永禄六年の始まり
遅くなり申し訳ございません。
永禄六年(一五六三年)、新田又二郎政盛は齢一七となった。身体の成長もそろそろ止まり始めている。食べ物が良いためか、この時代の男性としては少し大柄であった。だが又二郎以上に、育っている者たちがいた。
「御前様、先ほどからなにを見ているのですか?」
「厭らしいですわ。助平な視線を感じますわ」
桜と深雪の良く実った二つが、プカプカと湯に浮かんでいる。この時代でここまで育つものなのかと又二郎は首を傾げた。確かに肉や野菜の他に、豆類、豆乳、魚のすり身、牛乳など様々な食材を生産することで、現代に匹敵する食生活は実現した。それが功を奏したのか、二人の伸長は伸び、男顔負けの背丈となっている。そして女性として極めて魅力的になっていた。
(これなら、子を産むこともできるだろうな。遺伝的なものなのかもしれないが、食生活が子供の成長に大きく影響を及ぼすのは確かだ。施餓鬼や孤児院の食べ物を改善しよう)
浪岡城に増設した風呂は、二人にとってもお気に入りであった。今は入れないが、八甲田山には酸ヶ湯温泉がある。領内探索をしながら温泉巡りをするのも悪くない。又二郎は左右に並ぶ二人の肩に手を置き、自分の側に寄せた。
永禄六年如月(旧暦二月)、又二郎がオギノ式で計算をしながら子作りに取り組み始めた頃、十三湊の一隻の船が到着した。精悍な顔つきをした男が船から降りる。およそ二年ぶりに津軽に戻ってきた、田名部彦左衛門政孝であった。
「彦左衛門、よう戻ってきた!」
浪岡城に登城した彦左衛門を又二郎は満面の笑みで出迎えた。父親の田名部吉右衛門政嘉の他、文官たちが並ぶ中、大広間で彦左衛門は九州の報告を行った。
「二年かけ、九州の様子を見て参りました。結論から申し上げれば、どの大名も戦ばかりに囚われ、内政を疎かにしておりまする。珍しき物産はありましたが、これはという大名はいませんでした」
「ふむ。九州といえば大友が良く知られた名だが、彦左衛門からすれば物足りぬか?」
「確かに大友は大きくはございますが、毛利との戦に明け暮れておりまする。それだけならまだしも、毛利を八幡菩薩の敵と非難したとか。それにキリシタンに庇護を与え、政にまで口出しを認めておりまする。そのことに眉を顰める者もいるとか……」
「南蛮人を見たか?」
「はい。平戸に南蛮交易の船が来ておりました。身体は日ノ本の男より二回りは大きく、瞳は青く、髪は赤く…… 確かに日ノ本の民とはまったく異なる風貌でございました」
「フム…… 南蛮船を十三湊に呼ぶことはできるか?」
「それは難しいかと。南蛮の者たちとしては、この日ノ本は故郷から遠く離れた地。自分たちが庇護されると確信できる土地でなければ、安心できぬようです。大友家ではキリシタンの布教を認めたため、南蛮交易ができるようですが、殿はキリシタンの教えを認められますか?」
「難しいところだな。単に信仰するだけならば、俺はなにも言わぬ。だがそれを他人に強要する者は許さぬ。いま時点では、キリシタンを認めると安易に結論は下せぬな」
「博多の商人の中には、南蛮交易を望むためキリシタンになる者までいるとのことです。その中で、一人の男の知己を得ました。日ノ本の外との交易を望みつつも、キリシタンには否定的な男でした。大内家の御用商人として朝鮮や明との交易を行っている島井家の嫡男、島井徳太夫茂勝という者です」
後の「島井宗室」である。茶人としても有名で、天下三大肩衝の一つである「楢柴肩衝」の所有者でもある。もっとも又二郎は茶器になんの価値も見出していない。茶の味が変わるわけではないのだ。
「島井殿は、日ノ本の北端である十三湊と博多を結ぶことに興味をお持ちでした。御当家の船であれば、博多との交易も可能かと思われます」
「確かに可能だ。だがそのためには、佐渡が欲しい。佐渡を中継湊とすれば、より安全に交易が可能となるだろう。良くやったぞ、彦左衛門。それで、新田に戻るか?」
