上杉家、動く
遅くなり申し訳ございません。
最上家の本城である山形城内は、沈鬱な空気に包まれていた。昨年の敗戦から一年、伊達家との婚姻も無事に終わり、源五郎義光が当主となった。幼い頃から才幹優れていた若き当主に、家中の皆が期待していた。筆頭家老であった氏家定直が討死したことにより、息子である守棟が氏家氏を継いだ。自分の側仕えとして信頼できる者が家中で発言権を握ったことにより、最上家は一気に引き締まった。そしていよいよ、新田と戦うための力をつけようと天童、延沢攻めを考えていた矢先のことである。
「御屋形様、新田が天童、戸沢にそれぞれ一万五〇〇〇を向けました。早晩、両家は落ちるでしょう」
いよいよ、新田が来る。圧倒的な物量によって奥州の歴史も武士の魂も、すべてを押し流して更地にし、そこに新たな世を打ち立てる。歴史ある最上家の人間としては、とても理解できない行為である。だが一人の男としては、どこかに憧憬の気持ちがあるのを義光は否定できなかった。
(何者にも縛られず、己が望む時代を己の手で創り上げる…… 男の夢だな)
「三山の反応はどうだ? 新田は寺領を認めておらぬ。天覚法印とて三山接収となれば抵抗しよう」
「それが、どうやら新田は三山の寺領を認めたようにございます。僧兵を出さぬ限りはという条件付きではございますが」
「なんと……」
一時的な従属は認めたとしても、新田は基本的に自分たち以外の勢力が土地を持つことを認めていないはずである。それを翻して三山を認めた。これはどういうことか。
「恐らく新田は、出羽三山を緩やかに干上がらせるつもりでしょう。周囲全てが新田領となれば、三山が生きていくためには新田領との行き来が必要不可欠です。新田の統治によって三山から領民を搾り取り、新田の庇護が無ければ存続できないようにする。そのための一時的な措置でしょう」
守棟の意見に、義光は頷いた。戦っても勝てない。従属したところで民が離れる。家を残したければ土地を差し出し、臣従するしかない。新田の前には臣従か滅亡かの二つに一つしか存在しないのである。
「天童も延沢も、恐らく二月と保つまい。我らは決断せねばならぬ。滅びを覚悟でどこまでも抗うか、あるいは土地を差し出して臣従するか…… 此処にいるのは、代々に渡って最上に仕えてくれた忠臣たちばかりだ。出来ることならば、最上と共により豊かに、より大きくなってもらいたかった。皆の者、すまぬ」
義光はそう言って頭を下げた。だが重臣たちの中には、当主を責める気持ちなど微塵もなかった。先代の義守は、僅か二歳で家督を継ぎ、衰退した最上家の再興に半生を費やした。此処にいる重臣たちは、皆が最上と苦楽を共にしてきた。荒れた田畑を耕し、稗や粟で飢えをしのぎながら、四〇年という歳月を費やしてようやくここまで来たのに、そのすべてを新田が奪おうとしている。たとえ滅びようとも、ハイ、解りましたと簡単に差し出せるものではない。
「御屋形様、よもや新田に降られるおつもりではありますまいな? この地は先代義守様より長年の歳月を費やして、ようやく手に入れたのです。たとえ滅びると解っていても、これを差し出すなど自らの半生を否定するようなもの。某は最後まで戦いまするぞ」
「止めぬか、監物。御屋形様とて十分に考えておられる」
固い表情を浮かべて主君に詰め寄る長沢監物祐種を、隣にいた上山武衞義節が止めた。最上家の重臣たちはそれぞれに所領を持っている。出羽には、最上家や延沢、天童の他にも寒河江や溝延といった独立国人たちもいる。彼らのように最上から離れて独立しなかったのは、最上と共に生きれば、家が繁栄すると信じているからである。最上義光としては、それを裏切ることなど出来なかった。
「守棟、上杉に使者を立てるのだ。それと伊達、蘆名にもだ」
「上杉からの援軍を期待するということですな?」
