謀臣四人
遅くなりまして申し訳ありません。投稿時間設定を間違えていました。
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永禄五年(一五六二年)葉月(旧暦八月)、およそ四ヶ月間をかけて、新田家は旧小野寺領の調査を終えた。少人口の集落の統合、田畑の整地、耐震性を高めた長屋の建造など様々な施策を同時並行で行うため、この四ヶ月間は文官も武官も働き詰めであった。もっとも、それでも五日に一日の休みを取らせるのが新田の流儀であるため、小野寺家の旧臣たちには戸惑いすらあった。
「この四ヶ月、小野寺家の文官には新田の流儀を仕込みました。出羽もある程度は形となってきております。後は自分たちでも走れるでしょう」
「よし、では動き始めるか」
当初の予定では長月(旧暦九月)に兵を興す予定であったが、葉月下旬には動けるかもしれない。田名部吉右衛門の報告を受けて、又二郎は謀臣たちを集めた。南条広継、武田守信、八柏道為、沼田祐光の四人である。中央に地図を置き、車座で話し合う。
「道為と祐光は、こうした場は初めてだな。広継と守信は信頼できる謀臣だが、どちらかというと武将の視点に寄っている。道為、祐光はまた別の視点で考えてもらいたい」
ただ目先の戦に勝つことだけならば、広継と守信がいればいい。だが天下統一後という視点や、朝廷や幕府などの外政まで入れた、中長期の謀を考えるには、八柏道為や沼田祐光といった生粋の謀臣が必要となる。四人は事前に話し合いを行っていたようで、それぞれ自分の役割を理解していた。
「霜月(旧暦一一月)までに獲れるとしたら、やはり延沢と天童でしょう。この二家はそれぞれ三〇〇〇程度の兵力です。対伊達に一万、対上杉に一万を置いたとしても、こちらは三万で攻めることが可能。二ヶ月あれば十分でしょう」
「三万を二つに分けます。一万五〇〇〇で延沢を攻め、残り一万五〇〇〇で天童を攻める。仮に最上が援軍を出したとしてのその兵力は七〇〇〇程度、延沢を落とした軍を合流させ、三倍の兵力で圧倒します」
「うん。二人はどう思うか?」
道為と祐光の意見を聞く。両方とも涼しい眼差しで微笑んでいる。だが開いた口から出た策はエゲツナイものであった。まずは道為からである。
「大軍に奇策は必要ありません。御二方の作戦で、天童、延沢は十分に落とせるでしょう。ただ某としては、この戦を最大限に利用すべきと考えます。そこで……」
道為は越後を扇子で示した。
「越後の揚北衆に噂を撒きます。関東管領上杉輝虎が新田家の使者を受け入れ、領内の通行を認めたのは、新田と戦いたくないからである。出羽を伺おうという揚北の動きは、その意向に逆らうものであると……」
「なるほど、それで揚北衆を抑えるというわけか?」
「いいえ。揚北衆は独立意識が強く、そうした噂を耳にすれば逆に反発するでしょう。恐らく形だけになるでしょうが、出羽に攻めてくるはずです。肝心なのはそこ。揚北衆から手を出させる。我らはただ追い払うだけですが、彼らは上杉に忖度しないということを行動で示すことになります。関東管領殿が御当家をどう思っているのかなど、この際どうでも良いのです。揚北は従わないということを、上杉家中に理解させるのです」
「………」
広継と守信は互いに顔を見合わせた。まったく関係のない戦で、上杉家中を分断しようというのである。又二郎はクククッと邪悪な笑みを浮かべた。
「上杉を分断しつつ、揚北へ攻め込む口実まで作ろうというわけか? 悪い男よな、道為」
「悪くなければ謀臣など務まりません」
ただ微笑んでいるだけなのに、守信は思わず身を引いた。主君とはまた違った邪悪さを感じたからである。主君を獰猛な獣とするなら、道為はまるで鵺のように思えた。
「殿、某からも一策…… 天童、延沢、最上以外にもう一つ、出羽には留意すべき勢力がございます」
沼田祐光が口を開く。道為と同様、先々を見通しているかのような眼差しだが、表情が違う。道為は常に泰然と微笑んでいるが、祐光は無表情で感情がほとんど浮かんでいない。だがやはり、出してきた策は尋常ではなかった。
「出羽三山か」
「御意。天童、延沢を攻めるには酒田から最上川を昇っていくことになります。この際に、月山を本拠とする出羽修験者に背を向けることになります。彼らの兵力はおよそ五〇〇〇とも言われております。殿は寺社が所領、武装した兵を持つことをお認めになられますか?」
