柏山攻め
江戸時代以前の鹿角については、不明な点が多い。鎌倉幕府成立と同時に発生した「奥州合戦」の後、鹿角には四つの家が入った。成田氏、奈良氏、安保氏、秋元氏である。このうち成田、奈良、安保の三氏は同族であった。成田氏はもともと、武蔵国埼西郡(※現在の埼玉県)の郡司であった武藤家の一族であった成田助綱が、鹿角地頭として補任したときに分家というかたちで生まれたものである。この三家は婚姻関係などによって鹿角郡内での地盤を固め、同族意識を強めていった。
一方、秋元氏は平安末期の武士である宇都宮頼綱の子である泰業が、上総国周淮郡(※現在の木更津市から君津市)秋元荘を得たことから始まる。だがなぜ、秋元氏の分流が鹿角の国人となっていたのかは定かではない。
いずれにしても、鹿角郡は鎌倉時代から、成田、奈良、安保、秋元の四家およびその支流によって統治されていた。この四家を「鹿角四頭」と呼ぶ。
「靭負佐殿。大湯殿からの返答は?」
「問題ない。鹿角北部は完全に押さえている。南で騒いでいるのは花輪、大里、柴内ら安保一族だ。文字通りの阿保な奴らよ」
三戸鹿角街道の出口である大湯舘には、奈良氏系の国人である大湯昌利が入っていた。南部晴政から鹿角郡の毛馬内を与えられた毛馬内靱負佐秀範は、大湯氏とは縁を結んでいた。忠義に篤く実直な男である秀範は、新田家においても家老として三戸城を預かっている。
だが今回は、鹿角南部への侵攻ということもあり、地縁のある秀範が大将に抜擢された。さらには南部家、九戸家の若手が侍大将に抜擢されている。石川田子九郎信直と、九戸左近政実である。さらには初陣として、政実の弟である彦九郎実親も加わっていた。信直は一五歳、政実は二五歳、実親は一九歳である。
「宮内殿(※蠣崎政広のこと)に後れを取るわけにはいかんからな。新たな九戸家の巻き返しだ!」
同じ南部氏出身であっても、新田家の重臣を父親に持つ石川信直とは違い、九戸家は当主である父親を失い、家も潰れた。いわば一からのやり直しである。だが政実、実親兄弟の表情は明るい。新田家では過去は問われない。百姓であろうが奴隷であろうが、働けばそれだけ認められ、取り立てられる。
蠣崎、浪岡、石川に肩を並べる重臣、田名部吉右衛門政嘉がその代表である。苗字すらなかった男が、大大名新田家でも随一の重臣となり、新田家にとって聖地ですらある田名部の地名を与えられた。陸奥一番の出世頭と呼ばれているが、本人は極めて温厚で腰が低い。それもあいまって、主君、家中からの信頼は絶大である。
「ハッハッハッ、元気な若者たちですな。ですが、本当に先鋒をあの三人に任せるのですかな?」
南義康の明るい声に、秀範も笑みを浮かべた。まさかこうして、再び戦に出るとは思わなかった。兄であり主君であった南部晴政への未練はない。あるのは残された者たちを栄えさせ、南部家を再興するという志である。それに今の主君も悪くない。普段は大らかで気前が良く、それでいて鋭く頼もしい。新田家はいろいろと騒がしいが、居心地は悪くなかった。
「この戦は既に勝ちが見えている。ならば若者たちに経験をさせてやるべきだろう。少々痛い目に合っても構わんと、殿も仰せだ」
「なるほど。ですが痛い目に合うよりも、勝ち過ぎて調子に乗ってしまうほうが怖いですな」
「その時は儂がこの手で絞める。若者を導くのが年長者の務めというものよ。さて、はじめるか」
鍛え抜かれた新田軍一万が、ゆっくりと動き始めた。陽の光を槍が反射する。一糸乱れぬ行軍は、まるで一個の生き物のようであった。
「鹿角の平定は一月もあれば十分でしょう。兵を半分残し、小豆沢、八幡平を通って一戸に五〇〇〇が入ります。現在、高水寺城から丸子城まで、藤六殿(※長門広益のこと)が五〇〇〇で守っています。鹿角守備に五〇〇〇、三戸城から浪岡城までの守備に三〇〇〇。我らは七〇〇〇の兵を率いて高水寺城に入り、藤六殿と合流、兵一万二〇〇〇をもって柏山を攻めます」
旧南部家、九戸家の連合軍が鹿角に入ったころ、三戸城では新田又二郎政盛以下、重臣たちも加わって軍議が開かれていた。評定の間には地図が敷かれ、重臣たちが車座になって話し合う。
