四〇〇年の始まり
「縄を解いて差し上げろ。それと、床几を用意せよ」
「と、殿!?」
目の前にいる、元服したてと思われるほどに若い男の指示に、周囲の者たちが慌てる様子を見せる。ギロリと目線を向けるだけで、屈強な男たちは若者に頭を下げた。
(なるほど。これが宇曽利の怪物か。確かに尋常な男ではない)
柏山明吉は目を細め、そして羨ましいと思った。自分にも同じ年頃の嫡男がいる。だが嫡男の明国は武辺一辺倒で粗暴者であった。次男は比較的大人しい性格だが、逞しさに欠ける。三男にいたってはまだ三歳であり、どうにもならない。
三田重明は、主君の右後ろに用意された床几に腰を落ち着かせた。武器はすべて取り上げられているが、たとえ組打ちでも目の前の若者を殺すぐらいはできる。重明は一瞬、そう考えた。
「やめよ、主計。無意味だ」
「……はっ」
主君に止められ、重明はその考えを捨てた。そう。ここで新田陸奥守政盛を殺したところで、負けが覆るわけではない。自分たちも家臣も皆殺しにされるだけだ。むしろ生かされたことを感謝し、柏山一族や領民に無体なことはしないよう、乞うほうが良いだろう。
「……なぁ、藤六。俺はそんなに弱そうか?」
「弱そうではなく、弱いですな。殿はいま少し、武を磨くべきかと」
重臣の長門藤六広益は、苦笑しながら当主に諫言した。「弱い」など、武士に対する侮辱ですらある。だが目の前の怪物はケラケラと笑った。
「武士の嗜みか。まぁ身体を動かすことは悪いことではない。少し鍛錬するか。さて、既にお気づきと思うが、俺が新田陸奥守又二郎政盛である。柏山明吉殿、三田重明殿に相違ないな?」
二人は無言で一礼した。又二郎は用意された床几に座ると、前かがみになっていきなり切り出した。
「率直に言う。降伏し、新田に仕えよ。明吉殿には八〇〇〇石、重明殿には五〇〇〇石の禄を用意する。そして一族郎党、この地で生きることを認める。その武略を天下のために使え」
重明はジッと主君の背中を見つめた。ここで降伏したとして、それで大林城に籠る者たちが納得するだろうか。明国などは徹底抗戦を主張し、親すら見捨てるかもしれない。
「なぜ、そこまで我らを生かそうとされる? 我らは三度に渡り、新田に弓を引いた。普通であれば、首を刎ねて然るべきであろう?」
「あぁ、そうだな。首を刎ねることは簡単だ。だが、柏山は殺せぬ」
二人が首を傾げる。柏山を殺せないとはどういう意味か。
「この地を見た。路傍の草花に至るまで、柏山が根付いている。四〇〇年の歴史の重さだけではない。柏山の当主たちが代々に渡り、この地を守り育ててきたのだろう。其方ら二人を殺したところで、この地に根付いた柏山の色は、歴史は消せぬ。むしろ治めようもなく混乱するだろう」
「ならばなぜ、攻められたのです! 我らは領地の拡大など望んでおりませぬ。この地で平穏に暮らせればそれで満足なのです。本領を安堵いただければ、我らは命を捨てて新田のために働きまする!」
「主計ッ」
三田重明はカッとなって叫んだ。新田には勝てない。それは柏山家中全員が理解していた。本領安堵が約束されていれば、すぐにでも降伏しただろう。新田は武士が土地を持つことを認めていない。だからここまで抵抗したのだ。
明吉は止めようとしたが、又二郎は最後まで黙ってその叫びを聞いた。そして冷徹な表情で返答する。
「新田のために、ソレよ。俺はそれを変えたいのだ。応仁の乱から一〇〇年、日ノ本の各地で戦が頻発し、流浪した者たちは野盗となり村々を襲い、真面目に生きる民たちは飢え、怯えている。その原因は一体なにか。それは武士の考え方にある。領地のため、主君のため…… それが間違っているのだ!」
「な、なにを言って……」
だが重明は言葉を続けられなかった。目の前の若者が放つ、異様なほどの眼の光に圧倒されたのだ。
「一所懸命の一所とは、己が領地ではなく日ノ本全土でなければならぬ。主君のためではない。自分を含め日ノ本の民のために、そして子や孫が安心して、幸福に、明日を夢見る世を作るために戦わねばならぬ。なぜ戦が絶えぬのか。それは戦をする武士たちの視野が狭いからだ。志が低いからだ!」
重明には、目の前の男がなにを言っているのか、半分も理解できなかった。だが身体が、魂が震えていた。この男は、自分とはまったく違う何かを見ている。壮大で、果てしない何かを見据えている。