「認めるわけが無かろう。出羽三山は修験者として、滝に打たれながら阿弥陀如来に念仏を唱えておれば良いのだ。出羽を掌握した暁には、武装解除をさせるつもりでいたが……」
「恐らく彼らは応じないでしょう。その結果、出羽三山を焼き滅ぼすことになるやもしれませぬ。ならばいっそ、出羽三山を捨ててしまってはいかがでしょう」
「寺領を認めるというのか?」
「はい。ただし寺領を広げることも、僧兵が外に出ることも禁じます。出羽三山で修業を続けるという条件で、寺領を認めるのです。彼らは僧であって統治者ではありませぬ。遠からず、寺領から人が逃げ出すでしょう。御当家の法では、働き口や豊かさを求めて逃げてきた者は庇護し、仕事を与えるとあります。出羽三山に、相互不介入を認めさせ、時を掛けて干上がらせるのです」
「なるほど。経済的に封鎖してしまうのか。俺は阿弥陀如来信仰も、山伏が修行をするのも禁じはせぬ。だが民を誑かして扇動し、政事や戦に介入する輩には容赦せぬ。良かろう。祐光に出羽三山との交渉を任せる。こちらから攻めることはないと、せいぜい安心させてやるがいい」
「承りました」
謀臣たちが動き出す。又二郎はその場に残り、じっと地図を見つめた。この戦で最上と伊達は丸裸となる。上杉は揚北衆への不信から、おそらく西へと向かう。その間に北条は武蔵を伺い、武田は南へ出ようとするだろう。
「残りは…… 蘆名か」
東日本のほぼ中心、現在の会津あたりを扇子で叩いた。
蘆名氏の始祖は相模国の三浦氏である。鎌倉幕府と奥州藤原氏が争った奥州合戦の後、三浦一族の武将であり、源義経と共に一ノ谷の「鵯越の逆落とし」で名を馳せた佐原義連が、会津の地を与えられたことからはじまる。その孫である佐原光盛が「蘆名光盛」と名乗ったことから、会津蘆名氏が始まる。ちなみに蘆名とは会津の地名ではない。三浦氏の所領にある地名「芦名(※現在の横須賀市)」が、蘆名氏の由来である。
蘆名光盛以来、会津蘆名氏では一族に「盛」の字が使われる。だが三浦氏の傍系に過ぎないため一族を束ねるのに苦労し、その勢力はあまり伸長しなかった。一五二一年、蘆名氏に稀代の傑物が誕生する。後に武田信玄をして名将と褒め称えた「蘆名修理大夫平四郎盛氏」である。
「そろそろ新田が動き始めるであろう。皆の存念を聞こう」
会津黒川城内では、当主である蘆名盛氏の他、四宿老と呼ばれる譜代の家臣をはじめとする重臣が揃っていた。かつては伊達に従属していた一国人に過ぎない蘆名家であったが、盛氏によって版図は大きく広がり、今では会津守護として奥州でも大きな力を持っている。戦に強いだけではない。金山の開発や商人司を押さえたことによる流通網の整備、さらには家中から幼児を集めて「不断衆」を形成し、幼年からの教育にも力を入れている。伊達の力が衰えたいま、奥州で二番目の力を持っているといえるだろう。
「新田の南下政策において、会津は必ず通らねばならぬ道。いずれ新田が攻めてくるのは必定でございます。来年、もしくは再来年には新田は伊達を飲み込みましょう。我らはその間に、力を蓄えねばなりません。そこで、佐竹に声を掛けてはどうでしょうか」
家老筆頭の平田舜範が発言する。現在、蘆名は隣接する田村氏と争っている。その田村を支援していたのが相馬氏、佐竹氏だが、先の新田討伐連合の後、佐竹は版図拡大に力を入れ始めた。新田を警戒してのことである。
「新田を警戒するのは我らも佐竹も同じ。ならばここで手を組み、田村を飲み込むことを認めさせるのです」
「だがそれで、新田に抗せるか? 相手は五万の兵を整える大大名だ。こちらは田村を得たとしてもせいぜい一万を超える程度。勝負にならぬ」
「さにあらず。御家が足利幕府の直臣、京都扶持衆であることをお忘れか? 蘆名に刃を向けるということは、即ち幕府を敵に回すこと。この名分をもって関東、そして上杉を引き入れるのです」
平田舜範としては、必死に考えた生き残り策であった。だが生き残りに必死なのはどの家も同じである。皆が「自分だけは」と考えるから、謀臣の策に落ちてしまう。相手を動かせず、結局は時間だけが経ってしまうのである。
永禄五年葉月末、新田又二郎政盛は再び兵を興した。それとほぼ同時期に上杉、武田、北条も動き始める。奥州の戦火は東日本すべてに燃え広がろうとしていた。