川中島の異変
永禄四年(一五六一年)葉月(旧暦八月)、北信濃の善光寺には関東管領上杉政虎率いる一万八〇〇〇の軍が集結していた。柿崎和泉守景家、斎藤下野守朝信、小島弥太郎勝忠、色部修理進勝長といった上杉家の猛将たちが一堂に揃っている。小荷駄隊として補給を担当するのは直江神五郎景綱である。
「御実城様、皆が揃っておりまする」
政虎が深く信頼する侍大将、甘粕近江守景持に声を掛けられ、政虎は軍議の場に出た。すでに重臣たちが決戦の場所について話し合いをしている。政虎が入ってくると全員が起立して一礼し、再び軍議を始めた。
「武田の軍勢は二万近くになるであろう。一方の我らは、この善光寺との退路を確保するためにも五〇〇〇は残さねばならぬ。兵力は一万三〇〇〇、武田の本隊が到着すれば不利になる」
「なればこそ、まず海津城を攻め落とし、その後に武田を迎え撃てばよい」
「いや、海津城の武将、高坂は若年ながら中々の智将と聞く。簡単に攻め落とせるとは思えぬ。手間取れば我らは挟み撃ちとなる。まず妻女山に陣を取り、武田の動きを探る。武田が攻めてくれば山を一気に駆け下り、打ち砕けばよい」
政虎は瞑目したまま、重臣たちの意見を黙って聞き続けた。だが頭の片隅には別の言葉が響いている。
『それで、誰が幸せになったのだ?』
能代湊で出会った一人の若者の言葉が、頭から離れなかった。この戦をする意味は何か。なんのために、武田と決戦し、敵味方合わせて数千もの死者を出すのか。その結果、誰が幸せになるのか。
「近江、神五郎を呼べ。この戦、あるいは避けられるやもしれぬ」
「は? し、承知致しました!」
甘粕景持が慌てて駆け出ていく。重臣たちは唖然としていた。軍神とまで畏れられる主君から、戦を避けるという言葉が出たなど、信じられなかったのである。
「後で話す。少し待て」
そう言って政虎は再び瞑目した。
甲斐国躑躅ヶ崎館において、武田信玄は海津城からの書状を読んでいた。自分の元近習で今は次代の武将として期待している高坂弾正昌信(※虎綱が本名だが昌信のほうが有名であるため以後、統一表記)からの緊急の書状である。それを一読した信玄はしばらく沈思し、そして重臣たちを集めた。
「……長尾は、本気なのか?」
書状の内容を知った重臣たちも暫く沈黙した。武田信繁が呻くように呟くと、腕を組んで考えていた真田幸隆が口を開いた。
「確かに、悪い話ではありませぬな。御当家が目指すのは海への道。今川と盟を結んでいるため越後を目指し申したが、この数年で状況は大きく変わり申した。今川義元は既に亡くなり、北条も力を落としている。長尾と今川であれば、今川の方が遥かに楽な相手でござろう」
上杉政虎からの書状は、停戦の呼びかけであった。八幡平の北を流れる犀川を国境とし、北を上杉、南を武田と定める。これまでの遺恨はすべて水に流し、武田と上杉で盟を結ぶというものである。さらに書状には、海への道として駿河を挙げていた。甲斐から近く温暖であり、雪に閉ざされる越後よりも良いだろうというのである。
「だが当家は長年に渡り今川、北条と盟を結んできた。それを裏切れば、信を失う」
「とも限りませぬ。そもそも盟約とは、対等な力関係があってはじめて双方に利を成すのでございます。甲相駿は、かつてはほぼ対等な力関係でございました。ですが今はどうですかな?」
「たしかに…… 真田の言にも一理ある」
宿老の飯富虎昌も頷く。心情的には、嫡男である義信の正室が今川義元の娘であることもあり、今川攻めには後ろ向きであった。だが武田家全体のことを考えれば別である。ここで無理をして上杉と決戦を行えば、たとえ勝っても相当な傷を負うだろう。一方の今川は当主を失い、松平の独立により三河まで失った。上杉よりも遥かに楽な相手である。
「勘助はどう考えるか?」
信玄は、北信濃方面を探っていた山本勘助に問い掛けた。片目で必ずしも見栄えの良い男ではないが、恐ろしい程に頭が切れ、行動力もある。武田家に仕えるまでは素浪人であったため、重臣に加わるのに時間が掛かったが、原虎胤が戦傷で隠居状態となったことを機に評定衆に加えられた。譜代の家臣たちも、この男には一目置いている。
「御屋形様、某は本気で考えるべきと進言致しまする。ここで今川との盟を反故にしたところで、北条にも、我らを責める力はありませぬ。むしろ我らが駿河を取れば、北条は後顧の憂いなく関東奪還に動けるのです。今川を切り捨てた後に、改めて甲相同盟を結ぶことも、難しくはありませぬ」
重臣の何人かが頷く。今の上杉は、今川と北条を足し合わせた以上に手強い。強きを避け、弱きを攻めるのは戦の常道であった。だが懸念もあった。飯富虎昌がそれを口にする。
「しかしながら、太郎様のことはどうする? 若君とお松様は仲睦まじく、今川攻めを反対するのは必定。よくよく、考えねばならぬ」
「太郎には、儂が自ら話そう。お松は義元の娘ではあるが、今は太郎の妻、つまり儂の娘でもある。太郎は一本気ではあるが、理が解らぬ男ではない。腹を割って言って聞かせれば、理解するであろう」