「……藤六殿。藤六殿も、同じような気分になったのですかな?」
柏山明吉は又二郎から視線を外し、長門藤六広益に顔を向けた。広益はしっかりと頷いた。その眼差しには僅かに、同情の色があった。
「もう何年前になるか…… 蠣崎家への贈物に謝意を申し上げるため、某は初めて田名部を訪れ、そして殿にお会い申した。当時はまだ元服も為されておらなんだ。だが同じよ。某も、殿の見据える世界の大きさに圧倒された。そして直感した。殿が天下を獲られれば、日ノ本は必ず良くなる。民たちが、子や孫が笑って暮らせる世が来る。某はそのために働いている」
「左様か…… なんとも羨ましいことよ」
武士とて人間である。戦がしたくてしているのではない。殺したくて殺しているのではない。戦に倦んでいるのは、なにも百姓だけではないのだ。だが新田の武士たちは、戦に大義を見出している。明確な目的を持っている。「御恩と奉公」とは違う形で、主君と繋がっていた。夢を共有しているのだ。
明吉は納得した様子で二度頷き、右後ろに顔を向けた。
「主計、良いな?」
「はい」
重明には主君の気持ちが手に取るように解っていた。明吉は晴れ晴れとした表情を浮かべ、又二郎に顔を向け、そして頭を下げた。
「柏山は、新田に降伏致します」
大林城を八〇〇〇の新田軍が取り囲んでいる。残り四〇〇〇は柏山領内を押さえるために派遣されている。文官たちは既に領内の調査に乗り出しており、早晩、柏山領は新田に組み込まれるだろう。
「それにしても、本当に宜しいのでしょうか? もし明吉殿、重明殿が裏切ったら……」
武田甚三郎守信は不安げな表情で大林城を見つめた。大林城内の家臣たちを説得するため、明吉と重明は解放され城へと戻っている。武士としては彼らを信じたいが、最悪も想定しなければならないのが、参謀役というものだ。だが守信の言葉を又二郎は笑って否定した。
「もし裏切ったなら、その時は俺の見る眼が無かったというだけだ。別に惜しいとも思わぬ」
「裏切りなど有り得ませぬな。槍を交えただけですが、某は確信しておりまする。柏山明吉は誇り高き武士。一度口にしたことを反故にするなど、己が誇りが許さぬでしょう」
甚三郎は不安げに、残り二人は楽観的に城を眺めていた。
「父上! なぜ降伏などするのです! 柏山家四〇〇年を潰すおつもりですか!」
柏山明吉の嫡男、柏山明国は額に血管を浮かべて怒鳴った。三田重明以下、家臣たちは親子の会話を黙って見つめている。予想通り、降伏を反対する急先鋒は嫡男であった。嫡男の評判はあまり良くない。陰では、若君は強さと粗暴を、誇りと傲慢を違えていると誹られている。
「兄上。父上とて苦渋の御決断のはず。そのような……」
「黙れ! お前はそれでも柏山の男か! 最後の一兵まで戦い抜くのだ!」
次男の明宗が兄を窘める。自分よりも評判の良い弟に言われ、明国は尚更、強硬論を唱えはじめた。
「そうだ! 降伏すると見せかけて城を出て、新田の本陣に近づいたところで一気に……」
そう言いかけた時、当主の明吉が動いた。刀を抜いて、嫡男を袈裟斬りにしたのである。なにをされたのか気づいて、驚愕した表情のまま明国はその場に崩れた。
「……たわけ者が。そのような卑怯卑劣なことを企むなど、それこそ柏山の男ではないわ!」
「ち、父上……」
刀を放り捨てる父親を、明宗は怯える表情で見つめた。その肩を重明が掴む。
「若君、お下がりなされ。殿は自らの手で、決着をつけられたのです」
たとえ降伏しても強硬派の明国がいる限り、いつか騒動が起きるかもしれない。その時、新田によって明国が処断されたら、心のどこかで恨む気持ちが芽生えるかもしれない。だからこそ、自分の手でその可能性の芽を摘んだのである。
「柏山は今日より、新田と共に生きる。不満がある者もおろう。この地を離れるのならば、幾ばくかの米を持たせるし、感状も出そう」
「殿、我らは最後まで御家と共に生きるとお誓い致しました。それに、新田の兵たちは領民に無体なことをしなかったと聞いておりまする。降ることに、不満はありませぬ」
「むしろ我らの武を新田の者共に見せつけ、度肝を抜いてやろうぞ」
降伏するというのに、家臣たちの表情は暗くはなかった。終わるのではない。柏山の、新たな四〇〇年が始まるのだ。明吉も重明もそう思い定め、笑みを浮かべた。