佐渡島陥落
今年も一年間、たくさんの応援を頂きまして、誠に有難うございました。
本話が、本年最後の投稿となります。
永禄六年長月(旧暦九月)中旬、三〇〇〇石船六〇隻が佐渡島東岸の両津湾に押し寄せた。両津湾は、その名が示す通り「二つの津」があることから付けれられたものである。
「ここが加茂湖か」
日本海側の海岸から僅か二町(※約二二〇メートル)のところにあるのが加茂湖である。その大きさは現代の単位でおよそ五平方キロメートル。立派な淡水湖である。史実では明治時代に工事が行われ、両津湾と繋がって汽水湖(※海水と淡水が混じる湖)となった。
(たしか汽水湖になったことで、カキの養殖が盛んに行われるようになったんだよな。とはいっても、いまは淡水湖だし、この時代の技術では開発するのも時間が掛かるだろう)
加茂湖については当面は手を付けずにおく。佐渡島は北に大佐渡山地、南に小佐渡山地を持ち、二つに挟まれるように国仲平野が広がっている。この平原に道を通し、東の両津湾と西の真野湾を繋ぐ。現代では、加茂湖の北側に国道三五〇号線が通っているが、それと同じ道を整えようと考えた。
「両津湾と真野湾を整備し、蝦夷からの船は両津湾に、越前や博多からの船は真野湾に入るようにする。国仲平野には東西の物産が集まり、そこで商いが行われるようになるだろう。そのためにも街道整備と治水を行う。だがその前に、奪うことしか知らぬ荒れくれ者たちを駆逐しなければならない」
加茂湖岸に補給の起点となる本陣を置くと、新田軍は早速動き始めた。周辺の集落に人を送り、施餓鬼や炭団、衣類の配布を行う。当然、佐渡の民は新田など知らない。前の領主とは違い、民が豊かに暮らせるよう力を尽くすという姿勢を具体的に示さなければならない。
佐渡島自体はそれなりに大きいが、国仲平野は東西三里、南北二里程度の広さしかない。一日で踏破できる。新田軍が両津湾に上陸したという報せは、真野湾側に城を構える本間氏にもすぐに届いた。
「殿、雑太城より本間山城守殿の遣いが参りました」
「会おう。しっかりと教えてやらんとな」
本間氏の惣領である雑太本間氏の遣いは、これまで見たことがないような大軍に怯えながら本陣に入ってきた。だが齢一七の髭も生えていないような若者を目にして気が大きくなった。
「これは一体、どういうことでござるか? 我らの後ろには、畏れ多くも関東管領上杉輝虎公が控えている。聞くところによると新田家は奥州からいらしたようだが、我らと争うということは、関東管領を敵に回すということでござるぞ?」
誰かが噴き出した。なにを今さらである。新田はとっくに上杉と敵対しているのだ。又二郎は使者に言葉を返す前に、本陣の重臣たちに語り掛けた。
「皆も他山の石とせよ。閉ざされた島の中で、外を見ることなくピシパシとやっていたらどうなるか。これがその例だ。佐渡島は今の日ノ本の縮図よ。外の状況をまるで知らぬ」
そして優し気に使者に返答する。
「お主は知らぬかもしれぬが、新田はとうの昔に、上杉と敵対しているのだ。関東管領? 大いに結構。ぜひ呼んでまいれ。もっとも、輝虎は越中に出陣して一向一揆と戦っている最中だから、戻って来るのは当分先であろう。さて、俺が何のためにここに来たのかを伝えよう。一言一句違えずに、雑太城に伝えるがよい」
そして表情が一変する。齢一七の若者とは思えない、凄まじい笑みを浮かべた。
「貴様らにこの佐渡島は勿体なさすぎる。よって一反の土地も余すことなく、新田家が佐渡島のすべてを没収する。雑太、河原田、羽茂の本間家にはそれぞれ一〇〇〇石ずつ禄を呉れてやる故、すべての土地を差し出せ。河原田、羽茂からの使者はまだ来ていないが、雑太の山城守には三日の猶予を与える。三日以内に返答せよ。それ以降の降伏は受け入れぬ。確と伝えよ」
