上杉軍襲来
遅くなり申し訳ございません。
浪岡式部大輔具運は、越後直江津に到着した直後に、以前との違いを感じた。文官である自分には、人々が殺気だっているとか、合戦の匂いがするとかは判断できない。ただ、以前よりも人々に慌ただしさがあり、何か余裕がなさそうに見えただけである。
「越後が雪に埋もれるには、あと二月近くあると思うが、その備えか?」
特にそれ以上は気にすることなく、船から降りようとする。実際、これからの交渉を考えると、余計なことに頭を巡らせる余裕はない。上杉家とはいずれ戦になるとしても、今は避けたい状況だ。越後と上野国を領する上杉家は、新田がこれまで戦ってきたどの大名よりも強敵である。単純な兵力だけなら負けないが、伊達や最上を相手にしながら片手間で戦えるような相手ではない。
(新田に借りがあると思わせ、上杉輝虎の意識を越中攻めに向ける。さて、どう交渉するか……)
そう思いながら船を降りようとしたとき、誰かが自分の隣に立った。金崎屋の者ではない。まったく知らない男である。いつの間にか、船に入っていたのだ。
「降りてはなりませぬ。このまま、十三湊にお帰り下され」
「な、何者だ?」
ボソリと呟くようにそう告げられ、具運は刀に手を掛けることすら忘れてしまっていた。気づかぬうちに、すぐ隣にいたのである。常人ではないのは明らかであった。
「手前、九十九衆の忍びでございます。上杉輝虎殿以下、主だった重臣たちは春日山城にはおりませぬ。二日前、出羽酒田を目指して出陣致しました」
「なんだと? それは真か!」
「御静かに。いま春日山城に行けば、人質として取られるだけでございます。船に御留まりくだされ」
思わず大声を出してしまった具運は、慌てて船内へと戻った。忍びらしき男に、もう少し話を聞くためである。だがなによりも先に、確認しなければならないことがあった。
「このこと、殿には?」
「すでに忍び三人が駆けておりまする。酒田東禅寺城、天童攻めをされている長門様、そして檜山城へ」
「左様か…… 相解った。だが念のため、家中の者に直江津の様子を探らせよう」
見知らぬ者からの話を鵜呑みにするほど、具運も愚かではない。念のため、直江津で噂話を聞き、事実確認をするというのだ。忍びは黙って一礼し、商人に紛れて船を降りていった。具運は震える左手を抑えながら考えた。なぜ上杉が動いたのか。
「あるいは、最初からそのつもりだったのか? いや、前回は確かに、御当家と戦となるような火種は無かったはず……」
前回、春日山城を訪問した際の上杉方の友好的な姿勢に、嘘があるとは思えなかった。その後、揚北衆による刈田などもあったが、あれは越後でも腫れ物の国人衆が、勝手をしただけに過ぎない。一体、なにが上杉輝虎を動かしたのか。
「拙いぞ。酒田には天童攻めの後詰として、数千は置いているだろうが、上杉軍を抑えられるか?」
事実が確認でき次第、急いで戻らねば。気持ちを抑えるかのように、直江津の様子を探るよう指示を飛ばした。
腕の中で可愛らしく鳴く桜を見ながら、自分はこれほどに性欲が強かっただろうかと、又二郎は自分を振り返って苦笑した。正室の桜と深雪は、ようやく成長が止まろうとしている。すでに可憐に華開いているが、これからさらに爛熟し、自分を夢中にさせるだろう。
だが嫋やかな肢体を貪りながらも、頭のどこかは醒めている。房事の時こそもっとも暗殺の危険があるからだ。そして今、背中から視線と気配を感じていた。桜からゆっくり体を離す。
「……段蔵か? 何用だ」
部屋の片隅に黒い影が浮かび上がった。驚き悲鳴を上げようとする桜の口を押える。
「心配するな。新田が抱える忍び衆の頭領、加藤段蔵だ」
「は、はい……」
桜は慌てて布団で身を隠した。又二郎はボリボリと頭を掻いて胡坐する。
「お見事でございます」
何がとは聞かない。房事でも油断しないことかもしれないし、未だに萎えないことを指しているのかもしれない。いずれにしても、これまで九十九衆がこうした場に出てきたことはない。寝ているときに段蔵が現れるのは、決まって自分ひとりの時であった。つまり余程のことが起きたのだ。
