天下人とは
遅くなりまして申し訳ございません。
時間は少し遡る。武田家と上杉家の盟は確かに又二郎を驚かせたが、それ以上に驚かせたのは「小田原城の落城」である。内政を重視する北条家が関東に進出することで、有象無象の国人衆を駆逐し、広大な関東平野、特に武蔵国(現在の埼玉県から東京都)、下総国(現在の千葉県北部)を開発する。北条家の内政は治安維持のみならず、目安箱による民心の安定化、街道整備、街の景観にまで及んでいる。東日本でこれほどに内政を重視する大名家は、他には新田家くらいしかない。
「北条が力を落とした。段蔵の話では相模、武蔵、下野、上総の南一帯は酷い有り様だそうだ。北条家が代々に渡って整えた内政基盤を上杉が破壊した。吉右衛門、これを戻すのにどの程度かかる?」
「……最低でも五年、下手をしたら一〇年は……」
「だよなぁ……」
又二郎は深くため息をついた。関東は広大で人口も多い。だが殆どの民が疲弊しきっており、施餓鬼を行うならば膨大な物資が必要となる。さらには国人という名の野盗が横行しているため、治安回復を図るなら皆殺しにしなければならない。その上で、鎌倉から続く「坂東武者」という誇りが邪魔であった。奥州出身の新田家の統治をそのまま受け入れるとは思えない。
「上杉家は大したものだ。新田家の天下統一を一〇年遅らせたんだからな。どうするかな……」
又二郎の予定では、四五までに天下を統一し、一五年で琉球諸島や台湾島、樺太、千島列島を領有、明や南蛮諸国に独立国として認めさせ、正式な国交を結ぶ。そして六〇で隠居するつもりでいた。だが関東の惨状は、その計算を修正せざるを得ないほどであった。
「……いっそ捨てるか」
「は? ……いや、なるほど。檜山と同じ扱いにするおつもりですな?」
田名部吉右衛門は納得した様子で頷いた。
玉縄城の大広間には沈黙が広がった。何を言われたのか理解するのに数瞬を要し、どう反応すれば良いかで迷っているのである。咳払いが聞こえた。北条家家老の松田憲秀である。
「ハハハッ…… いやいや、浪岡殿も冗談が過ぎますぞ? 天下統一を目指されるのは貴家の勝手ですが、今はまだ奥州の半分を領する一大名ではありませんか。それが、関東八州を任せるなどと……」
「然り。何様のつもりだ。まるで天下人のような物言いではないか」
「新田は和を求めに来たのか。それとも喧嘩を売りに来たのか」
松田憲秀を皮切りに、北条家の重臣たちが次々と文句を口にし始めた。浪岡式部大輔具運は、黙ってその声を聞いた。肝心の北条氏康が、まだ反応を示していないからである。
「皆の者、黙れ! 式部大輔殿の物言いに腹が立つのも解るが、まだ話は終わっておらぬ!」
北条家嫡男、北条新九郎氏政が怒鳴った。それで一旦は場が収まる。全員が氏康の顔を見た。そこには怒りも戸惑いも浮かんでいない。何かを考えている様子であった。
だが先に、浪岡具運が口を開いた。ここが外交の切所である。北条家を新田家が望む方向に動かさなければならない。そのために、まず確認から入る。
「左京太夫様にお尋ねいたします。北条家は天下統一を狙われますか?」
「それは無い。伊勢宗瑞公から北条の願いは一つ。民が笑って暮らせる国を作ること。上杉によって相模まで破壊されてしまったが、この命ある限り諦めぬ」
重臣たちも頷く。そもそも武蔵国さえ取り戻せていないのだ。家が大きくなれば良い。もっと領地が欲しいという欲望はあれど、いま時点で天下統一など、狂人の夢である。
氏康の返事を聞いて、具運は頷いた。
「先ほど、どなたかが仰られていました。まるで天下人のような物言いだと。では皆様にお尋ねします。天下人とは、何でしょうか?」
「それは…… 公方様のことでは?」
「では室町幕府、足利義輝公が天下人なのですか? 天下人として何を成したのです?」
「………」