当主武田信玄が、一人の父親として長男を説得すると口にした。それはつまり、信玄の中で腹が固まったということを意味する。
「では……」
「うむ。真田よ、この話を進めよ。長尾…… いや、上杉政虎への書状は儂が書く。犀川を国境とすることに異論はないが、不戦の盟である以上、誓紙を取り交わす必要もあろう。その場を整えよ」
「承りました。ではっ!」
こうした交渉は真田幸隆の得意とするところであった。嬉しそうにドタドタと出ていく。一方で、武田信玄は万一のための指示も忘れはいない。
「信繁、交渉が決裂した場合は即開戦となろう。兵を整え千曲川を下り、塩崎城に入るのだ。ただし、そこからは進んではならん。真田からの報せを待て」
「御意!」
「飯富、太郎には儂から直接言って聞かせる。評定の内容を聞かれたら、出陣が決まったとのみ伝えるのだ。太郎は武田の次期当主、清濁を呑まねばならぬ。時を掛けて納得させよう」
「御屋形様。若君は御屋形様を心から、尊敬しておりまする。辛く当たるだけではなく、時には話を聞くのも肝要かと存じまする。どうか、怒鳴られるようなことなく、御辛抱くださいませ」
「うん、よう言うてくれた。下がるがよい。勘助は残れ。探ってもらいたいことがある」
飯富虎昌が下がった後、信玄は山本勘助を当主の座の近くに座らせた。
「此度の件、気になる」
「何故、長尾……いえ、上杉政虎殿が翻意したのかという点ですな?」
信玄は黙って頷いた。そして内心で、やはり武田の軍師はこの男かと思う。真田幸隆も調略、謀略に優れているが、些か口が軽すぎる。謀臣とは家中にすら、なにを考えているのか知れないという怖れを抱かせる存在でなければならない。必要な時に、必要なだけ喋れば良いのだ。
「探るのだ。恐らく北条攻めの後の数ヶ月で、上杉政虎になにかがあった。それで停戦を決断したに違いない。なにがあったのか、それが気になる」
「越後に某の知人がおりまする。この数ヶ月の政虎殿の動き、探りまする」
山本勘助が下がった後も、信玄はしばらくそこに座り、考え事をしていた。
加藤段蔵はいつになく焦っていた。この一〇年間、九十九衆は常に忍びの仕事に明け暮れてきた。忍びの術は、実戦によってしか磨かれない。新田家からの莫大な報酬もあり、九十九衆の力は既に伊賀や甲賀すら上回っていると思っていた。
(何者だ? この俺にここまで付いてくるとは……)
たとえ九十九衆であっても、風魔がいるこの関東においては、忍び仕事は注意しなければならない。九十九衆の中でも選りすぐりの忍びたちと共に、加藤段蔵は関東に入っていた。
新田家からの依頼は、あくまでも諜報活動である。暗殺も火付けもない。諜報といっても、城や屋敷に忍び込むわけでもなく、街の様子や噂話などを集めるだけで良いと言われていた。危険の少ない仕事のはずであった。
異変を感じたのは小田原の街を歩いている時であった。微かに観察する視線を感じたため、すぐに街を出た。やがて集落に入り、さらに森へと消える。だが付きまとう視線は変わらない。
(数は一人、だが信じられない程の手練れだ。これほどの手練れとなれば……)
森の中にある少し開けた場所で、段蔵は立ち止まった。少しして視線が消え、そして一つの気配が出現した。段蔵は諦めたように、フゥと息を吐いて振り返った。
「お久しゅうございますな。風間殿」
「腕を上げたな、段蔵。儂でなければ、とうに撒かれていただろう」
齢五〇程度の男が立っていた。だが本当にその年齢なのか、その顔なのかは段蔵すら知らない。なぜなら自分がまだ若かった頃から、まるで齢を取っていないからだ。段蔵が知っているのは、その男が「風間小太郎」と名乗っていること、その正体は、関東を縄張りとする忍び集団風魔党の頭領「風魔小太郎」であるということである。
「お前が作った九十九衆、中々のものよ。一二人というのは些か少ないがな」
関東に入った手練れたちの人数を正確に当てられた。だが段蔵は、驚きはしなかった。風魔ならばその程度はやる。関東は、風魔の結界内なのだ。
「騒ぎを起こす様子がない故、見逃していたが、懐かしい顔を見かけたのでつい揶揄ってしまった」
「それで、何用ですかな?」
「警告、そして土産を一つだ。いま程度の動きならば見逃してやる。これ以上は入るな」
関東内の街道を歩く。特産品を探す。町人の噂話を聞く。この程度は誰でもやる当たり前の動きであり、いちいち問題にしていたらキリがない。忍びの間では、他家の間者、忍びを見逃す一線として、暗黙の了解となっている。つまり風魔小太郎自身が、加藤段蔵そして九十九衆を「忍び」として認めたということである。
「風間殿に認めていただけるとは嬉しいですな。この一〇年が報われた思いです。で、土産とは?」
「せっかちな奴め。まぁいい。武田と上杉が盟を結ぶぞ」
「なっ…… それは……」
「土産は渡した。あとは自分でやれ。それが忍びであろう?」
そう笑い、正に風のように風魔小太郎は消えた。数瞬して、加藤段蔵の姿もその場から消えた。