出羽三山
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出羽三山とは、出羽地方にある三つの山(月山、羽黒山、湯殿山)にある三つの神社を総称した呼称である。月山神社、出羽神社、湯殿山神社がそれに当たるが、各神社には祭神と本地仏があり神仏習合の形式を取っている。
出羽三山の歴史は古い。飛鳥時代、崇峻天皇が蘇我氏に弑逆されたとき、聖徳太子に匿われて宮中を脱した蜂子皇子は、丹後国から船で北へと逃げた。やがて出羽へと差し掛かったとき、八人の乙女が岩の上で神楽を舞っているのを見て、その美しさに惹かれて船を止めた。これが現在の、山形県鶴岡市にある「八乙女浦」である。蜂子皇子はその海岸で三つ脚の鳥を見つけ、その鳥の導きで羽黒山に登り、羽黒権現を感得し出羽三山を開いたとされている。
羽黒権現とは、山岳信仰と修験道が結びついて誕生した神仏習合の神であり、三山それぞれに月山権現、羽黒山権現、湯殿山権現が存在し、併せて「出羽三所大権現」と呼ばれている。本地仏として聖観音菩薩、阿弥陀如来、大日如来が置かれているが、これと相照らすように月読命、伊氐波神、大山津見神が祭神として置かれている。こうした神仏習合は、奈良時代に仏教が日本に持ち込まれた際に、神道と融合する形で誕生した。これを「本地垂迹」と呼び、仏が神の形をとって現れたという考えから「権現」という神号が用いられる。
本地垂迹の過程の中で生まれた「権現」への信仰の形が、修験道である。これは古神道から続く「山岳信仰」と、天台宗や真言宗の山中修行の形式が融合して成立した。修験道は、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳の証しである「験力」を会得し、衆生の救済を目的としている。こうした山岳での修行者を修験者、あるいは山伏と呼ぶ。
中世における出羽三山の様子は、残念ながらあまり記録が残されていない。だが一向宗のように門徒を率いて一揆を起こしたという記録は無く、僧兵はあくまでも治安維持のために存在していたと考えられている。実際、出羽地方を治めた最上義光や、その妹である義姫が出羽三山で祈願したという記録が残されている。修験道は、現代においては「験力」「霊力」など怪しげに聞こえるかもしれないが、中世日本においては立派な修行であり、信仰の形態として認められていたのである。
第四六代執行別当天覚法印は、ついにこの時が来たかと思った。一〇〇〇年の歴史を持つ出羽三山開闢以来の危機である。自分以外に高位の修験僧、僧兵らが一堂に会する中、若い男は冷然と告げた。
「我が主、新田陸奥守様は出羽三山で修験を続けること、そして寺領を認めるとのことです」
ほぅ、という安堵の声が聞こえる。だがそれだけではないはずだ。三山および修験者や民を護るための僧兵は五〇〇〇を上回る。鎌倉幕府以来四〇〇年、代々の地侍や大名は三山が僧兵を持つことを認めてきた。だが新田家はどうであろうか。聞くところによると寺領は一切認めず、新田が寄進する代わりに民に読み書きを教えよと命じられている。新田陸奥守は、僧兵を持つことも寺領を運営することも認めず、坊主はひたすらに仏の道を修行せよと言ったそうだ。三山の僧兵を当てにし、戦に出よと命じられるかもしれない。
「ただし、僧兵が寺領を出ることは一切、認めませぬ。皆様方はひたすらに、修験の道を行きなされ。当家は本来であれば、寺領を持つことも僧兵を持つことも認めておりませぬ。しかしながら我が主は、衆生を救うという目的で厳しき修行をされる皆様に敬意を示すために、三山への不入を決められました」
「では、僧兵としてではなく山伏として、修験者としてであれば領から出ることも認めていただけるのですな?」
新田の兵として戦えと要求されると思っていた者たちは、肩透かしのように感じた。要するにこれまでの大名、国人と同じではないか。それならば何の文句もない。
