神保氏滅亡
永禄六年(一五六三年)弥生(旧暦三月)、新田家の重臣小野寺孫四郎輝道は、延沢氏の当主延沢満重と嫡男の満延を連れて、津軽浪岡城を訪れた。昨年の戦によって、延沢氏は出羽国内で完全に孤立した状態となってしまい、領民も次々と離れていることから、家を存続させるためには新田に降るしかないと決断したのである。
「新田陸奥守政盛である。両名とも、良う決断された。約定通り、家禄一万石で召し抱える。孫四郎、延沢の民は新田の民となったのだ。差別することなく豊かに暮らせるよう、導くのだ」
「既に内政に長けた者、数名を送りましてございます。施餓鬼と衣類の施しを行いました。現在、検地、戸籍整備、刀狩りの他に、銀山の調査を行っております」
小野寺孫四郎輝道は、戦のみならず内政にも強い。八柏道為という稀代の謀臣を抱えていたとはいえ、史実でも大宝寺氏に居候していた身から、出羽屈指の大豪族を一代で築き上げた男である。そんな男が徒歩で行けるほどの距離に堅城を構え、徹底した内政と調略を行っているのだ。出羽に残された天童や最上からすれば、たまったものではない。
その小野寺輝道が、わざわざ津軽まで来たのは、延沢氏を降したという報告はもちろんだが、他にも目的があった。
「殿に一つ、お願いがございます」
「なんだ? 必要なものがあれば、遠慮なく申すがいい」
「ハッ…… 某の妻である照が、この浪岡まで来ております。妻が言うには、ぜひ田名部を見て見たいと。某、恥ずかしながらこの年まで、妻には何ひとつしてやれませなんだ。妻の願いをぜひ叶えてやりたいと思いまする。御許しのほど、お願い致しまする」
要するに妻への孝行をしたいから、有給休暇を呉れという願いである。又二郎は爆笑し、そして同時に思った。いっそこれを制度化し、年に一度の家族旅行を推奨すべきではないか。新田の重臣たちは家禄を持つ者が多い。つまり富裕層である。彼らに金を使わせれば、さらに経済は回る。
「ハッハッハッ! 大いに結構! 孫四郎に二〇日間の休みを与える。家族水入らずの時を過ごすがよい。ただし、所在だけは明らかにしておけ。天童が動くとも思えんが、念のためな」
「有りがたき幸せ」
小野寺輝道はホッとした表情を浮かべた。又二郎は後にこれを制度化し、領内各地に温泉宿場を整え、観光業という新たな産業を興した。文化とは、余裕があってこそ生まれるものである。今はまだ社会基礎基盤の整備が優先であったが、少しずつ文化観光も整えようと思った。
新田家が内政に力を入れている頃、越後上杉家は戦に力を入れていた。長年にわたって、越中国の国人である椎名右衛門太夫康胤と神保宗右衛門尉長職は抗争を続けていた。椎名氏は上杉の支援を、神保氏は能登畠山氏と加賀の一向一揆の後ろ盾を得ている。庄川を挟んで両者は争い続けていたが、大抵の場合、神保長職が攻めて椎名康胤を追い詰め、そこに上杉が出てきて神保氏を追い払う、という形であった。上杉からすれば、椎名氏に対しては「もう少ししっかりしてくれよ」というのが本音であった。
「戦は、神通川を挟んでの野戦となりましょう。されど我らが退けば、再び神保が攻めてくるのは必定。御実城様、此度の戦はどこまで攻めまするか?」
「滅ぼす」
「御意!」
新田家の抑えとして置いたはずの本庄氏の動きが怪しい。越中国に不安の種を残すわけにはいかなかった。たとえ能登畠山氏が仲裁してきたとしても、それを撥ねつけて神保氏を滅ぼすというのである。
「神保長職だけならば怖くはない。だが問題は加賀の一向一揆だ。噂ではここのところ、力を増していると聞いている。越前朝倉家も苦戦しているとか」
「その噂は儂も耳にした。一揆に加われば飢えることはないと喧伝しているとか。実際に、思いのほか兵糧は豊からしい。何もないところから兵糧が湧き出るはずがない。一体なぜ……」
「新田だ」
首を傾げる重臣たちに対して、上杉輝虎はボソリと呟いた。万を超える一向一揆を支える兵糧となれば、出所は限られる。能登でも越中でも越前でもないとすれば、船で運ばれているとしか考えられない。そしてそんな船を持つのは、新田家以外はあり得ない。