「叶いますれば、父のもとで働きとうございます。御当家は今後さらに、商いが活発になるでしょう。これまでの経験を政に活かしとうございます」
「良かろう。吉右衛門のもとで活躍するがいい。新田は今後二年間、内政に力を入れる。優れた内政官は幾らいても足りないくらいだ。期待しておるぞ」
「ハッ!」
彦左衛門が文官たちの列に加わると、又二郎は今後の方針について話した。基本方針はこれまでと同じである。田畑を整え、物産を促進し、民に教育を施し、貨幣取引と物流を活性化させる。
「建造する船は、三〇〇〇石船を中心とする。船による交易を活性化させるために、主要な湊に灯台を設ける。それと蝦夷地だが、蝦夷の民たちがいよいよ新田に服属する。蝦夷の民たちがエンムルと呼んでいる岬に灯台を設け、新たな湊を開く。これにより、釜石までの航路がより安全になるだろう。鉄の生産に力を入れる!」
釜石では、すでに高炉が完成しており製鉄が始まっていた。これまでとは比較にならないほどの鉄が生み出され、武器のみならず農具にも使われ始めている。生産量が上がれば、必然的に新田領内の物産がさらに活性化される。次の飛躍に向け、新田家は着実に力を蓄え始めていた。
武田家では、永禄六年の正月を笑顔で祝っていた。大宮城(※現在の富士宮市)を落としたことにより、伊豆と隣接する沼津までを領することが出来た。つまり海への道が開けたのである。信玄は早速、狩野川河口に砦を設けた。北条を刺激しないために規模は大きくはない。狩野川以西は武田領だということを示すためのものである。問題は、大宮城の西にある「富士川」をどうやって越えるかであった。
三河では松平元康と三河三ヶ寺との戦いが、いよいよ本格化している。西からの圧力が無いと見越した今川氏真は、対武田に全力を注ぐことが出来た。薩埵峠と富士川の河口に砦を築き、守りを固めている。
「太郎に大宮城を与える。今川との最前線となる重要な城だ。力だけでは薩埵峠は越えられぬ。調略を仕掛けてみよ。誰をどう落とすかは任せる」
大宮城を手にしたことにより、武田義信は名実ともに武田家の次期当主として認められた。だが武田信玄といては、更なる経験をさせたいと考えていた。
「良いな。腰を据えてじっくりと攻めるのだ。それと北条との誼を太くせよ。今川はまだ力を持っているが、三河が落ち着けば松平も遠江を狙うはずだ。それが調略の機となろう」
駿河国を得たわけではないが、それでも海への道ができたことは大きい。塩の生産も始まっており、家中の皆が、武田の未来は明るいと感じていた。
「そういえば、尾張も織田家が統一したと聞きました。織田三郎信長殿は、噂ではうつけ殿と呼ばれているとか。今川の後は三河、そして尾張まで進めるやもしれませぬな」
真田源太左衛門幸隆が饒舌に喋る。それを原虎胤が窘めた。傷の療養中であるが、こういう場には姿を現す。そして決まって、幸隆と口論になる。
「それを獲らぬ狸と言うのだ。まずは駿府を獲らねばならぬ。それが厄介じゃ」
「おや、鬼美濃殿ともあろう御方が、随分と慎重なことを仰る。屋敷に引き籠っておられる間に、なにか悟りでも得られましたかな?」
「真田ぁっ!」
「まったく…… 止めよ二人とも」
そして武田信繁が仲裁するのが常であった。信玄は微かに笑みを浮かべた。新田又二郎に上杉輝虎が影響を受け、結果として武田と上杉の盟へと繋がった。まだ小さいが海を得たことにより、塩の不安も無くなった。直情的だった嫡男も、ようやく武田家次期当主として一人前になってきた。
(思えば、すべては宇曽利の怪物から始まったわけか。その点は、感謝せねばならぬな……)
この時、信玄は程よく酒が回っていたためか、真田幸隆の話などすっかり忘れてしまっていた。そして将来、この宴席での話を思い出すことになる。うつけとは、理解できない者という意味。つまり怪物と同義だということを。