敵を知るために
永禄三年も長月に入る。蝦夷地では徐々に山々が色づき始める。この地は今や別天地となりつつあった。奥州の大乱も、海を挟んだ蝦夷までは届いていない。山や海からは四季折々の恵みがあり、作物も豊かに実っている。蝦夷の民同士で争いはあるものの、南の大乱と比べれば小競り合いのようなものであった。
蝦夷の民も変わってきている。最初は様子を伺っていた者たちも、今では徳山や函館で商いをするようになった。日ノ本の言葉を操る者も増えている。蝦夷の民だからといって差別をする者などいない。この厳しくも豊かな土地で、皆が楽しく平和に暮らしている。
新田家から、この別天地を任されている者こそ、徳山舘の主である正六位上蠣崎弾正大忠季広である。
「殿。宇曽利諏訪宮より南条籾二郎様がお越しです」
新田家名産の牛蒡茶を飲みながら山々を愛でていると、蠣崎家家老の明石季衝が来た。忠義に篤い男で、新田の禄を食まずに蠣崎家が一〇〇〇石で召し抱えている。もっとも蠣崎家の家禄は一万石であり、さらには蝦夷開拓府の長官として、別に一万石を得ている季広にとっては一〇〇〇石など安いものである。
「籾二郎殿が来たか。構わぬ。ここまで通すがよい」
季広は目を細めた。南条籾二郎宗継、かつての自分の長女、紅葉姫である。故あって今は男として生きているが、長女というものは父親にとって特別であることは今も昔も変わらない。やがて空気が変わる。館で働く側女たちが柱から顔をのぞかせたりしている。一見すると女にも見える美男子が、袴と狩衣、烏帽子という宮司の常装で姿を現す。
「おぉ、籾二郎殿。久しいな」
「御無沙汰をしておりまする。弾正大忠様」
畳の上にフワリと座る。長女は死んだということになっている。親子としての関わりは本人も望んではいない。だが親としては、我が子の元気な姿は嬉しいものであった。自然と機嫌も良くなる。
「秋田諏訪宮とも話し合い、勧請が認められました。建御名方神を祀る諏訪神社を蝦夷地に建立致しまする。しかしながらこの地が日ノ本として認められるには、朝廷に府を置くことを認めていただく必要があるため、今しばしの時が必要でございます」
「よもやこうした日が来るとは…… この地が日ノ本として認められれば、御先祖も喜ぶであろうな。蝦夷の民たちの中には、もう日ノ本の民と変わらぬほどに言葉を使う者もいる。二、三〇年後にはさらに増えておろうな」
「陸奥守様からは、決して無理強いをしないようにと厳命されております。蝦夷の民は日ノ本とは異なる信仰を持っております。それを否定せず、むしろしっかりと書に残すようにと言われております」
「我が殿ながら、面白いことを考える。いや、富裕なればこその余裕だな。それで建立はいつ頃になりそうか?」
「当初は来年にもと考えておりましたが、南の方で些か問題が起きまして……」
籾二郎はそう言って苦笑した。季広も顎を撫でながら頷いた。南の問題とは当然、新田討伐令のことである。
「新田家は総動員令を出しました。兵を五万にまで増やし、迎え撃つおつもりです」
「うむ。儂のところにも来ている。イシカラベツ(※石狩川のこと)あたりで採れる黒い石を集め、それを陸奥の釜石まで送って欲しいとな。既にイシカルンクル族長のハウカセ殿とは話が付いている。ただの黒い石が米や酒になると喜んでおったな。だが一体、なにに使うのだ?」
「はて…… ただ殿は、御当家が天下を獲る上で欠かすことのできないものとのみ、仰せでした」
向かい合って座る父娘は、牛蒡茶を啜って他の話題に移った。二人とも、宇曽利の怪物を理解しようとするのは、とうに諦めていたのであった。
出羽横手城において、小野寺輝道は連日のように軍議を開いていた。小野寺はいまや雄勝、平鹿、仙北、由利を抑え、出羽国中部を支配する大名となっている。その力は檜山安東家や最上家と肩を並べるほどだ。
「御当家は最上、天童、延沢、大宝寺と共に動きまする。伊達家は陸奥において、大崎、蘆名、田村、二階堂、相馬と共に高水寺城まで攻めのぼります」
