北条家
関東管領上杉輝虎が通過を認めた以上、関東の国人衆も認めざるを得ない。行き先である北条家はともかく、新田家や武田家に対しては直接の遺恨はない。
武田家が三国同盟を破って上杉と盟を結び、駿河を攻めようとすることに対しても、裏切りと眉を顰めたりはしない。関東の国人の多くは、上杉と北条の狭間で行ったり来たりを繰り返してきたからである。
家を残すためなら昨日の敵とも手を結び、弱った味方を攻める。戦国の世では当たり前のことであった。
だが裏切られた側とすれば、ハイそうですかと簡単に受け入れられるものではない。武田家の嫡男、太郎義信が使者としてくると聞いた北条家の重臣たちは、ここで斬ってしまえと叫ぶ者までいた。
「一時の感情にまかせて愚かなことを申すでないわ。ここで武田の嫡男を殺してなんになる? 武田ばかりか関係のない新田までも敵に回すぞ?」
「新田など、所詮はは陸奥の田舎侍ではないか。何を恐れることがある!」
北条長綱は血気盛んな若い家臣たちの声に溜息をついた。風魔党を使うまでもなく、新田家の噂は関東にまで届いている。余りの豊かさのために、自領のみならず交易している越後、越前まで栄えているという。小田原決戦の時に上杉が一〇万もの兵を維持できたのは、新田との交易によって莫大な兵糧を蓄えていたからだ。
その新田が北条に手を差し伸べている。これを払うなど愚者を通り越して狂気としか思えない。
「落ち着くのだ、皆の者。武田は攻めてきたのではない。使者として来るのだ。争う気の無い者を取り囲んで斬るのが坂東武者の作法なのかと、奥州の者たちから侮蔑されても良いのか」
「若殿、ですが……」
北条家嫡男、北条新九郎氏政が若い家臣たちを止めた。最近、ようやく父である氏康から離れ、自分で考えて動けるようになってきている。あと五年もすれば、頼もしい当主となるだろう。
「新田家も武田家も、他国からの使者として持て成す。これは俺だけではなく、我が父の命でもある。決して手出しはならぬぞ。大叔父上、会談は玉縄城でとなりましょう。道中は某が自ら案内致します。伊豆の珍味をご用意願えませぬか」
「ホッホッ…… 頼もしくなられたのう。北で獲れぬものとなると、橙なども出してやろうかの」
その頃、玉縄城においては北条家当主、左京太夫氏康や重臣たちが新田の狙いについて話し合っていた。北条孫九郎綱成、松田左衛門佐憲秀、大道寺駿河守政繁、遠山丹波守綱景など錚々たる家老衆が並ぶ。
「皆々衆も気づいていると思うが、新田の狙いは関東に相違ない。上杉、武田、北条、佐竹、里見の五家が連合すれば、新田は関東には出られぬ。そのため、佐竹や里見の後背となる我らを味方につけるつもりであろう」
「然り。だが上杉も武田もそれを読んで、これを機に当家と融和しようと企んだ。上杉が新田の通過を認めたのは、相模までならば認めるという意味であろう。何様のつもりよ」
「武田もそうだ。駿河に出た後は、恐らく遠江を狙うつもりであろう。後顧の憂いを無くすために、我らと誼を結び直そうという心積もりだ。浅ましい」
北条家譜代の家老たちにとって、上杉は不倶戴天の敵である。武田に対しても、理屈は理解できるが感情的には面白くなかった。それに比べ、新田には負の感情はない。野心は明け透けではあるが、常陸や下野あたりまでなら、関東進出を認めても良いのではないかとさえ思えた。
無論、それは新田家を知らないからそう考えるだけである。上杉輝虎が聞けば鼻で嗤うであろう。だが北条家の中にも、新田を知る者がいた。他ならぬ当主の北条左京太夫氏康である。
「常陸や下野で、新田が満足するはずがあるまい。なぜなら新田の狙いは、日ノ本のすべての土地を領することなのだ。一反の田畑も余すことなく、全てをだ。新田が関東に出てくれば、間違いなく争うこととなろう」
「殿、では此度の件はお断りになられるのですか? 新田ではなく上杉や武田に与すると?」
「そうは言わぬ。武田はともかく、小田原の城をあそこまで壊した上杉とは組めぬ。それに、そもそも利害が対立している。上杉は我らが武蔵を取り戻すことを看過できまい」
武田との蟠りは、あくまでも感情だけの問題である。嫡男が使者として一言詫びること。そして今川攻めの際に、氏真に嫁いでいる春を庇護すること。この二つが守られるならば、盟約とはいかなくとも誼は戻しても良い。