「おのれ新田。富裕にモノを言わせて、他家に戦をさせるとは卑怯な!」
「いや、それが新田の強さなのだろう。新田の戦は、ただ槍刀を交えるというものではない。むしろその前に、富裕によって相手を追い詰め、戦をせざるを得ない状況を作ってしまう。恐ろしい相手よ」
斎藤下野守朝信は、なにか得心したように頷いた。「新田は敵」というのが、上杉家中の共通認識であったが、個々の心情は違っていた。新田を嫌う者も多いが、認める者もそれなりにいる。そして斎藤朝信はその代表格であった。本人も、叶うならば新田と上杉とは盟を結ぶべきとまで思っている。
「御実城様。一揆の後ろに新田が付いているとなると、思いのほか苦戦するやもしれませぬ。如何致しましょう……」
「車懸りを使う」
先鋒が敵とぶつかったときに、後方から回り込むように斜めから敵を突き、さらにその後方が回り込んで横から敵を突き、最後に上杉輝虎と旗本衆が自ら動いて敵本陣を突く。全軍が呼吸を合わせなければ各個撃破されてしまうが、上手くいけば幾何級数的に破壊力が増していく。史実でも、上杉輝虎が得意とした戦法である。ちなみに「車懸りの陣」というのは、後世の創作である。
武田の軍略書である「甲陽軍鑑」の中では「それは車がかりとて、いくまはりめに旗本と、敵の旗本とうちあはせて、一戦をする時の軍法なり」と記されている。陣形として表現されたのは、太平の世となった徳川時代であり、一度も戦をしたことがない者が、何か個性的で目立つ陣形をと勝手に創作したもの過ぎない。
方針が定まると上杉輝虎は立ち上がった。家臣たちも全員が起立する。
「此度の戦、越中を完全に手中に収める。そして再び、新田と決戦する。生を拾おうとはするな。『死中生有り 生中生無し』……この一戦に、すべてを賭けよ」
「「ハッ」」
軍神、上杉輝虎が自ら動く。その時、上杉軍は本当の意味で最強となる。並みいる名将、猛将たちは瞳を輝かせ、猛々しい笑みを浮かべた。
「んで…… その結果、神保長職は神通川で討死、畠山が仲裁する間もなく、神保は滅びたと?」
「御意でございます。一揆衆は蹴散らされて加賀へと遁走。上杉は怒涛の勢いで越中比美の飯久保城まで落とし、そこを畠山との境としました」
浪岡城の寝室において、加藤段蔵が上杉の動きについて報告していた。又二郎は思わず額に手を当てた。上杉輝虎自らが兵を率いて敵に突撃、上杉軍一万五〇〇〇全員が死兵と化したという。幾らなんでも強すぎだろうと思った。つまり、先の余目の戦では、上杉は本気ではなかったということである。まともに激突すれば、此方に万単位の犠牲を出しかねない。
「調略で削るしかないな。だが上杉に隙はあるのか……」
「一つ、火種となり得ることがありまする。此度の戦において、上杉に援軍を求めていた椎名右衛門太夫康胤殿でございます。富山城は取り上げられ、旧神保領であった射水、婦負の二郡に領地替えとなりました。このことに不満を漏らしているそうです」
「ロクに活躍もせず、上杉に幾度も援けて貰っておきながら、安全が確保されると途端に不満を漏らすか。救いがたい男だな。だが上杉の隙でもあるな。接触できるか?」
「既に手の者を入れておりまする。ですが火を付けるとするならば、庄内の仕込みが芽吹いた頃が宜しいかと……」
本庄繁長に謀反の気配有り。この噂は春日山城にまで届いている。上杉輝虎が戦を急いだのも、その噂が気になったからであろう。そして上杉軍が出羽庄内に目を向けた時、得たばかりの越中国が再び燃え上がる。その時、新田はどう動くか。又二郎はそれを想像して極悪な笑みを浮かべた。
「良かろう。仕掛けは段蔵に任せるが、出来ればもう少し後が良いな。三〇〇〇石船の建造を急がせている。東西で火が付けば、佐渡まで気を配る余裕はあるまい?」
主君の嬉しそうな顔に、段蔵は微かに目を細めて一礼し、そして消えた。