葛西家の斜陽
葛西氏の家祖「葛西清重」は奥州藤原氏の討伐後、鎌倉幕府から奥州総奉行に任じられ、石巻日和山に城を築く。奥州藤原氏の本拠地であった平泉を避けた背景としては、鎌倉幕府の支配を良しとしない、奥州の国人衆が多くいたためと考えられる。
初代藤原清衡から三代にわたって平泉を中心に奥州を支配した藤原氏の統治方法は、大和朝廷を立てつつ中央政界の政争とは無縁(中立)でいる、というものであった。
自分たちは奥州第一の有力国人であり、朝廷に任じられて奥州に下向してきた国司に協力しつつ、奥州の実質的な支配者として内政に力を入れた。その結果、奥州一七万騎といわれる強大な武力と政治的中立性を得ることが出来、事実上の独立国家として「平泉文化」という独自の文化を発展させることに成功する。
一〇〇年に渡る平穏は、源義経の登場によって破られる。奥州藤原氏第三代当主の藤原秀衡は、朝廷や平氏に奥州の砂金や物産を献上し、友好関係を構築していた。その一方で、義経を匿うことで源氏とも縁を持つなど、奥州の中立を保つために外交的均衡を図っていた。だが源頼朝、義経の対立が表面化し、奥州に逃げてきた義経を匿ったため、源氏の奥州侵攻を許してしまう。結果的には、源義経の存在が、奥州藤原氏の滅亡を招いたとも取れる。
藤原秀衡は奥州藤原氏の最盛期を築き、その統治能力は極めて高かった。また源義経は「人たらし」であり、藤原秀衡は無論、多くの奥州国人衆、鎌倉武士、果ては後白河法皇まで義経に魅せられていた。藤原秀衡は遺言で、義経を当主とし息子たちはそれを支えよとまで残している。この遺言が結果的に、頼朝の奥州侵攻を招くことになるのだが、それほどまでに義経は奥州で人気だったのは確かである。
鎌倉幕府に任じられた総奉行が、義経が死んだ平泉に本拠地を構えるなど、奥州国人たちに喧嘩を売っているようなものである。葛西清重がそう判断したかは記録が残っていないが、敢えて街道を外れた石巻に本拠地を構えたのは、そうした理由があったのではないだろうか。
葛西氏の居城である寺池館は北上川沿いにあり、本吉の朝日館からそれほど離れていない。だが登米の山を越えねばならず、進むためには松沢館から折沢川を上り、山を越える必要がある。葛西家嫡男である葛西信清は、気仙沼熊谷党の蜂起を知らされると、ただちに高水寺城に向けて使者を出した。熊谷家惣領である熊谷直則を捕縛するとともに、対新田のために出している国人衆を呼び戻さなければならない。新田の南進は脅威ではあるが、それを直接受けているのは高水寺斯波家であり、葛西家ではないのだ。
「そうか。熊谷が、起ったか……」
病床の養父(※実際には実兄にあたる)、第一六代葛西家当主の葛西石見守親信に気仙沼の蜂起を伝えると、親信は目を閉じて頷いた。
「熊谷河内守の裏切りは許せませぬ。江刺、柏山、浜田などを至急戻しまする」
「……葛西は、終わるやもしれぬな」
「父上、何を仰います。新田は所詮、南部家の分家の分家。五〇〇年にわたりこの地を治めてきた我ら葛西とは、家格が違いまする。新田に与する者などおりませぬ」
親信はフゥと息を吐いた。弟であり義理の息子でもある信清は、病弱であった自分は厳しく育てることができず、幼い頃から大葛西の「嫡男」として甘やかされてきた。苦労を知らず、人の心が解らないという欠点がある。
「熊谷は、新田の調略を受けたのだ。おそらく、二〇〇年の怨讐を晴らせとでも煽られたのであろう。葛西の危機は、熊谷にとっては好機なのだ。遠からず、ここまで攻め込んで来よう」
「二〇〇年も前の怨讐など、ただの名分に過ぎませぬ。熊谷めはこれを機に、己が土地を広げようという魂胆なのでしょう」
「違うぞ。熊谷にとって葛西は怨敵なのだ。奪った者は忘れても、奪われた者は決して忘れぬ。忘れさせるには与え、育て、奪われる前よりも遥かに豊かにするしかない。だが葛西はそれをしなかった。熊谷から奪っただけであった……」
