新田討伐令
永禄三年七月の末、盆地にある京の都は茹だるような暑さであった。その中を汗一つ掻かずに涼しい顔をして歩く男がいた。出羽最上家嫡男、最上源五郎義光と氏家定直らである。
「都も少しは落ち着きを取り戻したようだな。やはり、上様は京に居られてこそ落ち着くというもの」
「左様ですな。三好との関係も悪くないと聞き及んでおります。上様にとっても三好にとっても、管領殿を憎く思うておられたのでしょう。それを排することが出来たため、争う理由もなくなったのだと思いまする」
やがて上京と下京の中間地点、勘解由小路烏丸に新たに造成された「御所」に入る。義光は自らの身なりを確認した。奥州の田舎とは違い、都では何かと作法が求められる。
「奥州における乱のこと、上様も御心を痛めておられる。奥州探題と羽州探題が揃っての願い、出来得るなら叶えたいところだが、折が悪うござったな。畿内ではいま、修理太夫殿(※三好長慶のこと)が畠山討伐で動いており、御内書を出されたばかりでござる」
幕府奉公衆の上野民部大輔信孝が憐れむような、それでいて馬鹿にするような表情を浮かべていた。室町幕府にとって喫緊の問題は、畿内の安定である。遠い奥州のことなど、どうでも良いことであった。さらに手土産の問題もある。新田からは毎年、献上の品々が届いている。奥州探題、羽州探題からの奏上であったとしても、簡単に頷くわけにはいかなかった。
「されば、此方を御改め下され」
義光は懐から一通の書状を取り出した。こうした反応があった時のために、定直が整えておいたものである。上野信孝がその書状を改める。すると顔色が変わった。
「こ、これは…… これは本物か?」
それは新田仮名目録という名の分国法であった。新田家公式文書として領内全ての元大名、国人衆に撒かれたものである。最上家は出羽三山の修験者たちを通じて、密かにそれを入手していた。そこには高々と宣言されていた。
『新田家は天下を統一し、日ノ本すべての土地を領する』
それはつまり、室町幕府への反逆の証拠であった。こんなものが出てきたら、さすがに室町幕府としても動かざるを得ない。征夷大将軍足利義輝の名において、新田討伐令が出されたのは、それから三日後のことであった。
「若、宜しゅうございましたな。まさか二つ引両の旗(※足利家家紋)まで与えてくださるとは」
「うむ。さすがに朝敵には出来なかったが、大義名分としては十分だ。新田に隣接する大名には悉く討伐令が回るだろう。伊達が旗印となれば蘆名も無視はできまい。だが厳しい戦になるぞ。新田は三万以上を動かせる。奥州のすべてが纏まったとしても、兵力はほぼ互角であろう」
「確かに。ですが討伐令が出たとなれば、新田に仕える国人衆やかつての大名たちも迷うはずです。特に旧葛西家の者たちは日が浅いですからな。調略に乗る者も出るやもしれませぬ」
最上義光らが成果を得て出羽に戻ろうとしていたころ、檜山安東家と土崎豊島家の戦にも決着が付きつつあった。安東と豊島とでは、経済力が違う。徐々に豊島は追い詰められ、ついに豊島城に退かざるを得なくなった。だがここで、安東太郎愛季が狡猾なところを見せる。この段階で新田に援軍を頼んだのである。その書状を持ってきたのは嘉成氏当主、嘉成常陸介資清である。
『なんとか豊島城を囲むところまでは来れましたが、当家も兵は疲弊し、数も減らしております。城攻めには力不足故、御当家のお力に御縋りしたく……』
それを聞いた又二郎は苦笑した。
「要するに、安東家だけで豊島を落としたら、新田家中での発言力が大きくなりすぎる。その前段階で新田に臣従することで、蠣崎家、南部家との均衡を取ろうとしたのだ。やるではないか。安東太郎」
城を囲むところまできたのなら、後は兵糧攻めなり調略なりすればいい。もう後がないのだ。遠からず豊島は降るはずである。だがあえて、ここで新田を引き出す。美味しいところを新田に持っていってもらう。現代においても普通に行われている処世術であった。
