怪物
永禄三年(一五六〇年)五月二五日、長門広益を先陣とする新田軍一万二〇〇〇が金ヶ崎城を出陣した。目指すは柏山明吉が籠る大林城である。だが一直線に進めばよいというものではない。その道程には幾つかの砦、集落が存在する。たとえ敵がいなくとも、無視して進むわけにはいかない。部隊を派遣し、一つずつ押さえていく。
「七木田村を押さえました。予想通り抵抗はありません。ただ領民の多くは女子供、年寄りだけです」
「他の集落も同様です。若い男はやはり、隠れているようですな」
「此度の戦だけと限定するなら、小大名の柏山であっても、二、三〇〇〇程度の兵を集めることができるでしょう。普通に考えれば大林城にいると思われますが……」
大林城に進むには胆沢川を越えなければならない。新田軍はその手前、今泉で止まり、陣を張っていた。まずは後方の安全を確保しなければならない。だが砦や集落を押さえたところで、どこかに隠れられては探しようがない。戦国時代の日本は現代とは違い、野山はそのままで雑木林もいたるところにある。見渡す限りの原野で、所々に集落と田畑がある。潜む場所など幾らでもあった。
「予定通り、胆沢川を渡河する。川幅が広いため、小舟を使って順番に渡河することになる。最初に渡河した軍と、最後に残された軍がもっとも危険だ。藤六、頼むぞ」
「お任せを」
又二郎の言葉に、長門藤六広益は猛々しい武人の表情を浮かべた。
「殿、新田軍が渡河を始めました」
「いよいよか。最初に渡ったのは?」
「乱れ藤の旗印。長門広益です」
報告を聞いて柏山明吉は口端を歪めた。予想通りであった。合戦において渡河は危険である。川を渡っている間は動けず、対岸から弓矢の良い的となってしまうからだ。そのためもっとも精強な軍に先鋒として渡河させ、対岸に橋頭保を作るのが定石である。
「舟の数にも限りがある。一万二〇〇〇が一斉に渡ることなどできぬ。かといって、新田も薄々は奇襲に気づいておろう。最後まで残るとも思えぬ。半数だ。半数が渡ったら仕掛けるぞ。新田は六〇〇〇、此方は二五〇〇、勝算はある」
「殿、思い出しますな。初陣を……」
三田重明がニタリと笑い、腕を撫した。歴戦の強者が武者震いしているのである。柏山家四〇〇年の歴史の中でこれほどの危機はなく、そしてこれほど倒し甲斐のある敵もいなかった。明吉は歯ぎしりした。四肢に力が入る。まるで二〇年若返ったような気持だった。他の者たちも感化されたのか、一斉に拳を握りしめた。
「殿っ! 狼煙です!」
「よしっ! 仕掛けるぞ!」
柏山明吉、三田重明ら柏山軍は、狼煙の合図を受けて潜んでいた雑木林、集落、小屋から一斉に出撃した。狙いはただ一つ。胆沢川の東岸「水沢」にいる新田又二郎政盛の首であった。
「狙いは新田政盛の首一つ! 他は捨て置けぇっ!」
バラバラに分かれていた各隊が徐々に纏まり、水沢へと突き進む。武辺を重んじ、調練を重ね、上下関係なく皆で同じ飯を喰らい、苦楽を共にして暮らしてきた柏山だからこそできる奇襲であった。
「殿、見えましたぞ! およそ五〇〇〇、三無の旗印もありまする!」
「政盛はその旗の下にいる! 突っ込めぇぇっ!」
胆沢川を背にする新田本陣五〇〇〇に、柏山二五〇〇が三方向から突撃した。
衝撃が新田本陣を襲う。だが同時に、柏山にも反動があった。堅い壁にぶつかったような手ごたえである。さすがは新田軍、強い。だが…… 三田重明は笑みを浮かべた。確実に新田軍に突き刺さった。相手は川を背にしており、退路はない。一方のこちらは、ただ一人を討ち取れば良い。どちらが有利かは明らかである。
「進むのだぁっ! ひたすらに進めぇっ! あの旗まで進めぇぇっ!」
翻る「三無」の旗印。あの旗までもう少しだ。皆がそう思っていた。だが徐々に様子が変わる。最初は乱れていた新田軍が統率をもって動き始める。やがて重明は強い衝撃を受けた。ブンッと振られてきた槍を受け止めた時である。
「ヘヘヘッ…… どうやら強ぇ奴のようだな。手柄首だぜ!」
