謀臣と佞臣
九戸、斯波、葛西、大崎、安東と陸奥の大名を飲み込んできた新田家は、当然ながら家臣たちも急速に増えた。かつて田名部館において、皆で一つの鍋を囲っていた頃とは違い、宴会一つをとっても大事になってしまう。そんな中、新たに加わった家臣たちが、共通して困ることがあった。それは……
『新田家の本城は一体どこなのか?』
ということである。通常、大名家には当主が居住まう本城がある。そこに城下町ができ、家臣たちも屋敷を持ち、評定などがあれば本城に詰めかける。だが又二郎はあちこちへと移動するため、決まった本城というものが見えないのである。津軽なら浪岡、陸奥ならば田名部、三戸、高水寺、出羽なら檜山といったように、月単位で移動を繰り返すのである。
そのため家臣たちは「殿はいま何処に?」と確認するようになり、ついには家族を浪岡城や元所領に置き、単身で又二郎に付き従うというようになる。
「本城? それは俺が居る場所だ」
又二郎はそう言い切るが、さすがに雪深くなる師走となれば、頻繁な移動などは出来ない。永禄四年の師走は、浪岡城において集まれる者たちだけでの忘年会が開かれたが、移動が難しい者たちのためにせっせと年賀状を書き、期待していると伝える。
「御前様は筆まめですね」
「几帳面すぎますわ。重臣皆々の奥方にまで書状を認めるなど、聞いたことがありませんわ」
男らしさという概念は江戸時代に生まれた。戦国時代はどちらかというと「男女分業」の考え方である。男は外で仕事、女は家を守るという考えで、亭主とはいえ家庭のことについては、女房には頭が上がらない。正室は「奥」では絶対的な権力を持つ。そのため、大名から家臣の「奥」になにかを伝えるなど、どちらかといえば珍しい行為であった。
「俺は方々を移動するからな。どうしても、家臣の家族たちには迷惑をかけてしまう。その詫びを兼ねての書状だ」
誰それの働きは実に見事で、自分も期待している。だがその働きも、ひとえに出来た女房の支えのあってのことだ。これからもどうか、夫を支えてやって欲しい。新田は今後も大きくなり、いずれはさらに南へと移動するだろう。誰それも男である故、時には遊女と遊ぶこともあるかもしれないが、それも良い仕事をするうえで必要なことなのだ。責めは自分が受ける故、どうか悋気など起こさずに……
「御前様。なんですか、この言い訳は?」
「厭らしいですわ。不潔ですわ!」
「いや、これは必要なのだ! 戦働きの後は……」
「そう言ってお前様、どこかに妾など囲っているのではありませんか?」
「おらんわっ! 俺はお前たちだけだ!」
二人の女房からジトッという視線を受けながらも、又二郎は筆を動かし続けた。
新田家の騒がしくも平和な師走とは違い、陸奥の南に位置する伊達家では、当主を失った混乱からようやく戻りつつあった。嫡男であった伊達総次郎が伊達家当主となり、片倉伊豆守景時が筆頭家老となった。その一方で、晴宗討死の責任を取らされたかのように蟄居している者もいた。中野宗時である。
「父上、本当に登城されないのですか? このままでは、伊豆守によって何もかも決められてしまいます。殿はまだお若く、しかも唐突に後をお継ぎになられました。たとえ煙たがられようとも、我らも御支えするべきではありませぬか?」
中野宗時は、伊達晴宗討死という報せを受けてから、自ら進んで米沢城下の屋敷に蟄居していた。人と会わないというわけではない。謀臣として今回の責任を取らねばならないと殊勝な姿を見せつつも、実子であり牧野家の養嗣子となった牧野久仲から、城内の様子は掴んでいる。
「殿は今、余裕がない状態だ。そんな状態で儂が出仕すれば責を取れ、腹を切れと言われかねん。遠からず、輝宗様も儂を必要とするであろう。その時までこうして、真摯な姿を見せておくのだ。儂の様子はお前が城内で伝えよ。日々、手を合わせながら先代に詫びているとな」
実際のところ、宗時は晴宗討死以降、晴宗を思って手を合わせたことなどない。宗時の中にあるのは、伊達家を利用して自分の権勢を強め、中野家を繁栄させることであった。守護代の家柄である牧野家に実子を出したのもそのためである。
「父上の御助言により、新田家から晴宗様の首を取り返すことができました。その手柄があれば、御復帰されることも容易なのでは?」
「解っておらぬな。お前を新田に遣わしたのは、新田家との繋がりを持たせるためだ。当家はもう終わりよ。伊達も最上も遠からず、新田に飲み込まれよう。ならば今のうちに、新田に誼を持ち、家を栄えさせた方が良いのではないか?」