全員が黙った。そんなことは考えたことすらない。荒らし尽くされた領地を回復させ、なんとか武蔵を取り戻そうと四苦八苦する日々なのだ。意味のないことを考える余裕などない。
「天下人とは、征夷大将軍となり幕府を開いた者ではありません。それはただの手続きに過ぎませぬ。天下人とは、どのような天下を作るかという具体的な構想を持ち、それを実現するために行動している者のことを指すのです。天下人のような? いいえ、我が主君は既に天下人なのです!」
「フム…… 面白い。それで、新田はどのような天下を作るつもりか?」
氏康が問い質す。具運は胸を張った。
「民が飢えず、震えず、怯えることなく笑って暮らせる日ノ本です」
氏康はゆっくりと頷いた。
家中で話し合うということで、具運は一旦別室に下がった。重臣たちの中には納得していない者も多い。氏康はまず、次期当主である嫡男にどう思うか聞いた。
「新田はなにも、従属や臣従を求めてきたわけではありません。ならば誼を結んでも良いのではありませぬか? 新田の統治は、北条家と通じるものがあります。互いに協力し合うこともできると思いますが?」
「うむ…… 憲秀はどう思うか?」
「某は、なぜ新田が御家との誼を望んだのか、そこが気になりまする。ひょっとしたら新田は、関東を諦めたのではありませぬか?」
「どういう意味だ?」
「関東は今、荒れに荒れておりまする。関東管領は遠く越後に居り、国人は好き勝手を始めつつあります。それを束ね、統治するのは容易ではありません。特に新田は奥州人。関東人としては新田に統治されることは面白くないでしょう。新田は急いでいるのです。関東を後回しにし、まず越後、上野を獲る。信濃、甲斐、駿河、東海と進み、京へと攻め上るつもりなのでは?」
「フム…… 北条に任せるとはそういう意味か。新田の代わりに関東を開発せよと」
氏康は顎を撫でて沈思した。いかにも上からの目線で面白くはない。だが現実問題として、いまの北条家では関東どころか武蔵すら取り戻すことは難しい。上杉や里見、佐竹の連合に再び攻められれば、今度こそ北条は滅びるかもしれない。
「父上、まずは交易から始めましょう。新田が関東に出て来るには、あと数年は要します。新田の力なら、出羽から越後を牽制することもできるはず。交易で力を得て、武蔵を取り戻しましょう」
「若君の言葉に賛同します。それに交易を結べば、佐竹、里見を海から牽制することにもなります。武蔵を攻めたところで、かつての大連合が再び起きるとは思えませぬ」
嫡男と筆頭家老の言葉を受けて、氏康は決断した。新田の物言いは気に入らないが、今は目の前の問題である相模の回復と武蔵の奪還が最優先である。そのために新田の力を利用するというのは、悪い策ではない。
「良かろう。新田と誼を結び、交易をもって利を得る。憲秀、交渉は任せるぞ」
「ハッ」
「それにしても、天下人か…… 一度会ってみたいものだな。宇曽利の怪物とやらに」
氏康は少しだけ、新田又二郎政盛が羨ましかった。
新田家と北条家は正式に交易の誼を結んだ。浪岡具運は再び甲斐、信濃、越後を通って戻るため、あと一ヶ月は掛かるが、情報だけは九十九衆を通じて迅速に新田家に届いた。
「骸炭液によって船の腐食は大幅に改善している。さらに帆布に骸炭液を塗ることで、船足はさらに速くなった。塩竈の湊と相模を繋ぐぞ。今ならば、犬吠埼、そして房総を越えられるはずだ」
新造された「三千石船」による試験航海を開始する。速度と耐波性が増しているため、犬吠埼から多少離れていても航海は可能であった。房総半島を回り込み、伊豆半島沖に出て相模湾に入る。塩竃から小田原の国府津(※律令制時代の湊のこと)までおよそ五日。陸路と比べて圧倒的な速さであった。
永禄五年(一五六二年)水無月(旧暦六月)末、日本国史上最初の「東回り航路」がついに完成した。江戸時代、河村瑞賢がこの航路を開発するより一〇〇年以上も早く、物流革命が起きたのであった。