義姫の決意
最上家長女「義姫」と聞くと、大抵の人は烈女というイメージを持つだろう。奥州の鬼姫と呼ばれ、息子である伊達藤次郎政宗を毒殺し、次男の小次郎に家督を継がせようとした悪女。「伊達治家記録」にはそのように記されているが、現代の歴史研究ではかなり懐疑的にみられている。
天正一六年(一五八八年)、伊達政宗と最上義光が激突した「大崎合戦」において、義姫は伝説的な行動を取る。戦場となった伊達領、最上領の境(現在の上山市)に輿で駆け付け、両軍の間に仮小屋を置き、そこに八〇日間にわたって籠城したのである。
(伯父と甥で戦うのであれば、まず私を殺しなさい)
現代風に言えば、そう啖呵を切ったのである。これには両軍も困り果て、幾度かの書状をやり取りし、ついには和睦へと至る。この際、最上義光の子供たちが自分よりも義姫に懐いてしまい、義光が肩を落としたという記録も残されている。確かに烈女ではあるが、悪女という印象からは程遠い。
さらに、毒殺未遂事件とされる天正一八年から三年後の文禄二年に、伊達政宗から母親である義姫に宛てた書状が残されている。この書状の内容こそが、毒殺未遂事件の義姫関与を否定する証拠ともなる。内容を現代風に書くとこうなる。
「九州まで手紙を届けるのでさえ大変なのに、なんと朝鮮まで手紙を届けてくれるなんて! 母上の気持ちを考えると、太陽すらも恐ろしく感じるほどに感謝しきれません」
冒頭でこれである。単純に「手紙有難う」ではない。あまりの嬉しさに震えるほどに感謝しているという気持ちを直情的に書き記している。さらに手紙は続く。
「伊達家は城普請工事を免除されていたけど、こっちから願い出て、石垣の普請工事をしました。その出来栄えたるや上方連中が普請したものに比べても、ちっとも劣っておりません。…中略… また、このたびも特別な『お小遣い』(手紙に同封された金三両)をくだされまして、重臣の鈴木重家が言っていたように、母上の気遣いは千両万両に勝り、本当にありがたく思っています」
読んでいて恥ずかしくなるほどの甘えっぷり、甘やかしぶりである。当時の伊達政宗は齢二七歳、奥州屈指の大大名、伊達家の当主である。その当主が「お小遣い貰ってうれしい!」「母上ありがとう!」と臆面もなく書いているのだ。
遠い地にいる息子を思って僅かでも金を仕送りしてやる母親と、その母親に「手柄を立てた!」と自慢しながら感謝を伝える息子の姿が、ありありと表れている。
これが、自分を毒殺しようとした母親に宛てた手紙であろうか。
伊達小次郎は本来、蘆名家に入る予定であった。これは幾つもの史料から確定している。だが佐竹家の介入により、小次郎が蘆名の養子になるという話が破談となる。その結果、小次郎の立場は伊達家中で浮いてしまう。その時に、豊臣秀吉の北条征伐、奥州征伐が発生する。伊達家は代々に渡り、親子や家族間で争いがあった。
政宗としては家中を一本化するためにも、小次郎の存在が邪魔だったのである。そのため、毒殺未遂事件という事件を捏造した。だが烈女でありながらも家族思いの母親であった義姫は、兄妹が争う姿を見たくなかった。家のためにも次男は消えなければならない。だが母親としては何とか次男を救いたい。
そうした葛藤の中で、自分も悪者になり小次郎の魂に寄り添うという選択をしたのではないか。政宗も母親の苦しみが痛いほどに解るからこそ、その後四年に渡って母親を城に留め続けたのである。朝鮮に渡っていた政宗から母親に宛てた手紙の最後の一文は
「命を永らえて帰国できたなら、きっと休養期間があるでしょう。一目でも母上に会いたいと念望(心の底からの願い)しています。そのときは万事よろしくお願いします。」
筆者は、義姫と政宗は最後まで「母と息子」だったと考える。
山形城に戻った義光は、すぐに父親である義守のもとに向かった。高水寺城で見聞きしたこと。そして新田又二郎政盛の言葉、印象を伝える。義守はジッと耳を傾け、嫡男の話を最後まで聞いた。
「源五郎(※義光のこと)よ。此度の戦、参加することは許さぬ。この山形城を守れ」
「父上?」
「儂は羽州探題。奥州を乱す元凶である新田を捨て置くわけにはいかぬ。なんとしても新田を止める。だが戦では何が起きるか解らぬ。儂に万一あらば其方が最上家当主として、新田に降るのだ。この地は取り上げられるであろうが、最上の家を残すことはできよう」
「父上、諦めるのは早うございます。長尾や佐竹まで加われば、兵の数でも新田を上回ります。まずは戦で均衡状態を作り、その上で長尾に……」
だが義守は息子の言葉を遮った。そして一通の書状を手にする。
「無理だ。其方も自分で言いながら解っておろう? 新田はこれまで、まるで本気を出しておらぬ。余裕の中で戦っている。出羽三山からの報せだ。読んでみよ」
渡された書状には、出羽三山の修験者が見聞した、新田領内の様子がえがかれていた。推定石高は三〇〇万石以上、種子島の数は数千丁以上。さらには騎馬や弓などの調練が連日行われており、兵は精兵ぞろい。その上、その気になれば一〇万の兵を集めることが出来ると書かれている。
