うつけ
永禄三年五月二二日、新田又二郎政盛率いる一万二〇〇〇の軍は、一旦は新田領最南端の丸子館に入り、翌日には出陣し、柏山領金ヶ崎城を目指した。丸子館から金ヶ崎城は目と鼻の先だが、空気が違う。新田領の明るく、開放的な空気と比べれば、柏山領は閉鎖的に感じた。だが決して暗いわけではない。空気が少し「重い」のだ。
「やはり人が少ないな。そして百姓から向けられる、粘つくような視線。やはりここは敵地か」
南条広継は鋭い眼差しを周囲に向けた。柏山領は北上川沿いにあり、陸奥の南北を繋ぐ要衝に位置している。扇型の肥沃な土地を持ち、領民は四〇〇年間飢えることなく柏山と共に生きてきた。百姓であろうとも、人間であり感情がある。親が世話になった。子を救ってもらった。一所に並んで収穫した。縦横斜めに、そうした繋がりがある。簡単に新田に鞍替えするはずがない。まさに新田の聖地「田名部」そのものであった。
「越中殿、これは……」
「殿も気づいておられよう。ここから先はすべてが敵、眼にするものすべてが罠と心得られよ。柏山明吉、なんという民を育て上げたのだ」
下手をしたら、井戸水まで毒されているかもしれない。そんなことをすれば、本来ならば領民たちが逃げ出すか蜂起するだろう。だがここの領民は異質であった。小さな戦においては、柏山は無類の強さを発揮する。その秘密の一端を見た気がした。
やがて金ヶ崎城が見えてくる。ここまで小競り合い一つなく、不気味なほどに静かであった。精強な新田の兵といえど、戦好きというわけではない。普通の人間ならば、殺し合いなど御免である。
「兄ちゃん、戦になんなくて良かったね。このままずっと戦なければいいのにね」
とても敵地とは思えない長閑な陽気に、らんまくは呑気に空を見上げていた。だが兄のがんまくは違う。足軽一〇人組の頭へと昇進していたがんまくは、四方に目を配らせていた。あまりにも静かすぎる。その静かさが、かえって不気味だった。
「油断するなよ、らんまく。お前ぇらもだ。いずれかならず戦になる。つまらねぇことで死ぬんじゃねぇぞ」
がんまくはようやく平仮名を覚えたくらいの、無教養な元百姓であった。だが直感の鋭さと強運の二つを持っていた。新田領では真面目に働くだけで、それなりに暮らしていける。たとえ百姓であろうとも、働きは正当に認められ、取り立てられる。調練中の働きを認められ、今の立場に取り立てられた。
(さっきからずっと、粘っこい嫌な予感がするぜ。だが下手なこと言って、コイツらを不安にさせるわけにはいかねぇしな。とにかく生きて帰らねぇと……)
金ヶ崎城から半里のところで止まる。先遣隊の報告を受けた政盛らは首を傾げた。
「城門は開け放たれ、旗も昇っていないだと? 城主の三田重明は、柏山の重臣にして猛将と聞く。それが戦もせずに逃げたというのか?」
武田守信は首を傾げた。寄せ集まって合戦を仕掛けてきたところで、圧倒的に数が違うのだ。いま降伏すれば、新田でも武将として取り立てられるであろうに、勝ち目のない戦のために逃げたというのか。
守信、広継らが不思議そうにしている中、又二郎には狙いが読めた。この不気味なほどの静けさは、柏山、家臣、そして領民が一つになって仕掛けた壮大な罠なのだ。
「逃げたのではない。隠れたのだ」
「殿?」
「恐らく領民まで協力しているのだろう。集落の家々、畑にある掘立小屋などに隠れている。そして此方の隙を伺っている。この地を獲る以上、ずっと一万二〇〇〇のまま集まっているわけにはいかぬ。各方面に兵を送り本陣が手薄になったところに、隠れていた兵が四方から一斉に襲ってくる。そんな仕掛けであろうな」
「ならば集落を……というわけにもいきませぬな」
新田では略奪は厳禁である。兵が隠れているかもしれないからということで、いきなり集落を襲うようなことはしない。無論、各集落には兵を送り、調べさせる。だがこの時代、鎧や刀などはどの家にでも普通にある。兵が鎧を脱いで百姓に化けていたら、見破ることは困難であった。
「普通であれば、百姓たちもこんな協力はしない。むしろ褒美欲しさに、こちらに情報を売りにくるだろう。柏山だからできるのだ。四〇〇年、領主も領民も関係なく皆で生きてきた。集落を見回りながら、明吉自らが名付けた赤子も多くいるだろう。皆が家族だからできるのだ。これが、奥州の歴史というものか……」
皮肉なことに、奥州四〇〇年の象徴は田名部によく似ていた。田名部でも、獲れたての鯛を持ってきた漁師に、当主自らがお返しを手渡しするという光景が今でもある。街では、政盛や先々代の盛政が名付けた子供が元気に遊んでいる。又二郎は迷った。本当にこの地を攻め獲れるのか。柏山は滅ぼせるかもしれない。だがその結果、民たちが新田への憎悪に染まり従わなくなれば、土地を獲る意味がなくなる。
(この地を調伏するのは容易ではない。御爺、奥州の歴史が立ちはだかるとはこういうことか?)