「なるほど…… それにしても国境の関所を排するというだけで首を返すとは」
中野宗時は以前から、新田家について調べていた。新田が物流を重視し、領内の関所をすべて廃していることを知った宗時は、伊達領と新田領の関所を廃するという条件で、先代である晴宗の遺骸を取り戻したのである。ロクに知らない中年男の死体などに何の価値も見出さない又二郎が、二つ返事で条件を受けたことは言うまでもない。
「これで新田陸奥守は儂を知った。新田のことを解している男と受け止めたであろう。今後は緩々と、新田とのつながりを強めるのだ。来年には新田は再び、兵を興す。機を見て我らは新田を手引きするのだ」
親子でニタリと笑う。宗時は確かに、又二郎の内政への情熱を理解していた。だが気質までは理解していなかった。謀臣が謀臣たるのは、その策謀がすべて主家のためのものだからである。自分のために策謀を巡らせる者など、ただの佞臣でしかない。又二郎は、そういう者を極端に嫌っていた。
一方、中野宗時の腹の内を知らない総次郎輝宗は、米沢城内で今後についての展望を重臣たちと話し合っていた。だが今一つ良策が出ない。輝宗は、好悪は別として謀臣としての宗時の価値を認めざるを得なかった。
「殿。中野のこと、お許しになられるのですか?」
「伊豆(※片倉景時のこと)は反対か? 確かに俺も宗時を信じてはおらぬ。あの者は我欲が強く、どうにも信用は出来ぬ。だが新田と戦う上で、あの者の謀は貴重だ。家にずっと閉じ籠り、父の菩提を弔っているとも聞く。これまでのような勝手は許さぬが、そろそろ出仕を認めても良いのではないか?」
主君にそう言われ、片倉景時も渋々ながら頷いた。景時に言わせれば、蟄居しているという姿勢すら、どうせ見せかけであろうと思えるのである。もし本当に責任を感じているのならば、さっさと腹を切れば良いのだ。そうすれば、少しは認めることもできるのだが。
「この老骨、お役に立てるのであれば如何様にもお使いくだされ」
数日後、中野宗時は米沢城に出仕した。主君を前にハラリと涙を零し、肩を震わせる。家臣の中には、そこまで先代に忠を誓っていたのかと貰い泣きする者までいた。輝宗自身、欲の強さは別としても伊達家への忠誠は本物ではないかと思ったほどである。宗時の姿に疑念を持ったのは、ごく僅かであった。
「御実城様、武田との盟により越後、上野は安泰となりました。関東では北条が挽回しようとしておりますが、大石と里見が睨みを利かせておりますれば、当分は安泰でしょう。御当家は何処を目指されるのか。我らの次の道、御示しくだされ」
永禄四年師走。関東管領への就任報告、そして武田と盟を結んだことを報せるために上洛した上杉政虎は、その際に将軍足利義輝から「輝」の一字を与えられ、上杉輝虎となっていた。
「唐沢山を攻める」
唐沢山城は、現在の栃木県佐野市に位置した城で、関東一の山城と呼ばれていた。佐竹と上杉の間に位置する、北関東の要衝である。唐沢山城を治めるのは関東の国人である佐野小太郎昌綱であったが、上杉と北条の両方に従属姿勢を見せつつ、面従腹背のまま独立を保っている。
「なるほど。佐野は今でこそ公方様に従っているように見せているが、先代公方様を見限り北条に付き、先の関東征伐では簡単に北条を裏切り、此方に付きました。確かに信用できませぬな」
直江景綱の意見に、他の重臣たちも賛成する。上杉家はどちらかというと無骨な武人気質の者が多い。あちらへヒラヒラ、こちらへヒラヒラとまるで蝙蝠のように態度を変える者など、無遠慮に嫌っていた。
「いずれ新田は関東に出てくる」
「確かに。唐沢山を放置しておけば、佐野が新田に寝返るのは必定。あの要衝を新田に取られれば、御当家と佐竹とは分断されてしまいます。今のうちに芽を積むための一手、御慧眼にございます」
上杉輝虎の言葉の少なさを補うのは、筆頭家老であり上杉家唯一の謀臣である直江景綱の役目であった。かといって、家中の中に景綱を危険視する声はない。景綱に私心がなく、主君のためにすべてを捧げていることを皆が知っているからである。
「なんにせよ、今年は目出度き年でございました。皆々も腹を空かしている様子。御実城様、そろそろ……」
「うむ」
評定の後には盛大な酒宴が待っている。主君の短い返事に、重臣たちは顔を明るくした。