だが沼田祐光の言葉には、それ以外の要素も含まれていた。それは彼ら修験者のみならず、日ノ本にある宗教そのものに関わることであった。
「如何にも。ただし、その際には新田の法に従っていただきまする。当家では、神仏の教えを持って民を扇動し、一揆を唆す輩を決して許しませぬ。宮司も坊主も修験者も、ただ己が信仰にのみ生き、決して政事に口を出してはならない。これが当家の法でございます」
「それは、我ら修験者の道である衆生救済を認めぬということでは?」
新田家からの使者、沼田祐光は無表情のまま首を振った。
「我が主の言葉をお伝えいたします。神仏の教えで、一人の人間は救えるやもしれぬ。しかし国は救えぬ。救おうとしてはならぬ。なぜなら、神仏の教えで救えるのは、それを信じる者だけであり、信じぬ者は救えぬからである。信仰で万民を救おうとすれば、必ず混乱と戦が起きる。信仰とは、個人のためにあるのであり、天下のためにあるのではない」
そして沼田祐光は言葉を加えた。
「老婆心ながら申し上げる。寺領を捨てなされ。政事は本来、神仏の教えとは違うところにござる。新田の統治であれば、皆様も修験のみに励むことができましょう」
その言葉に、僧兵たちが色めき立つ。それは彼らの信仰の根幹に触れる部分だからである。天覚法印は目を細めて確認した。
「……それは陸奥守殿のお考えか? それとも新田家の治め方か?」
「両方でございます。勘違いをされませぬよう。我が主君は、神仏を信仰するのも、その教えを説くことも認めてございます。ただし、神仏の教えをもって世を変えようとすることは認めぬ、と申し上げているのです」
天覚法印は、噛み締めるように二度頷いた。
「承知致した。元より、我ら修験者は世をどうこうしようという野心はない。ただひたすらに、修験の道を歩むのみ。それが衆生の救いに繋がると信じておるからだ。寺領の件は、皆と話し合い御返事しよう」
祐光が出羽三山との交渉を成功させた頃、越後揚北衆でも動きがあった。本庄、色部、新発田らが出羽に刈田を仕掛けたのである。もっとも、新田側も予期していたため多少の被害を敢えて出したところで、小野寺輝道率いる八〇〇〇の軍によって追い払った。
「越後に抗議の使者を出しましょう。新田は北条との交易において其方の顔を立てたというのに、上杉は仁義を弁えぬのかと……」
「使者には浪岡式部大輔殿が宜しいかと存じます。先の使者でもありますれば、上杉としても無下にはできますまい。関東管領自身が、詫びの言葉を口にするはずです。そしてこの話を関東に流します」
八柏道為と南条広継の二人は、暗い笑みを浮かべながら献策した。主君である又二郎は、それに輪を掛けて凶悪な貌になる。刈田の被害など新田からすれば蚊に刺された程にも感じない。一〇〇〇石、二〇〇〇石など新田五〇〇万石にとっては誤差の範囲である。
「クックックッ…… 上杉の面子は丸潰れよな。美意識の強い上杉輝虎は、腸が煮えくり返るであろう。その原因は目先の餌に食いついた揚北衆にある。奴らを抑えねばとなる。だが揚北は元々、独立志向が強い。簡単には抑えられぬ。となれば上杉は割れる。たかが一〇〇〇石で関東への布石が打てたのだ。安いものよ」
三人で低く笑う姿は、どう考えても悪徳地頭代と野蛮な山賊の姿であった。生真面目な武田守信は密かに、自分の息子を近習に出さずに良かったと安堵したのであった。咳払いして、目の前の戦に話題を変える。
「出羽三山も押さえ、後顧の憂いはありませぬ。天童、延沢攻めですが、殿御自らが出られますか?」
「いや、最上や伊達が出てくるのであれば俺も出るが、その様子もないと聞く。今回は藤六や輝道らに任せよう。道為も、軍師として出るのであろう? 大いに手柄を立ててくるがいい」
「はっ…… もっとも、もはや勝負は見えておりますが」
永禄五年秋、長門広益を大将、小野寺輝道を副将とする新田軍三万が、怒涛の勢いで南出羽に侵入した。