殿の家中の評判、余り宜しくないと聞きまする」
「時はまだある。調略の手を緩めるな。勝負は戦う前に終わらせるものぞ。敵について細かく、詳しく調べ、調略の限りを尽くし、十分な兵、武器、兵糧を整え、勝利を確信して臨むのだ。そう心得よ」
「ハッ…… そこで、気になる点が一つ。三河の松平からの申し出ですが」
松平元康は、西三河の一揆を抑えることに成功し、来年はいよいよ東三河の切り取りに乗り出そうとしている。そこで元康は武田に対し、遠江は松平、駿河は武田で分け合おうと提案した。
「太郎はどう思うか? 存念を言ってみよ」
「我らは既に駿河に食い込んでおり、薩埵峠を越えれば駿府城は目と鼻の先。一方の松平は、未だ三河の半分でございます。虫の良い申し出とは思いますが、某は敢えて、これを受けるべきかと考えます」
「理由は?」
「薩埵峠を越え、駿府城を包囲した段階で、氏真殿に早川殿を返すよう、申し入れます。その際に、武田は氏真殿のいる遠江には攻めぬ、という約定を交わしては如何でしょうか」
重臣たちが顔を見合わせる。飯富虎昌は満足げに頷いた。信玄も義信が何を考えているのか察した。だが敢えて、ここは別の者に喋らせようと思った。
「真田、どう思う」
「いやいや。若君の策、正に鬼謀でございますな。遠江一国があればと、氏真に希望を与えて早川殿を取り戻す。その上で、今川攻めのとどめを松平に押し付けるのですな? 若君と氏真は義理の兄弟、最期まで攻めるというのは、さすがに聞こえが悪うございます。駿河統治のためにも、ここは松平に華を持たせてやるべきでしょう。我らにも大いに利になりまする」
「うむ。太郎の策を是とする。それと薩埵峠の戦においては四郎を初陣させるつもりだ。先鋒は太郎に任せる。薩埵峠さえ越えれば、駿河は手に入れたも同然。乾坤一擲の戦となるであろう。皆もそう心得よ」
評定が終わると、信玄は正室である三条乃方の部屋に入った。嫡男が家中でも認められてきたことにより、最近の三条乃方は機嫌が良いことが多い。大河ドラマなどでは夫婦仲が険悪であったと描かれることもあるが、信玄との間に三男二女を儲けていることからも、実際には夫婦仲は相当に良かった。
「駿河を切り取った後は、武田の家督は義信に譲ろうかと考えている」
「まぁ。ですが御前様はまだ四〇過ぎではありませぬか。義信には荷が重いのではありませぬか?」
「それくらいが良いのだ。儂は父を追い出した。頼れる者無く、武田を背負った。結果を出そうと焦り、砥石攻めを失敗した。だが義信には儂がいる。儂が後ろ盾になっておけば、たとえ失敗しても庇ってやることができる。一〇年もすれば、奥州から新田が攻めて来るだろう。その前に、武田を義信の下でまとめておかねばならぬ。たとえ負けても、儂が腹を切れば良い。これは、武田の家を残すための措置だ」
「ホホホッ…… 滅びるなどと、年寄り臭いことを。信濃を攻めると決めた時の覇気は何処へ行ったのですか? 御前様も私も、まだまだ若うございますよ?」
「フフフッ、そうだな」
そう笑いながらも、武田信玄は冷静に未来を予想していた。上杉と武田の両家で三五〇万石、そこに佐竹や里見を加えても、なおも新田には届かない。新田は常備兵ばかりなので、兵力そのものは伍することはできるだろう。だが兵の練度はおろか、一人ひとりの民の暮らしぶりがまるで違う。戦場で勝ったとしても、新田と隣接した段階で負けであった。
(土地を棄てることなど、儂には出来ぬ。だが義信や勝頼のような若者ならば、新田の統治に慣れることもできよう。全力で戦う。だが敗れたときは、儂が旧き武田家を背負って死なねばなるまい)
夫の悲壮な決意を察しているのか、三条乃方はそれ以上は何も言わず、駿河から届いた果実を出した。
永禄七年を迎える。新田家中は期待と緊張に包まれていた。南部晴政の長女である桜が、出産を迎えたのである。又二郎は浪岡城で読書をしていたが、とても集中できなかった。子や孫が生まれることは前世で経験済みなのに、精神年齢が幾つになっても、こうした時は落ち着かないものである。
やがて赤子の泣き声が聞こえた。ドタドタと廊下を走る音が聞こえる。
「殿、おめでとうございます! 立派な男子でございますぞ!」
「落ち着け田子九郎(※石川信直のこと)。こういう時こそ呼吸を整えるのだ。俺を見ろ。いまも兵法書で学んでおる」
「……殿、上下逆でございますぞ?」
又二郎は本を閉じるとゆっくり立ち上がり、そして駆け始めた。田子九郎は、怪物と畏れられる主君にもそういうところがあるのかと微笑んだ。
又二郎は念入りに手を洗い、深呼吸して部屋に入った。先に桜の顔色を見る。少し青白いが、元気な様子であった。
「御前様……」
「桜、よくやった。おぉっ、立派な赤子だ」
又二郎は生まれたばかりの赤子を覗き込んだ。名前は既に決めている。自分と同じ「吉松」である。祖父である新田盛政も入ってきた。既に六〇半ばの老齢の顔がクシャクシャに歪む。
「まさか曾孫の顔を見ることが出来るとは。長生きはするものじゃて……」
又二郎は戦国時代における出産後の間違った慣習をすべて否定し、出産後の母体は可能な限り休ませ、栄養価の高い食べ物を用意した。赤子の抱き方や扱い方まで細かく指示し、それを紙に落として領内にばら撒いている。少なくとも三歳までは注意して育てなければならない。
(この子は新田家の嫡男だ。いずれ傅役も決めねばなるまい。だが今は、この時代を生きているという実感に浸ろう。いつかこの子に話してやろうか。遥か遠い未来のことを……)
少し震える手で赤子を丁寧に抱く。転生してから一六年、又二郎は父親となった。
新田家嫡男の誕生という話は、瞬く間に領内に広がり、そこかしこで祝われた。飛ぶ鳥を落とす勢いで拡大し続ける新田家において最大の懸念であった「跡取り」が出来たのである。家臣たち全員が胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。特に旧南部家家臣たちの喜びは大きかった。家老である毛馬内秀範は、南部家菩提寺にて南部晴政の位牌に手を合わせた。
「兄上、桜が男子を生みましたぞ。これで新田家と南部家の血が一つとなりました。殿は二人目の男子に南部家を再興させると仰っています。いずれ日ノ本が一つとなったとき、南部家は大新田家の重鎮として、日ノ本を差配するようになるでしょう」
そして肩を震わせる。感極まってしまったのだ。
「兄上は仰られていましたな。時と立場が違えば、三顧の礼を尽くして桜の婿に迎えていたと。形は違いましたが、兄上が願っていた未来が来そうです。どうかこれからも我らを、新田家を見守っていてくださいませ」
永禄七年睦月の末、新田家待望の嫡男、吉松が誕生した。史実には登場しない新しい命のために、又二郎をはじめとする多くの者たちが、天下統一に向けての決意を新たにしていた。