後継ぎの苦悩
大変お待たせ致しました。
甲斐国躑躅ヶ崎館の主である武田信濃守信玄は、関東管領上杉輝虎からの書状を読んで溜息をついた。新田家の使者が北条に向かう。上杉領内の通過を認めたので、武田も認めてやってはくれないか、と言った内容であった。米や酒の他に、鮭の塩漬けや干し昆布など、北方の珍しい産物を武田への土産として運ぶとある。趣旨は解る。だが輝虎同様、信玄にも新田の狙いが読めていた。即ち、関東進出への布石である。
「勘助はどう思う?」
「お認めになるしかありませぬ。ここで断ろうものなら、上杉の面子を潰すことになりまする。それにこれは、北条との誼を回復させる契機となるやもしれませぬ」
「うむ……」
山本勘助は正式に、武田家の軍師となった。謀臣である故に、信玄とは二人きりで話すことも多く、それを訝る国人も中に居る。だが山本勘助は元々が浪人であったため領地を持たず、武田家には禄で召し抱えられていた。重臣の中でも所領を持たない者は勘助一人である。それは勘助の希望でもあった。信玄が所領を与えようとしても、謀臣は家中でも誤解をされやすい。重臣の中でも低い禄でなければならないと断ったという。こうした姿勢により、新参者でありながら軍師として認められていた。
「御当家は駿河を目指しておりまする。ですがその後は、西か東かを選ぶことになりましょう。東は強く、西は弱い。となれば強い方と結び、弱い方を攻めるのが戦の常道でございます」
武田家が欲しいのは海への出口である。駿河を得た後は、遠江、三河と三国を領することは難しくはない。ただその前に、後背となる北条との関係を修復しなければならない。今回はその契機になり得るというのが勘助の見立てであった。
「それは良いとして、誰に任せるかだ。奥州の半分以上を領する新田家の重臣となれば、こちらも相応の者を出さねばなるまい。典厩(※武田信繁のこと)ならば問題ないと思うが?」
だが山本勘助は頷かなかった。だが別案は出さない。無いのではなく、差し出がましいと思っているからである。信玄はそれで、謀臣が何を言いたいのか察した。
「……太郎に任せよというのか?」
「御明察でございます」
「ふむ……」
信玄は少し考えた。嫡男である太郎義信は、今年で二五になる。戦働きはできるが、些か直情的なところがあり、粘り強さが求められる内政や外政には不向きだと思っていた。だが新田家重臣であり奥州の名家、浪岡式部大輔の接待を任せるということは、別の意味を示すことになる。
「風魔が小賢しく動いておりましたが、新田が来るということで引き上げました。この機を逃すべきではないかと……」
父子不和の噂は、昨年から領内に広まっていた。確かに火種は、無くはなかった。嫡男である太郎義信は今川攻めには反対の姿勢であった。正確には、利も理屈も理解した上で、感情の処理がまだできていなかった。もしここで信玄が怒鳴りつけたり、あるいは遠ざけたりしたら、風魔が流した噂は現実のものとなったかもしれない。
だが実際は逆で、信玄は父子の時間を増やした。北条の策を読んだということもあるが、上杉との和睦により、信濃地方の慰撫に力を入れる時間が出来、信玄自身にも心理的な余裕が生まれたからである。
「下らぬ噂を払拭することになるか…… それに、踏ん切りをつけさせる、良い機やもしれぬ。ここで恙なく新田を応対し、北条への渡りを付けたなら、それは太郎にとっても大きな手柄となろう」
多少の不備があったとしても、浪岡具運は笑って流す。流さざるを得ないからだ。つまり接待そのものは大事ではあれど気楽な仕事であった。その上で得るモノは大きい。嫡男である太郎義信に大事な仕事を任せる。父子不和の噂は綺麗に拭われるだろう。
「良かろう。明日の評定で、太郎に任せることを伝えよう」
片目の謀臣は、無言で頭を下げた。
