武士の正義、民の正義
最上義光ら一行が通されたのは、高水寺城の客間であった。表向きの訪問理由は「奥州探題と羽州探題が婚姻関係になるための挨拶」である。そのため他家からの使者と会うための「表の間」に通されると思っていた義光は、意外な応対に逆に緊張した。
「殿、最上様御一行でございます」
「通せ」
最上義光と氏家守棟のみが通され、他の者たちは隣の部屋で待つことになる。ただし襖は開け放っているため、様子は見えるし声も聞こえる。部屋の中では炭団が焚かれ、ジワリと暖かい。そして部屋の中には、壁に掲げられた大きな図面を見つめる若者が立っていた。背は自分よりも低く、妹と同じくらいであろうか。クルッと振り返り、一〇代中頃としか思えない若者が笑った。
「よう来られた。俺が新田又二郎政盛である」
そう言ってドカリと座る。義光や守棟もその場で正座し、しっかりと挨拶をした。
「この度は我が妹、義姫と奥州探題伊達家の……」
「あぁ、話は聞いている。奥州と羽州の家が結ばれること、誠に目出度い。新田家としても何かしら贈物をせねばと思っていた」
そう言って手を叩く。隣から側女が桐箱を運んできた。蓋は空いた状態である。覗いてみると四角く茶色い饅頭のようなものが光沢を放っていた。そして何やら甘い香りがする。
「これは焼き菓子だ。命がけで戦う兵にとって飯はなによりの楽しみ。甘い食べ物を食わせてやりたいと思ってな。試行錯誤してようやくできた」
ドイツの菓子パン「シュトレン」を模したものである。干した山葡萄やオニグルミを混ぜ込んでいるが、粉糖の代わりに蜂蜜を幾重にも塗っている。一月は余裕で保つため、兵糧としても使える。
「切り分けたものを用意している。食べてみるといい」
二切れが器に載せられ、運ばれてきた。振り返ってみると共廻りにまで配られている。ここで毒など入っているはずがない。義光は意を決して一切れを手で摘まみ、口に入れた。外の光沢部分はカリッという触感を放ち、その後に甘さが口内で広がる。干葡萄の酸味やクルミの触感、そして米とはまるで違う生地の旨味が一体となる。
「これは……なんとも甘く、そして美味い」
「だろう? 妹御にも食わせてやれ。あぁそうだ。これは喉が渇きやすい。おーい」
再び手を叩くと、側女たちが茶碗を運んできた。褐色の液体が注がれている。
「これは俺の好物でな。牛蒡から採った茶だ。美味いぞ」
そこはかとない不思議な甘みと土の香りがする。温めの茶が口に残った甘みを綺麗に洗い流してくれる。義光は恐ろしくなった。こんな満足感は、おそらく京の都でも得られないだろう。それが新田では当たり前とされている。
「牛蒡は量産できたから値も下がっているが、やはり蜂蜜がな。野山や畑の整備が必要なため、量産化まであと三年はかかる。山の民も新たな収入源が出来て喜んでいるし、甘い菓子が安く出回れば領民も喜ぶだろう。楽しみなことだ」
相好を崩す姿は、どう見てもただの若者である。だが言っていること、やっていることは尋常ではない。こんな菓子を当たり前に食える土地が隣にあれば、他からもどんどん、民が逃げ込んでくるだろう。それらに新たな仕事を与え、さらに豊かになる。そしてまた民が逃げてくる……
「さて…… 宇曽利の怪物がどんな男か。多少は見えたかな?」
ハッとなって顔を上げる。目の前の若者の表情が変わっている。ニコニコと笑っていた好青年の姿はなく、奥州の半分を領する大大名の当主がそこにいた。
供廻りを連れて高水寺城を出る。連れていた者たちは一様に、美味かっただの優しそうな殿様だっただのと口にしている。
(愚か者が。アレがそんな甘い男か!)