親信は咳き込んで、話を続けた。
「良いか信清よ。熊谷と和睦するのだ。そして、国人衆の力を借りて、斯波を助けるのだ。名門の血筋も葛西の名も、もはや何の役にも立たぬ。新田という津波が、すべてを飲み込み、洗い流そうとしておる。家で争っている間に、新田が攻め込んで……」
再び咳き込む。これ以上話すのは危険と考え、信清は医師を呼んだ。
高水寺城に葛西信清からの命令が届いたのは、熊谷直則の軍が出立してから二刻後のことであった。熊谷を捕らえたのちは直ちに高水寺を引き払い、気仙沼熊谷党を討てという。葛西家国人として高水寺城に入っている江刺、柏山、浜田、大原の四家は、暗澹たる気持ちになっていた。
「御嫡男の信清様は、齢二六歳。いま少し、御経験を積まれれば……」
「齢など関係あるまい。新田又二郎政盛は齢一四ながら、立派に家を束ねておる。要は器量の問題よ。いま、我らが高水寺を離れれば、新田の南下は止められぬ。所領もすべて奪われる。気仙沼は葛西家が説得する故、ここで新田を止めよというのが筋であろうに」
柏山明吉の言葉には、遠慮は一切なかった。この時点で、もはや葛西家を見限っていた。他の三人も明吉の意見には同意するが、主命は守らねばならない。
「行かれよ。葛西家のためではなく、各々方の領地を守るために戻られよ。幸い、柏山は気仙沼から遠い。儂はこの城に留まり、斯波と共に新田を迎え撃つつもりだ」
「ですが、御手勢だけでは……」
斯波、稗貫、和賀、柏山の軍を合わせても五〇〇〇程度である。とても新田軍を止めることはできない。だが柏山明吉は不敵に笑った。
「一戦もせずに降伏するなど、武で鳴らした柏山の名折れだからの。おそらく、この高水寺城で戦うことになるだろう。折を見て打って出て、新田政盛の首を狙うつもりだ」
先の戦では、あと少しというところまで迫った。数は少なくとも、柏山軍は新田の強兵にも通じる。その手ごたえを得た明吉は、益荒男としての最後の戦に臨もうとしていた。
だが望みは叶いそうになかった。更なる凶報が高水寺に入ってきたのである。雫石城での民衆蜂起、つまり一揆であった。
「戦なんて俺らには関係ねぇっ! 新田様のところではみんな腹いっぱいに飯が食えるそうじゃねぇか。新田様に治めてもらえば、俺たちもきっと楽に暮らせるはずだ!」
鍬や鋤を持った百姓たちが気勢を上げる。この流れは一気に加速し、不来方の各地で一揆もしくは強制移動に対する民衆の抵抗が発生した。焦土作戦を実施するからには期限を提示し、それ相応の見返りを与えなければならない。だが戦国時代において、そうした例は少ない。斯波家も案の定、新田が攻めてくるからお前たちを連れて行ってやるという、上からの強制という姿勢であった。
「おのれ…… ならば民など捨て置け! 新田には井戸さえ使わせなければそれで良い!」
猪去詮義はそう吐き捨てた。熊谷をはじめとする葛西家国人衆が相次いで離れた。気仙沼の熊谷党が蜂起したため、それに備えるべく主命で戻らねばならないという。もともと連合軍であるため、高水寺斯波家としては何かを言える立場ではない。柏山が残ってくれたことだけでも幸いであった。
「申し上げます。新田軍、沼宮内城を出陣、不来方へと入りました。その数、およそ一万!」
それを聞いて雫石、猪去の両名は舌打ちした。五〇〇〇では野戦にならない。まだ高水寺城で迎え撃った方が良い。新田は得体の知れない方法で城門を破壊するが、今回もそれが通じるとは限らないし、野戦よりは戦いやすい。そう考えたのである。
「籠城では柏山の強みは半減する。儂は手勢一〇〇〇を率いて、隙を見て打って出る。おそらく新田は城門を破壊し、中に突入してくるであろう。新田本陣も手薄になる。その隙を狙う」
針穴に糸を通すような小さな可能性だが、それ以外に逆転の方法を見いだせなかった。絶望的な戦。だからこそ、武人である柏山明吉は滾っていた。