だが上杉は違う。伊勢宗瑞から三代に渡って営々と築き上げた、北条家の象徴ともいうべき小田原の城を破壊し尽くしたのだ。かつての威容を取り戻すことは最早できないだろう。それだけでも許し難いのに、遠く越後から関東の有り様を勝手に決めている。武蔵国を巡って、上杉とは敵対しているのだ。
「武蔵を取り戻すためにも、我らには今一つの力がいる。新田との交易が叶えば、北条にとって大きな利となる。まずは目の前の武蔵を取り戻すのだ。その上で、新田が関東に出て来るならば、上杉とは一時の停戦をして当たる。上杉のほうもそうせざるを得まい」
いわゆる、良いとこ取りをしようというのである。そもそも北条家が目指すのは、関東の統一である。新田を利用して上杉と戦い、上杉を利用して新田を食い止める。それが北条左京太夫の描いた構想であった。簡単なことではない。それ故に、最悪も考えなければならない。
(伊勢宗瑞公の願いは、民が笑って暮らせる国を作ること。北条は代々、その願いを受け継いできた。もし、新田によってそれが叶うならば……)
人知を尽くして戦う。だがそれでも勝ち目がないときは、臣従も考えなければならないだろう。決して口には出せないが、そこまで視野に入れていた。
「弱きを攻めるは戦国の習いとはいえ、此度の件で北条家の皆々様方に御心配をおかけしたこと、深くお詫び申し上げまする。武田は関東に対する野心は微塵もなく、叶うならば再び、貴家との誼を結びたいと我が父も願っておりまする。早川殿(※北条氏康の娘、春乃方)は某が命に代えても、必ずお守り致します」
武田太郎義信は、玉縄城の大広間において、北条左京太夫氏康以下、家老衆などの重臣が集まる中で謝罪した。だがその挨拶は堂々たるものであった。
「謝罪は受け取ろう。新九郎の妻は武田殿の長女。我らも、武田殿との縁を断つのは忍びなく思っていた。だが戦では何が起きるか解らぬ。命に代えてもと申したが、誠か?」
義信は胸を張って決意の表情を示した。
「もし我が父が早川殿の庇護を怠るときは、某は自らの手で父を斬りまする」
「なんと……」
重臣の中から声が漏れた。この場での話は、間違いなく当主である武田信玄にも伝わる。下手をしたら廃嫡されかねない。それを承知の上で、斬ると言い切ったのだ。そこまで覚悟を示された以上、北条としても応えないわけにはいかない。数瞬沈黙して、氏康は頷いた。
「良かろう。その覚悟、信じよう。武田との遺恨はこれで水に流す。皆も良いな?」
「「ハッ!」」
重臣たちが一斉に頷いた。それまで厳しい表情を浮かべていた氏康は、フッと笑みを浮かべた。
「それにしても、武田殿は嫡男に恵まれたな。ここに留まる間、新九郎とも仲良うしてやってくれ」
「新九郎殿と某は、同い年にございます。道中でも色々と話をさせていただきました。友が出来たこと、嬉しく存じます」
緊張感が解れたところで、新田家の話となる。義信は別室に下がり、待機していた浪岡式部大輔具運が大広間に通された。
「お初にお目に掛かりまする。浪岡式部大輔具運でございます。書状の他に、我が主から言伝を頂いておりまする。それをお伝えすべく、津軽より参りました」
新田又二郎政盛からの書状は、既に氏康の手に渡り内容も周知されている。陸奥と相模を海運で繋ぐという壮大な話であった。かつて幾度か試したが危険が大きく叶わなかった。だが新たな造船技術(※骸炭のこと。一四〇話「永禄三年、大評定」参照)によって、それが可能になりそうだという。東回りの航路ができれば、物流が一変する。北条家としては是非とも叶えたい話であった。
「書状にあった交易については、我らも望むところ。陸奥の繁栄ぶりは、遠く関東にまで噂が届いている。蝦夷、陸奥との交易は、大きな利となろう。異論はない。それで、言伝とは?」
「されば……」
浪岡具運の表情から笑みが消えた。なにか余程の内容なのだと、全員が理解した。
「新田家は天下を統一し、日ノ本すべての土地を領することを目指している。山も川も海までも、寺領も公家領も御領所も関係なく、一反の土地も残すことなく隅々まですべてを領する。ただし、民を思い、一所懸命の何たるかを解する家は別である。その土地の開発を任せ、新田が支援することも吝かではない。北条家が望むのならば、関東八州全てを任せても良い。以上でございます」
「………」
大広間が沈黙した。その場の全員が、なにを言っているのかを理解するのに数瞬を要した。