「若、お気づきのことと思いますが……」
「あぁ。新田は既に、討伐令のことを掴んでいる。その上で、新田の秘密の一端を見せたのだ。恐ろしい。アレに、本当に勝てるのか?」
既に夕暮れになっている。泊まっていけと誘われたが、義光は丁重にそれを辞した。これ以上、この城に居たら自分の中の何かが揺らぎそうだったからである。それは隣を歩く氏家守棟も同じだったようで、険しい表情を浮かべていた。
「……戦においてなら勝てるやもしれませぬ。ですが統治という意味においては、まず勝てませぬな。新田以上に民を栄えさせるなど、誰にも出来ますまい」
「それはつまり、新田を滅ぼしたら民から恨まれる、ということか?」
「滅ぼす前に民が蜂起し、新田を援けるでしょう。数十万もの民が鍬や鋤を手にして挑んできます。我らは大虐殺者として、永代に汚名を残すことになるでしょう」
フワリと味噌の香りが漂ってくる。見ると新たに家を建てている番匠(※大工のこと)らが食事をしていた。細長い枝に魚を刺して焚火で焼き、その傍らで味噌汁を用意している。なんと真っ白な握り飯まであった。最上家でも滅多に食べることができない御馳走である。
「……アレが、この地では当たり前なのです。豊かさの基準がまるで違います。新田が真に恐ろしいのは、一所懸命という言葉の意味を変えてしまったことでしょう。我らが土地に拘りを持つ限り、民は疲弊し貧しいまま。武士が土地を領することは、一所懸命は本当に正しいのか。新田はそう突き付けているのです」
義光は歯噛みした。これではどちらが悪か解らぬではないか。土地を奪い、国人を滅ぼす新田が悪。奥州探題、羽州探題として新田を討つ我らに正義がある。幕府の旗印を掲げ、そう呼びかけ、奥州連合を形成した。
だがその正義は、武士の立場から見た正義である。その地に生きる民の立場からすれば、せっかく豊かに暮らしているのに、また貧しい暮らしに戻れというのかと思うだろう。つまり奥州連合こそが悪になってしまう。
「もう止まることはできぬ。後の世でなんと言われようとも、新田とは決着を付けねばならぬ」
義光は迷いを捨てるように、そう言い切った。結局は選択の問題なのである。新田に降った大名、国人たちは、民の正義を選んだ。自分の力では、民をここまで幸福にはできない。だから新田に任せる。そう自分に言い聞かせて降り、実際にそうなっている姿を見て安堵しているのだろう。
だが、戦いもせずに降るなど自分にはできない。たとえそれが民の希望から反しているのだとしても、武士としての矜持が許さない。下手をしたら最上は滅びる。だが最上の民は、幸福に生きられるだろう。義光にとっては、それは救いでもあった。
「若、ようお決めになられました。ならば某も、知恵の限りを尽くして戦いまする。ですがその前に、まずは旅籠に向かいましょう。腹が減っては、戦は出来ませぬぞ?」
「ハハハッ、そうだな」
最上義光は吹っ切れた顔をして笑った。
「殿、最上義光一行は、城下の旅籠に入りました」
「そうか、ご苦労だった。手出しはするな。国境を越えるまで確認すればそれでいい」
九十九衆からの報告を受けた又二郎は、書類から目を反らすことなくそう返事をした。書類の内容は、新田の兵力を五万とした場合の、経済的な負荷について計算されたものである。新田の石高は四〇〇万石近いが、人口はせいぜい八〇万人程度である。新たな産業を興したくとも、人手がまるで足りない。そのため多産を奨励し、他国からの移民を受け入れている。各集落単位で戸籍を管理し、寺で読み書き算術を教えることで二重に確認している。間者も紛れこんでいるだろうが、今のところ火付けなどの人為的災害は起きていない。
「だがこれからは違うだろうな。最上は出羽三山の修験者を使っている。修験者の場合、情報収集が主であろうが扇動にも気を付けねばならぬ。できれは官報のような仕組みを入れたいが、人手がな……」
新田では楷書体が浸透しているため、活版印刷の導入も可能である。だが技術的な問題以前に、人手がまるで足りない。文化とは、衣食住の先にある。まずは旧葛西領、安東領をしっかりと豊かにし、新田の統治を浸透させることが優先であった。
「この忙しいときに新田討伐令とは…… 足利はやはりロクでもないな」
もっとも、それはあまり悲観していない。しっかりと守りを固めて迎撃すれば、新田が崩れることはまずない。間もなく雪もチラつきはじめる。そうなれば退かざるを得ない。冬の合間に内政を強化すれば、春にはさらに力を増す。時が経つほど、彼我の差は広がっていくだろう。
「歩き巫女たちの他に商人も使おう。新田に来れば豊かに暮らせるという噂を流し、奥州中から人を集める。追い詰め、暴発させる。クックックッ……」
永禄三年長月(※旧暦九月)も半ばを過ぎようとしていた。間もなく、奥州決戦が始まる。