二〇過ぎと思われる若者が太い槍を手にしていた。厄介なと思いつつ、重明は槍を振るう。若者もそれを受け止め、突き出してくる。これほどの武辺を持ちながら、自分はその名を知らない。一体何者なのかと疑問に思ったが、一騎打ちの中でやがて考えなくなっていった。
「なぜだ……」
旗印まであと少しというところで、柏山明吉は止まっていた。予想だにしない男が、そこにいたからである。
「なぜここに、お主がいる!」
叫びながら槍を突き出す。男はそれを躱し、剛槍を振るった。柏山は辛うじてそれを受け止め、馬を下がらせた。
「明吉殿、決着をつけようか」
先陣にいたはずの長門藤六広益が、そこにいた。
「貴様……名を名乗れ!」
「ヘヘヘッ! 聞いて驚け。俺様は天下の武辺者、滝本重行様だ!」
頭上でブンブンと槍を廻しながら若者が名乗る。一騎打ちの最中だというのに重明は呆れ、そして笑った。こういう男は嫌いではない。もし出会いが違えば、手元に置いて自ら鍛えてみたいと思わせる相手であった。
「儂の名は柏山家家老、三田主計頭重明! いざ、尋常に勝負!」
互いの槍が火花を散らした。一方の柏山明吉である。予想外の相手に一瞬呆然とし、そして我に返った。
「貴様がここにいるということは、政盛は!」
「先鋒を務めていた儂がここにいる。殿がどこにいるかは自明であろう?」
「馬鹿な…… 大将自ら渡河の先鋒をきったというのか! そんな非常識な!」
認めたくないという激情のまま、明吉は槍を振った。ガンッという音と共にそれを弾き飛ばした広益は、自慢げな表情すら浮かべて現実を告げた。
「そう。我が殿は誰にも理解できぬ非常識なお方。故に、怪物と呼ばれておるのだ!」
相手を叩き伏せるような一撃であった。明吉は何とか止めたものの、体が大きく傾く。そこに再び剛槍が襲ってくる。明吉は馬から弾き飛ばされ、地面に叩き伏せられた。
「殺すな! 捕らえよ!」
明吉の周りを取り囲む兵たちに、広益は厳しい表情でそう告げた。
「強ぇな! 藤六の親爺と同じくれぇ強ぇっ!」
「若造のくせに、やりおるわ! 儂とここまで戦える者など久々だわい。だが五年早かったな」
三田重明と滝本重行の一騎打ちは、徐々に重明が優勢となっていった。重行には虚実がない。膂力のまま、ただひたすらに槍を振るっている。力任せでは、体系だった槍術には勝てない。傷だらけのまま、重行は最後の賭けに出た。
「いくぜぇ! 親爺を驚かせた(※呆れさせた)俺様の必殺大車輪撃を見せてやる!」
そう言って槍を頭上に構えた。重明は呆れた。隙だらけである。どうせグルグル廻して力任せに振るだけであろう。槍の回転が始まる。瞬間、一撃を加えようと動く。だが槍が半回転の時に変化が起きた。石突部分が自分に延びてきたのである。
「なに!」
ドンッと肩に衝撃が加わり、次いで若者が跳びかかってきた。組打ちである。二人は同時に馬から落ちた。
「親爺に破られたときから、どうするか考えてたんだよ! 槍で勝てねぇなら、力づくで抑え込んでやるぜ!」
「おのれ……」
だが卑怯とは思わない。これもまた立派な兵法である。組み伏せられ、喉元に脇差を突き付けられた重明は、槍を捨てた。
「……儂の負けだ」
柏山明吉、三田重明の両名が捕らえられたことで、水沢の合戦は決した。
対岸に陣取っていた総大将、新田又二郎政盛は、水沢の決着を聞いてフゥと息を吐いた。半分は賭けであった。もし自分が先鋒を切ることまで読まれていたら、おそらく討ち取られていただろう。そして後方に残っていても、同じように討ち取られたかもしれない。自分は運というものは信じない。だが今後もこうした「賭け」をするときはあるかもしれない。南部晴政のような強運を持った敵を相手にしたときは極力、こうした賭けは避けようと思った。
(織田信長のような化物じみた強運を持つ奴もいるからな。そういえば、桶狭間ももう終わったか。)
永禄三年卯月(五月)、日ノ本の二ヶ所であった大対小の戦は、それぞれ対照的な結末を迎えた。この戦の勝者となった両雄が激突するのは、もう少し先の話となる。いずれにしろ、桶狭間の合戦は織田家飛躍の契機となり、水沢の合戦は新田家が陸奥支配を事実上決した戦となったのであった。