「今すぐではない。新田とて雪には勝てぬ。今年は天童、延沢を飲み込んだところで止まるであろう。動くとすれば来年の雪解け後。それまでに上杉を引きずり込まねばならぬ。我らを攻めるためには、越後との国境に近い酒田を通ることになる。上杉がそこに張り付けば、新田も軍を置かざるを得ぬ。その間に、伊達、蘆名と連合して最上川を下り、酒田で決戦を挑む」
「上杉、最上、伊達、蘆名での連合ですな。ですが新田はそれ以上の数を用意するでしょう。佐竹、相馬、田村に兵を出してもらい、千代城を攻めましょう。新田の兵力を分散させるのです」
「よし、急げ!」
方針が決まった。義光は当主の座から立ち上がり、重臣たちを見下ろした。
「これが最後の決戦だ。負ければ最上は滅びる。伊達も、蘆名も、上杉も飲み込まれよう。だがここで勝てば一気に新田を押し返せる。必ず勝つ、勝たねばならぬ! 皆の者、兵の調練を怠るな!」
「「応ッ!」」
最上義光が決戦を決断した頃、新田軍は怒涛の勢いで最上川を遡っていた。途中で小野寺輝道が一万五〇〇〇を率いて延沢へと向かう。総大将の長門広益は天童、そして寒河江を下し、最上領近くまで進むことを目標としていた。
「天童城を落としてしまえば、最上本拠である山形城は目と鼻の先だ。だが殿は、最上には考える時間を与えたいと仰せだ。天童頼貞は降る様子もない。舞鶴城(※天童城)攻めになるであろう」
「天童、延沢、寒河江などは脅威ではありませぬ。気になるのは上杉です。今のところ、上杉は越中を攻めておりますが、来年以降はどう動くか解りませぬ。本来であれば、酒田に堅固な城を築きたいところですが……」
軍師役として加わっている八柏道為は、酒田の土地を見て上杉との距離が近いことが気になっていた。上杉は、奥州の国人とは比較にならないほどに強い。さらに蘆名まで加われば、こちらは防戦を余儀なくされる。新田家は急速に大きくなった。そのためどうしても、手薄なところが出来てしまう。酒田は正に、新田の急所であった。
「この冬で、幾つか砦を築いて守りを固めるしかあるまい。それに上杉と当家とは交易で繋がっている。こちらから仕掛けぬ限り、上杉輝虎は動かないのではないか?」
広益の言葉に、道為も同意した。だが内心では別のことを考える。確かに理屈ではそうだろう。だが上杉輝虎は、宇曽利の怪物とはまた違った意味での天才である。理屈や常識を簡単に棄て、思いもかけぬ動きをする。今はまだ良いが、来年はひょっとしたら、出羽に出てくるのではないか。
「舞鶴城を総攻めする前に、今一度、天童頼貞に降伏を促しましょう。舞鶴城は、最上の本拠である山形城の目と鼻の先。出来れば無傷で手に入れ、最上を抑えるための最前線とすべきです」
「いっそのこと、最上まで攻め滅ぼしたいところだな」
広益はそう笑い、道為の進言を採用した。だが道為でさえも想像していなかった。上杉輝虎という男がどれ程非常識で、そして天才なのかということを。
永禄五年長月(旧暦九月)、越後春日山城に集結した一万五〇〇〇の軍を率いて、上杉輝虎は出陣した。越中を攻め獲ることを目標に、猛将たちが集う。だが進発した軍の向かう方向が違っていた。
「御実城様? これは……」
「これより、出羽を攻める」
「なっ……」
重臣たちが驚愕する中、直江景綱は粛々と行軍の指示を出していた。最初から出羽を攻めるつもりだったのである。
「新田は諜者を使っている。敵を騙すにはまず味方から…… ご容赦くだされ。されど、これで新田は完全に不意を突かれます。一気に酒田を獲りましょう」
既に兵糧などの手配も終えている。後は攻めるだけである。如何に新田とはいえ、今の酒田は無人に近い。簡単に攻め獲れる。そして出羽を攻めている新田軍は、前後を挟まれることになる。
「急ぐ」
「ハッ! 各々方、いざ征かん。運は天に有り、鎧は胸に有り、手柄は足に有り!」
「おぉぉっ!」
上杉輝虎が鍛え上げた越後の精兵一万五千は、一路北東へと進み始めた。