気仙沼蜂起
言わずもがなのことではあるが、戦国時代における「陸奥」は広大な領域である。室町幕府の役職の一つである「奥州探題」の統括範囲は、北は下北半島から南は岩代・磐城まで、現代地理で語るならば青森県、岩手県、宮城県、福島県の四県がすべて収まる。奥州管領職であった斯波家兼の孫である大崎詮持以降、大崎氏が奥州探題職を世襲してきた。だが奥州は国人衆の力が強く、探題職による支配統制は困難であった。各有力国人は、自分の所領を「領国化」し、大崎氏の力は徐々に衰える。
大永一一年(一五一四年)、伊達稙宗が陸奥守護職に任じられたことにより、大崎氏が世襲してきた奥州探題制は事実上終焉した。だが室町幕府の制度として形だけは存在しており、弘治元年(一五五五年)には伊達晴宗が奥州探題に任じられている。だがこのこの頃には、陸奥国は様々な大名、国人に分裂し、互いに領地を争うようになっていた。
葛西氏は、領地の広さという点では陸奥の大名の中では南部氏に次ぐ大身であったが、三陸沿岸(※現在の陸前高田、気仙沼、南三陸、石巻)および南陸奥の一部(※現在の宮城県北部)であった。鎌倉幕府から続く歴史の中で、幾つかの国人衆が集散離合し、また従属国人同士の争いなどにより、徐々にその力は衰えていた。
だが又二郎が生きる永禄二年時点においては、葛西氏は陸奥において大きな存在となっている。奇しくも新田家の躍進が陸奥の大名たちを結束させ、戦による疲弊を抑えたのである。
「かつて、我ら熊谷党は本吉を領する大名であった。だが、熊谷直明公が亡くなった後、葛西に臣従せざるを得なくなり、熊谷は所領の半分を失った。正々堂々、戦においての負けであれば、まだ諦めもつく。だが葛西はあろうことか、背信によって我らを攻めたのだ。北畠顕家公の信頼を裏切り、共に京まで攻め上った味方の所領を攻め奪うなど、野盗山賊以下の卑劣ではないか! 二〇〇年、我ら熊谷党は葛西に使われ続けた。いつの日か再び、本吉の地を取り戻すと、歯を食いしばってきた。その好機が訪れたのだ。遥か宇曽利から、葛西を超える力が南下している。我らは新田と手を組み、二〇〇年の怨讐を晴らす。本吉の地を、再び我らの手に取り戻すのだ!」
熊谷河内守直正の檄文の効果は大きかった。気仙沼一帯に広がる「熊谷」の姓を持つ者は、何かしら熊谷党と関係がある。現在においても、旧気仙沼市においては五軒に一軒は熊谷姓と言われるほど、熊谷は気仙沼に根付いている。小さな集落の長から帰農した者まで、直正がいる気仙沼館には熊谷の者たちが続々と集まり、その数は一〇〇〇を超えた。だが兵糧に問題があった。戦では乱取りが付きものだが、本領回復を大義とする以上、略奪をするわけにもいかない。蜂起したところで兵糧が続かなければ、簡単に潰されてしまう。
しかしそこは、新田が支えた。八戸湊を出た一〇〇〇石船三隻が、大量の兵糧と武器を運び込んだのである。それらは金崎屋善衛門が、安東家から安く買い叩いたり、あるいは刀狩で得たりしたものであった。
「必要あればこの金崎屋、幾らでも兵糧をお運びいたしますぞ? 気仙沼は良き湊、どうぞこれからも御贔屓に……」
大量の兵糧と武器が湊に山積みされる。これで士気が上がらぬはずがない。
「我ら熊谷の始祖、次郎直実公も見ておられよう。四〇〇年前の本吉荘の地を、我らは再び回復する! 出陣じゃぁっ!」
本吉(※現在の南三陸町)の朝日館を目指し、一〇〇〇の熊谷が出陣した。
気仙沼熊谷党の蜂起。熊谷河内守直正の檄文と共にこの報せが高水寺城に届いたとき、熊谷惣領である熊谷直則は揺れた。何を勝手なことをと思いつつも、良くぞやったという気持ちは否定できなかった。幸いなことに、葛西家当主である葛西石見守と実弟であり嫡男でもある葛西信清(※葛西晴信のこと)は、本城がある石巻から動いていない。現当主は病弱で床に伏せており、新田との野戦で嫡男を出すわけにもいかず、葛西からは有力国人しか参加していないのだ。つまり皆、対等の立場ということになる。