八柏道為の説明を聞きながら、輝道は小野寺家も大きくなったものだと実感した。父を殺され、大宝寺で逼塞していた自分が、今では奥州探題、羽州探題からも頼られる大名となった。大宝寺氏は残念ながら力を落としているが、匿ってくれた恩もあることから小野寺は何かと支援してきた。
「此度の討伐令で、大宝寺家中も少しは落ち着くであろう。新九郎殿(※大宝寺義増のこと)も一息つけるな」
「公方様からの命でございますれば、それに逆らって家を乱すものなど反逆の輩。いっそこれを機に家中を掃除すれば良いのですが……」
大宝寺義増は戦国時代には珍しい「善人」である。越後の本庄や小野寺が窮地であったときに攻めるどころか家の立て直しを手助けし、その見返りすら求めない。根が善人というのは、乱世においては罪でさえある。当主に決断力がなければ、国人衆は付いてこない。大宝寺家は年々、力を落としていた。
「この戦は最上が起こしたもの。それに従属する天童、延沢は前に出ざるを得ません。御当家は戦の頃合いを見てこの二家、そして大宝寺を飲み込みなされ。さすればもはや、殿を止める力はありませぬ」
家中随一の謀臣の言葉に苦笑しつつも、それも悪くないと輝道は思った。このままでは遠からず、大宝寺は本庄、あるいは長尾に飲み込まれるだろう。そうなれば大宝寺家は取り潰されるかもしれない。縁戚である自分であれば、幼い嫡男を盛り立てて、大宝寺家を残してやることができる。バラバラの国人衆も纏まるだろう。
「いずれにしても、新田と一戦して勝たねばならぬ。幸い、新田は檜山を獲ってから日が浅い。今であれば土崎を狙うこともできよう。最上に潰れ役となってもらい、小野寺が土崎を獲る」
主君の頼もしさに満足し、謀臣八柏道為は笑みを浮かべて頷いた。
「まったく倅の奴め。勝手なことを……」
最上家当主、最上義守は文句を言いつつも嫡男を咎めることはしなかった。新田家の有り様は、これまでの奥州武士から余りにも逸脱している。このままでは武士という存在そのものが、日ノ本から消えてしまうかもしれない。宇曽利の怪物は、それ程までに理解不能な存在であった。
「されどこのままでは、御当家は潰れ役となってしまいまする。ある程度の犠牲は仕方がないとしても、小野寺にもそれなりに戦ってもらわねばなりませぬ」
「そうだな。まずは我らが出て一当てする。だがこれは様子見よ。新田の強さは噂でしか聞いておらぬ。肌で感じてこそ解ることもある。その上で改めて、どう戦うかを決める」
山形城に集めた重臣たちと共に、羽州探題は軍議を行っていた。あと二月で雪が降り始める。その前に一当てし、冬を挟んで本格的に戦う。これが皆の共通意見であった。
「ところで、若君はどちらへ」
「あのたわけ者め。敵を知る一番の方法は直接会うことだと言って、陸奥へ向かいおったわ」
「それは…… お止めにならなかったのですか?」
「聞いたときは既に城を出ておった。万一にも捕らえられ人質になった時には、倅は捨てる。儂はそう腹を括っておる」
もっとも、その可能性は低いと判断したから止めるための追手を出さなかったのだ。まだ戦は始まっていない。この時点で他家の嫡男を理由なく捕らえるなどしたら、それこそ新田は永代に渡って卑怯者と呼ばれるだろう。宇曽利の怪物と呼ばれるほどの男が、そんな愚かなことをするはずがない。義守はどこかで、そう信頼していた。
高水寺城に入った最上義光ら一行は、その活気に仰天した。人々が集まり、盛んに商いをしている。大通りには食い物や着物を売る店が並び、名もなき平民が普通に銭を払っている。
「これは……」
「若。よく見ておきなされ。これが新田の強さの秘密でございましょう」
絶句する義光に、氏家守棟が声を掛ける。だがその表情は険しい。街はまだ整備中のようで、そこかしこで賦役が行われている。ここまで来る途中、道を広げる賦役を幾所で見かけた。最上領内では決してみられない光景であった。
(恐ろしい。これが新田の目指す世か。こんな国が隣にあれば、領民は一斉に逃げ出してしまうだろう。南部晴政は戦をしたのではない。戦をさせられたのだ)
やがて高水寺城が見えてくる。奥州屈指の名門、高水寺斯波氏の本拠であっただけあり、その外観は堂々たるものであった。
(ここが、奥州を飲み込もうとする怪物の住処か)
義光は覚悟を固めて、城門を潜った。