「何が起きた? 余程のことであろう?」
「はい。二日前でございます。上杉輝虎殿、出羽に向けて軍を進め始めました。春日山城から出た数は、およそ一万五〇〇〇、揚北衆が合流すれば二万を越えまする」
それを聞いた瞬間、又二郎は立ち上がって叫んだ。
「誰かある!」
大声に、近習たちが駆けつける。ほとんど全裸の主君を見て皆が驚き、見ないように顔を反らす。又二郎は怒鳴るように命を下さした。
「至急、越中と甚三郎を呼べ! それと石川城、浪岡城に急使を出せ! 全軍を率いて急ぎ檜山に駆け付けよとな! 上杉との戦だ!」
そして無表情の段蔵を見下ろす。
「段蔵、あとで詳しく聞くが確認だ。式部大輔は?」
「ご安心くだされ。船から降りぬよう、手筈を整えました。また東禅寺城の下国様、天童を攻めている長門様にも報せを送っております」
「よし、良くやった。上杉輝虎、俺に喧嘩を売ったことを後悔させてやるわっ! 桜、済まぬ。戦だ」
「ご武運を、御前様……」
未だ萎えていない又二郎は、褌すらしないままドスドスと歩き始めた。
最上川の河口、酒田湊の近くにあるのが、東禅寺城である。かつて大宝寺が砂越氏に対抗するために築城したこの城は、今は対上杉の最前線となっている。史実では関ヶ原の合戦後、最上義光の所領となり「亀ヶ崎城」と名を改められ、幾度かの改築も行われる。だがこの時代は石垣もなく、土塁と城門だけの砦に過ぎない。二〇〇〇や三〇〇〇の敵なら相手に出来るが、万を超える敵と戦うような城ではなかった。
「おのれ上杉! 御当家との商いで利を得ておきながら、それを仇で返すとは!」
東禅寺城には、城代として蠣崎宮内政広が入っていた。その役目は出羽の急所である酒田の慰撫と湊の発展である。この人事は、蠣崎家の次期当主として、内政の経験を積まなければならないという又二郎の判断からであった。それを支えるのは、守勢の強さに定評がある下国師季である。上杉を睨みながら、天童、延沢攻めの後詰として、東禅寺城で七〇〇〇の軍を束ねていた。
「若…… いえ、宮内殿。上杉の軍は恐らく二万を超えましょう。長門、小野寺の両軍が戻るにはまだ時を要します。ここは籠城するしかありませぬ」
九十九衆の報せは、又二郎より一日早く、東禅寺城に齎された。新田で使われている符丁によって、九十九衆であることを確認し、越後方面に複数の物見を放った。それが戻ってきたのである。上杉軍は揚北衆と合流し、いよいよ出羽に攻め込もうとしていた。
「それにしても速い。春日山から平林まで、僅か五日で駆けてくるとは……」
師季が呻く。春日山城(※現在の上越市)から平林城(※現在の村上市)まで、直線距離でも四〇里(※一六〇キロメートル)はある。それを五日で駆け抜けるなど、信じられない移動速度であった。
「不可能ではない。御当家の精鋭ならばそれくらいはやる。問題は、上杉軍がそれに匹敵するということだ。これは拙いぞ……」
東禅寺城は平城であり、決して堅城ではない。二万を超える敵に囲まれれば、落城するのは目に見えていた。だが打って出たところで、敵は此方の三倍である。援軍が来るまで、籠城して絶えるしかない。
「藤六殿にも既に報せは行っているはず。いずれ必ず、援軍が来ます。ここは耐えるしかありませぬ」
幸いなことに、兵糧は潤沢にあるし炭薪、鉄砲、火薬も蓄えられている。堅城ではないが、簡単に落とせるほど弱くもない。だが長門広益も小野寺輝道も、天童、延沢を攻めている最中である。いきなり全軍を退こうとすれば、背後を追われることになる。それに最上や蘆名などが出てくるかもしれない。
「退けたとしても半数であろう。早くても八日、遅ければ一〇日後か……」
酒田から天童までは、最上川に沿って進まなければならず、途中には山間もある。移動距離は五〇里(※二〇〇キロメートル)を超える。どんな精鋭であろうとも、時間が掛かるのは仕方がなかった。
永禄五年長月(旧暦九月)下旬、関東管領上杉輝虎率いる二万一〇〇〇の越後勢が、出羽に攻め込んだ。かつてない程の危機が、又二郎を襲おうとしていた。