とても一〇代半ばの若者とは思えない物言いと判断力に、嘉成常陸介資清は背中に鳥肌を立てた。南部晴政が何としても殺そうとした理由を肌身で実感し、その場で決断した。
「我ら嘉成も、これを機に臣従致します。領地はすべて差し出しまする。ですが嘉成の地に生きることだけはお認めいただきとうございます」
石川高信率いる四〇〇〇の兵が津軽から出羽に入ったのは、その翌日であった。同時に、鹿角から毛馬内秀範率いる六〇〇〇が比内に入る。安東家から離れた残党たちを駆逐するのが目標であった。結果は鎧袖一触であった。瞬く間に比内を統一し、八月上旬には津軽軍、安東軍と合流した。
「ここまでのようじゃな。重村よ、儂はここで腹を切る。じゃがお前は生きよ。生きて新たな天下に、豊島の家を残すのだ」
豊島城内で、豊島玄蕃頭は諦念の表情を浮かべていた。だが豊島家嫡男の重村は、どこか斜に構えたところがある。降伏して新田の中で豊島を残すことを希望する父親の期待を裏切り、重村はどこまでも新田に反抗することを考えていた。
「戦ってのは、負け戦のほうが面白いのさ。新田に入っちまったら、いつも勝ち戦ばかりじゃねぇかよ。俺は逃げるぜ。最上あたりに仕えて、どこまでも新田と戦ってやる。そっちの方が面白ぇからな」
息子の言葉に呆れつつ、玄蕃頭はクククッと笑った。若かりし頃の自分を息子に見た気がした。兵たちには手を出さず、城内の物資持ち出しを認めるという条件で、豊島城は開城した。永禄三年葉月の中頃のことであった。
「安東家の中で使えそうな者を文官にし、とにかく領内慰撫に努めろ。新田は一気に膨張した。だが中身が追いついておらん。この一年は内政に明け暮れるしかないな」
新田家の石高は既に三五〇万石に届いている。だが貧富の差が生まれ、領民の中には不満も溜まっていた。街道の整備、治水、開墾、治安維持、領民の教育などやるべきことが多すぎる。高水寺城において、又二郎は書類仕事に追われていた。
(遠隔地へのコミュニケーション手段が、早馬による書状のやり取りしかないからな。なんでも俺が決めようとすれば、どうしても遅くなる。こうしてみると、藩政というのも一定の利点があるわけだ。各部署への権限移譲をさらに進める必要があるな)
企業経営には、社員三〇人の壁というものがある。どんなに優れた管理職であっても、働きぶりをしっかり見ることができるのは三〇人までなのだ。その先は中間管理職が必要になる。その次に来るのが一〇〇人の壁である。自分ひとりで判断し、意思決定できる企業規模の限界である。さらに大きくなるためには逐次の報告などは廃し、各部署に予算と意思決定権を与えなければならない。組織が大きくなるにつれ、経営者には試練が与えられる。「部下を信頼し、任せる」という試練だ。これは戦国時代の大名でも同じであった。
書類仕事を終えた又二郎は、何とか日付が変わる前に床に入ることができた。だが頭は妙に冴えている。そして女が欲しくなっていた。又二郎の周りには、当然ながら側女がいる。だが手を出したことはない。妻が二人もいるのだ。その妻を抱く前から浮気をするなど、さすがに亭主として問題だろうと思っていた。
(二年も待てないかもな。ひと段落したら、二人をこっちに呼ぶか……)
同い年の美しい妻二人を想像すると、睡眠欲よりも性欲が込み上げてくる。又二郎はフゥと息を吐いて寝返りを打った。その時、微かな気配を感じた。跳ね起きて枕下に隠した短刀を手にする。
「……段蔵か?」
「御意。お休みのところ、申し訳ありませぬ」
「構わぬ。何があった?」
布団に胡坐すると、下半身が微妙に反応しているのを感じた。だが気恥ずかしさはない。精神年齢九〇にもなれば、男なら当然という開き直りもできる。
「……女子の用意であればお任せくだされ。九十九衆や巫女から選りすぐりを用意致します」
「気を遣ってくれて嬉しいが、必要ない。で?」
そう言いつつ、いずれは試すのも悪くないなと思いながら、又二郎は話を促した。加藤段蔵は珍しく険しい表情を浮かべた。余程のことだと又二郎は察した。
「最上に、妙な動きがございまする」
又二郎は微かに目を細めた。