「其方の言は正しい。新田は領民を幸せにする。降った大名、国人たちも豊かに暮らしている。一所懸命を捨て、禄で新田に仕えれば、最上の家も栄えるであろう」
「では、なぜ……」
義光は確信した。父はこの戦で死ぬ気であると。すべてを承知したうえで、それでもなお、勝ち目のない戦に臨むのである。なぜなのか。何が父を動かすのか。
「大崎の家から分かれて二〇〇年、羽州探題として奥州の秩序を守ってきた。それぞれの家が興亡する中で、それでも奥州人としての在り方は変わることはなかった。だが新田は違う。新田は奥州人の…… いや、武士が築き上げし六〇〇年を完全に破壊しようとしておる。新田を認めることは、己を否定すること。最上の家そのものを否定することなのだ。儂には、それが我慢できぬ!」
義光は沈痛な表情を浮かべた。頑固で不器用な父親ではあるが、それは美点でもあった。二歳の時に最上の家を継ぎ、それから四〇年近くに渡って荒れた領内を耕し、焼け落ちた寺を再建し、少しずつ最上の力を取り戻した。頑固で、それでいて粘り強い。それが義守という男の生き方であった。
「兄上、新田はどうでしたか?」
自室に戻ると、妹の義姫が早速やってくる。新田又二郎から貰った手土産を渡すと、手を叩いて喜んだ。食べたことも無いような甘味に目を細めながら、義姫は兄の話を聞く。
「……父上は覚悟を決めている。俺もだ。せめて一太刀でも浴びせねば、御先祖に顔向けできぬ。だが義よ。お前は生きるのだ。新田殿は民に優しく、従う者たちには寛容だ。お前が、最上の家を残せ」
「嫌でございます」
だがこの烈女は、しみじみと語る兄の言葉を一刀両断してしまった。ポカンとする兄を見て、してやったりとクスクス笑う。義光は不機嫌そうな表情になった。
「笑い事ではないぞ、義!」
「御無礼致しました。ですが、父上も兄上も難しく考えすぎです。戦なのです。勝てば良い。負ければそれまで。義を新田に引き渡し、家を残してくださいませ。それで良いではありませぬか」
「たわけっ! 我が妹を使い捨てになどできるか!」
だが義姫の笑みは消えない。それどころか懐中から短刀を取り出した。
「勿論、私とて使い捨てなど望みませぬ。殿方は夜寝においては無防備になるもの。この身を賭して、陸奥守様を殺します」
とても一四とは思えぬ壮絶な笑みを浮かべる妹に対し、義光はブルリと身体を震わせた。
永禄三年も神無月に入ろうとしていた頃、意外な場所で戦が始まった。本来ならば討伐令のもと、各大名が呼吸を合わせて兵を挙げ、新田領へと攻めるはずであった。だがそこまで耐えきれなかった大名がいたのである。大崎家であった。
「殿、大崎が刈田を仕掛けてまいりました!」
旧葛西家の本拠であった寺池館の南部に大崎軍が侵入したという。かなりの範囲で刈田が行われたようで、収穫直前ということもあり領民も落ち込んでいるということであった。
「……阿呆なのか? 奴らは」
刈田の被害など新田にとってはどうということはない。だが、やられたからにはやり返さなければならない。相手に舐められたら負け。それは戦国時代でも現代でも同じである。
「丁度良い。柏山や江刺、浜田ら旧葛西家の家臣たちに任せよう。一万もあれば十分だろう。新兵の調練にもなるし、何より手柄をあげる良い機会だろう」
旧葛西家家臣たちは、新田に仕えてからまだ日が浅い。手柄を立てる場を求めているし、何より相手のことをよく知っている。
「大将は柏山明吉に任せる。追い払うだけでも良いし、大崎に攻め込んでも良い。ただし、伊達や最上が出てきた場合は速やかに兵を退き、守りを固めよ」
「承りました。左京太夫殿(※大崎義直のこと)の肝を冷やしてやりましょう」
柏山明吉、三田重明、江刺隆信、浜田広綱といった旧葛西家の者たちが、調練を終えたばかりの新兵を率いて出陣する。その数、一万と五〇〇。大崎家の実に六倍の大軍である。
「いやはや…… まさかいきなり一万もの軍を預けられるとは。仕えて浅い我らを試す、といったところであろうか?」
「それもあるだろうが、むしろ伊達や最上に教えるためだろう。新田には調略は通じぬということをな」
「なるほど。確かに、裏切りようがないな」
戦国時代において、調略を受けた武将が戦場で裏切るということは儘あった。これまで味方だと思っていた相手に攻め込む。兵たちが戸惑わないはずがない。それでも裏切りが起きるのは、率いている兵が「自分の領民」だからである。兵たちは「領主様」の指示で戦っており、報酬も「領主様」から貰う。
だが新田では違う。兵は新田の「常備兵」であり、新田から毎月一定の「禄」を得ている。現代風に言えば、日雇い派遣のアルバイトと正社員くらいに違う。
「さて、始めようか。内政はともかく戦でならば、我らもまだまだ働けるということを殿に見せようぞ」
「「おぉっ!」」
永禄三年神無月、柏山明吉率いる一万の新田軍が、大崎領へと攻め込んだ。