総兵力二万五〇〇〇。その大半が常備兵であり、百姓とは身体つきが違う。南条越中守広継の説明を聞いた家臣たちは、新田家の大きさを改めて実感した。
「越中殿、小なりといえど、柏山は戦上手で知られています。我らが負ける要因があるとすれば、それはなんでしょうか?」
武田甚三郎守信の問いは、いかにも軍師らしいものであった。新田家の軍議は常に多角的な視点が求められる。柏山の兵力はせいぜい一〇〇〇から一五〇〇。およそ一〇倍差がある。だが優勢と勝利はまったく違う。もし負けるとすれば、その原因はなにか。広継はチラリと主君に視線を向けた。
「殿が討たれること。これしかないでしょうな。柏山の所領である胆沢は、北上川沿いの扇状の土地で開けている。ここで決戦すれば負けることはないでしょう。だが本城である大林城は山中にあり、さらにその奥にも領地が広がっています。そこに逃げられたら、我らは兵を分散して追わねばなりますまい。一方、柏山は領民まで結束力が強く、地の利もある。我らの動きは筒抜けでしょう。そして兵を分散したときに、一気に本陣を突かれれば……」
皆が又二郎に視線を向ける。主君は不敵な笑みを浮かべて頷いた。確かに、一〇倍の兵力差をひっくり返した例は存在する。正確には、あと一月後に起きる。奇しくも、自分も同じ立場となった。討たれた側という意味でだが。
「殿。柏山攻めなど小さな戦です。高水寺城に居られ、戦は我らにお任せになっては……」
「甚三郎、それはダメだ。奥州全体で見たときに、この戦の意味は大きい。柏山家や三田家は、四〇〇年にわたって土地を守り、戦に勝ち続けてきた。主家も臣下も領民もなく、皆が苦楽を共にしてきた一族であり家族。柏山は、奥州武士そのものだ。新田は天下を狙っている。日ノ本そのものを変える。そのためにも、奥州武士の象徴から逃げるわけにはいかん。俺の手で、打ち砕かねばならんのだ」
ただ攻めて、土地を奪えば良いというものではない。戦そのものに意味がある。勝つだけではダメなのだ。柏山を「屈服」させてはじめて、完全な勝利となる。そのためには、新田政盛自らが出なければならない。重臣たちも、その点は理解していた。
(柏山明吉、来るなら来い。俺は今川義元とは違う。討てるものなら討ってみろ)
凄みのある笑みを浮かべる主君に、家臣たちは頼もしさを覚えた。
「やはり奇襲しかないな」
「殿、どこが宜しいと思われますか?」
柏山家大林城においても、新田軍を迎え撃つための軍議が開かれていた。南条広継の予見通り、柏山明吉は本陣への奇襲を考えていた。だがそのためには、新田軍本陣の場所を逐次、そして正確に把握しなければならない。そして奇襲しやすい場所に、本陣を置かせねばならない。そのための仕掛けが必要であった。
「領民に手伝わせましょう。新田本陣には三無の旗があります。黒地に金糸の旗です。見誤るはずがありません」
「あとは酒と食い物を貢物として領民に届けさせよう。新田は兵を大事にする。おそらく兵を休ませようとするだろう。そこを急襲する」
「新田は拙速を貴ぶという。金ヶ崎城を落とせば、勢いのまま胆沢川を越え、この城を攻めようとするだろう。だが先陣を切ってくるとは思えん。胆沢川を越えるのはおそらく最後であろう」
「胆沢川東、水沢ですな。そこで……」
「兵の数は一〇〇〇で良い。儂自ら出る。乾坤一擲の戦いとなろう。奥州武士の戦、そして死に様を見せつけてやろうぞ!」
柏山明吉の檄に、家臣たちも腹を括った。
「御頭、やはり柏山領には入れません。通り過ぎるだけで監視の目が付きます」
上忍の報告を受け、段蔵は舌打ちした。どれほどの地縁であろうとも、手を変え品を変えて入り込むのが忍びである。だが柏山領は全員が家族のようであった。領民一人ひとりが顔見知りで、異分子が入ろうものならすぐにジロジロと見られ、その情報が一瞬で広まる。領地を出るまで監視の視線は常に付きまとう。まるで忍びの里である。これほど「忍び殺し」の土地を段蔵は知らなかった。
「やむを得ん。殿にそう報告するしかあるまい。道案内は無理だとな」
新田に仕えて八年。加藤段蔵は初めて、敗北感を覚えた。