浪岡具運を躑躅ヶ館まで案内する道中、武田太郎義信は釜無川の治水工事の現場に立ち寄った。これは具運のほうが望んだからである。
「おぉっ! これが武田家の堤でございますか。なんとも立派な……」
いわゆる信玄堤である。具運は津軽地方の治水工事を担当していた。武田領を通るなら、治水現場を見ておけと又二郎に言われていたため、義信に希望したのである。
「さすがは武田家でございますな。戦に強いだけでなく、こうした治水や鉱山の開発にも力を入れておられる。強き家は内政も上手い。我が主君も常々、内政の充実を叫んでおられます」
そう言いながらも、治水の技術に関しては新田家の方が上だと具運は判断していた。もっとも、それを口にするほど愚かではない。他家から褒められれば、誰でも悪い気はしないものである。
「父は、今の私と同じ年の頃にはこの堤の重要性に気づき、長年を掛けて治水に取り組んできたのです。おかげで洪水も落ち着き、甲斐でも米が得られるようになりました。父の背を見ていると、某は自分を歯痒く思うばかりです」
父親が余りにも大きすぎる。その大きさに圧倒され、自分を比較してしまう。現代においても、創業者の後を継ぐ二代目ならば、皆が経験する悩みであった。
「……某が、太郎殿とあまり歳の変わらぬ頃です。某の父である浪岡弾正大弼は、祖父の大きさに圧倒されていました。ただ褒められたい、認められたいという思いから、父は祖父に刃を向けてしまったのです」
「それは……」
「父はそのことを今でも悔いております。そして某にこう言いました。胸を張れ、お前は鎮守府大将軍北畠顕家公の末裔なのだ。お前は、お前のやるべきことをせよと……」
「そのような事が……」
浪岡弾正大弼具統は、新田家の外政における重臣である。浪岡家が持つ公家衆への人脈を活かし、遥か北の地にある新田家の名を都に知らしめた。公家の中に、浪岡具統の名を知らぬ者はいないという程に活躍していた。
「義信殿を見ていると、昔の父を思い出します。認められようと懸命なのは解ります。ですが、信濃守殿の背中に囚われ過ぎてはなりません。義信殿は義信殿、信濃守殿とは違うのです。今の義信殿に出来ることをすれば良いではありませんか。いや、少し余計なお世話でしたかな?」
「いえ…… 御言葉、忝く」
一礼して頭を上げた義信の顔は、どこか晴れていた。
武田家の正式な使者として、武田太郎義信は北条家へと向かった。年頃が近いためか、具運とは良く話をしている。僅かな期間の中で、一回り成長する兆しを見せていた。二人を送り出した武田信玄は、正室である三条の方の部屋で酒を飲んだ。
「フッ…… 太郎の奴め。ようやく親離れしそうだわ。それにしても新田陸奥守政盛、良い家臣を持っている。恐らく輝虎めも、羨ましいと思うたであろうな」
「御前様、今川のことは……」
「無論、攻める。お前はまだ反対か?」
だが三条の方は首を振った。
「戦は殿方のこと、妾は最初から反対などしておりませぬ。ただ、梅のことを思うと……」
北条家嫡男の氏政に嫁いだ武田梅は、三条の方の長女である。信玄としても眼に入れても痛くない程に可愛い娘であった。出来ることならば、北条家で幸福に暮らして欲しかった。
「そのために、太郎を送るのだ。当初は不安もあったが今の太郎ならば、やるやもしれぬ。盟を取り戻すことは難しかろうが、蟠りを解くことが出来れば大成功よ」
「ほんに…… そういう意味では、新田家には感謝せねばなりませんね」
「フンッ…… 酒だ」
新田は数年もすれば関東に出て来る。その時までに駿河、できれば東海三国を押さえる。そして力を増した武田と上杉の両家によって、新田の西進を食い止める。食い止めねば、武田は服従するか滅びるかを選ぶことになるだろう。
(儂は齢四〇を超えた。新田との戦が、最後の戦になろう。川中島を遥かに超える大戦となろうな……)
少し酒が回ったのか、心地よい昂りであった。久々に、正室の部屋で寝ようと思った。