本領安堵を認めるわけにはいかない。他の国人衆の手前ということもあるが、もし本領安堵を認めれば、それは政盛の目標が奥州四〇〇年の歴史に敗れることを意味するからだ。
「柏山や三田には跡継ぎがいたな。この地を明け渡して隠居すれば、代官としてこの地で生きることを認める…… その辺が落としどころか」
(その前に一戦あるだろうがな。柏山の家門は残す。この地の象徴としてな)
江戸時代から明治時代への移行期、廃藩置県によっておよそ九〇〇年続いた一所懸命の歴史は幕を下ろした。だが人の意識とはそんなに簡単に変わるものではない。封建社会で統治されていることに馴れていた民に対し、いきなり民主主義など持ち込んだところで混乱するだけである。「アラブの春」後の中東、アフリカ諸国がその例だろう。
明治新政府が優れていた点は、この現実を理解していた点にある。各地の大名をそのまま「知事」として据え置き、その象徴の下で民衆に幾度か選挙を「経験」させることで、段階的に近代国家へと移行した。もっとも現在においても、役所のことを「お上」などと呼ぶ言葉が残っており、日本国民の意識から封建制度が完全に払しょくされたわけではないが。
「殿、いずれにしろ柏山の本城を攻めるには金ヶ崎城が必要です。血を流さずに獲れることを僥倖と考え、進みましょう」
南条越中守広継の進言を受け、新田軍は進軍を再開した。
時間は少し巻き戻る。永禄三年五月一九日、桶廻間村からの進物を受けた今川軍本軍は、村からほど近い「桶狭間山」に本陣を置き、一時の休息を取った。無論、戦に馴れた今川義元が油断などするはずもなく、周囲は警戒している。だが桶狭間山は清洲城から遠く、その間に先遣させた朝比奈、松平の軍もある。戦になるとすれば、肥沃な濃尾平野に入ってからだろう。義元のみならず他の武将らもそう考えていた。
「太守様、一雨きそうです。陣幕を張りましょう」
義元が空を見上げると、ポツリと滴が落ちてきた。卯月とは思えぬほどに冷たい。義元は雨を凌ぐため、運ばせている輿の中へと入った。
「申し上げます。桶狭間山にて陣を確認しました。どうやら、今川治部大輔の本陣と思われまする!」
梁田四郎左衛門政綱の報告を受けた信長は、口端を歪めた。半ば激情のままに出陣し、せめて義元に一矢報いるとここまで来た。だが本当に義元を見つけるとは思わなかった。そして空を見上げる。小者が言っていたように、一雨きそうだった。
(いけるぞ。今川義元…… その歯黒首落としてくれる!)
熱田神宮を通り、鳴海城に入ることで、最初の五騎(あと猿一匹)は二〇〇〇にまで増えていた。ここで急襲すれば勝てる。信長は決断した。
「これより我らは今川本陣を攻める。狙うは義元の首ただ一つ! 他の首は捨て置け」
桶狭間山を目指して一気に進む。これから殺し合いなのだ。声を立てるなと言っても、足軽たちが聞くはずがない。だが信長は強運であった。近づくにつれ、雨足が強くなっていく。この雨の中なら、近くまで気づかれることはない。信長は先頭をきって、今川本陣に攻め込んだ。
桶狭間の戦いは、今川義元に油断があったという意見もあるが、武田や北条と渡りあってきた今川義元が油断などするはずがない。ではなぜ、織田信長は義元を討つことができたのか。後からなら様々な論評が出来るが、一言で言えば「どうしようもない不運に見舞われたから」であろう。
「いったい何事じゃ!」
「太守様、敵です! 織田が攻めてきました!」
「なんじゃと?」
輿の中で雨をやり過ごそうとしていた義元は、ワーワーという騒ぎで外に出た。雨の中、兵たちが騒いでいる。義元の周囲を側仕えが囲む。義元も槍を手にした。
「今川義元ぉっ! 尾張のうつけが首を貰いに来たぞぉっ!」
その声に義元は歯ぎしりした。一度も会ったことはないが、その声が織田信長本人のものであると直感した。つまり当主自ら清洲城を出て、三河に近いこの地まで攻めてきたのだ。非常識極まりなかった。
「おのれうつけめっ! 自ら攻めてくるなど狂うておるわ。たわけ者が! おおうつけが!」
混乱している中、義元の近くにまで織田兵が攻め込んでくる。側仕えたちも必死になって防戦する。
「服部小平太! うぁぁっ!」
まだ少年にも見える足軽が、一丁前に名乗りを上げて槍を突き出してくる。義元は手にしていた槍でそれを弾き飛ばした。肥えているとはいえ、幼い頃から鍛えてきたのだ。足軽程度に負けるはずもない。
「推参者めがっ」
そう言い捨てる。そこに衝撃が走った。背中になにかが突き刺さったのである。グルリと首を後ろに向けると、ギラギラとした目つきの若者が声を震わせながら叫んだ。
「も、も、毛利新介、推参!」
「お、おのれ……」
今度は前から衝撃が加わる。
「は、服部小平太ぁぁっ!」
先ほどの足軽が、自分の名前を必死に叫んでいる。ズブリと身体に異物が入ってくる。それと共に、自分の生命が失われていくのを感じた。
(そうであった。「うつけ」とは、愚か者という意味ではなく、理解できない者という意味であったな。見事じゃ……)
東海三国を領する巨人、今川治部大輔義元の最期であった。