使者はブルブルと震えた。怒りで震えているのではない。目の前の若者が発する、凄まじい殺気に恐怖しているのだ。まるで物ノ怪、妖魔ではないかとさえ思えた。
逃げるように使者が出ていくと、又二郎は軍を進発させた。三日の猶予を与えたが、それまで軍を動かさないというわけではない。本間一族間で争う中で築かれた小砦などを次々と落とし、怒涛の勢いで真野湾を目指す。やがて三日が経過した。予想通り雑太からの返答は無く、河原田や羽茂からも使者は来ていない。
「恐らく、慌てて春日山城に援軍を要請しているのでしょう。ですが上杉本軍は遠く越中にあり、たとえ戻ったところで万の兵を送るだけの船を用意するなど無理でしょう。本間は一族間で争いを続け、上杉も度々、手を焼いていたと聞きます。むしろ御当家に呉れてやっても良いとすら思うかもしれませんな」
「ハハハッ、土地を拓き、豊かにすることを知らぬからそんな発想になるのだ。この平原を見ろ。新田が開発すれば米だけでも数万石に達するだろう。海運の要衝でもあり、山からは鉱物資源が獲れ、海からも恵みがある。この島は宝の山だ」
「既に北の山地には山師を派遣致しました。殿が仰られていた西側を重点的に調べ始めておりまする」
後に世界遺産登録候補となる佐渡金山だが、佐渡には大きく四つの金銀山がある。その中で戦国時代以前から知られていたのが、真野湾近くにある西三川砂金山である。これはその名が示す通り、砂金採取が行われており、今昔物語集にも登場するほど有名であった。
だが佐渡金銀山の代表格は、北西部にある相川金銀山と鶴子銀山である。閉山までのおよそ四〇〇年間で、金七八トン、銀二三三〇トンを産出した日本最大の金銀山である。だが相川金銀山は、戦国時代では発見されていない。本格的に鉱山開発が始まったのは江戸時代である。
「国仲を制すれば、佐渡を制したも同じだ。だが羽茂本間氏の本領である羽茂城は佐渡の南にある。ここまで一気に落とすぞ」
先鋒の九戸政実が河原田城を攻め始めた。兵力、装備、補給に至るまで圧倒的に違う。半日では河原田城は落城し、河原田本間家の当主である本間貞兼は自害、嫡男の高統はまだ幼いため、家禄三〇〇石で本間家を残すことを認めた。さらに雑太城も攻め落とし、数日後には羽茂城も落ちた。本間家は高統を当主とする一族だけが残った。
「本間高統は酒田に移す。新たに佐渡奉行を置き、佐渡開発に力を入れる。東西南北四ヶ所に灯台を設け、東西の港湾を開発、街道を整えて物流網を構築せよ。それと人だ。鉱山開発には男手が必要になる。此度の戦で捕らえた者たちを賦役として使え」
羽茂城が落城したころ、山師たちが慌てて戻ってきた。詳しく調べるまでも無く、信じ難い程に巨大な金山を見つけたという。又二郎は内心ではさもありなんと思った。何しろ佐渡金山は「露天掘り」が出来るほどに大きいのである。
「宇曽利から技師たちを呼ぶぞ。安部城では一〇年前から灰吹き法での鉱山開発を行っている。技術を修得した者たちも多い。彼らを呼び、この佐渡に一大鉱山都市を形成するのだ」
又二郎の指示により、文官たちが慌ただしく動き始める。又二郎は佐渡南端の小木湊から海を眺めていた。この湊から真っ直ぐ南へ進めば、直江津に着く。新田の船ならば一日の距離だ。一方、海軍を持たない上杉家にとっては、春日山を脅かされることになるため、兵を駐留させる必要がある。
「そろそろ、上杉輝虎も越中の決着をつけるだろう。果たしてどう出て来るかな?」
永禄六年神無月中旬、新田家はおよそ一ヶ月で、佐渡島を完全に手中にした。新田家と上杉家の争いは、新たな局面を迎えようとしていた。