「これは…… この状況で蜂起など、偶然のはずがない。新田の調略とみて間違いなかろう」
「然り。気仙沼から朝日館は、海沿いを進めば大きな国人はいない。そして朝日館から石巻までの各城、各館は殆どが空だ。新田を相手にしている間に、我らの所領は熊谷の…… いや、新田の手に落ちる」
葛西家国人衆だけで話し合う。蜂起はあくまでも葛西家内部の事情である。斯波、稗貫、和賀などの他家が口を挟むものではない。だがその影響は大きい。ここで葛西家が退けば、新田との野戦は不可能になる。高水寺で籠城するしかなくなってしまうのだ。
そしてもう一つの問題がある。高水寺にいる熊谷直則は、新田の調略を受けているのか? という疑念であった。
「儂のところには、新田の調略は来ておらぬ。いや…… 河内守殿のこの檄文が、新田から儂に向けての調略なのであろうな」
もし自分が惣領ではなく、また気仙沼にいたとしたら、この檄文に応じたかもしれない。新田との戦いは先が見えない。このままいけば、熊谷は使い潰されるだろう。ならばいっそ、葛西に一泡吹かせてやりたい。その気持ちは自分にもよく解った。
「熊谷殿。申し訳ないが貴殿を信用することはできぬ。だが葛西に仕える国人として、一つだけお聞きしたい。御本懐であるか?」
柏山明吉の言葉に、熊谷直則は否定も肯定もしなかった。だが口元には微かな笑みが浮かんでいる。明吉はそれを見て頷いた。
「急ぎ戻られよ。貴殿は熊谷の惣領ではないか。このままこの城に留まれば、我らには貴殿を捕らえよとの命が届こう。急ぎ戻り、本懐を遂げられよ!」
熊谷直則は両手を床について深々と頭を下げ、そして立ち上がった。晴れやかな顔であった。
沼宮内城の評定の間に加藤段蔵が現れていた。又二郎が当主として座り、南条、武田、下国、蠣崎らが並んでいる中、段蔵が報告する。
「動いたか?」
「ハッ! 熊谷河内守直正殿、蜂起致しました。その数およそ一〇〇〇。手筈通り、兵糧と武器を送ったため、その士気は天を衝くほどでございます」
「クックックッ! 家臣は使うもの。だが使うからには報いねばならぬ。御恩と奉公は、鎌倉も今も変わらぬ。だが葛西は熊谷の使い方を誤ったのだ。俺も他山の石とせねばな」
「殿の場合はむしろ、御恩が大きすぎると思いまするが?」
南条広継が笑いながら冗談を言う。又二郎も笑うが、内心は別だ。企業経営ではないのだ。家臣たちは土地を捨て、命を懸けて新田に仕えている。ただ俸禄を釣り上げるだけではダメなのだ。「世のため、人のために正しいことをやっている」という誇りを家臣たちに持たせねばならない。それが仕事のやりがいに繋がり、離職を防ぐことにもなる。社員を導くことこそ、社長である自分の仕事なのだ。
「殿、それともう一つ。雫石城から不来方まで、各集落で人が動いておりまする。どうやら高水寺は、強制的に民を移動させ、井戸を破却しているようでございます」
「……どこの誰だ? そんな馬鹿げたことを考えたのは。下手したら一揆が起きるぞ」
又二郎はそう呟いたが、戦国時代の大名や国人衆にとって、民というのはその程度の存在である。北条家の「民を大事にする政事」が美談として残るということは、逆をいえばそれほどまでに、民衆を雑に扱うのが常識化されていたのである。
「渋々、したがっている者も多くいる様子。九十九衆では既に、歩き巫女を多く、入れております」
「クククッ…… 悪い男よな、段蔵。俺が何を考えるのか、察していたわけか?」
「諜報、調略、扇動は忍びがもっとも得意とするところでござれば……」
段蔵の眼がスッと細くなる。特段、口元などは変わっていないが、愉快なのだ。感情をあからさまに出すような忍びなどいない。
「殿、それは……」
二人の会話に付いていけないのか、蠣崎宮内政広は首を傾げた。だが南条広継ら重臣たちは、段蔵の言葉で理解している。民は決して灰ではない。火を付ければ燃えるのだ。そして今、火種が転がっている。あとはちょっとだけ「煽って」やれば良いのだ。
又二郎は咳払いして、表情を引き締めた。
「まったくケシカラン! 民を無理やり移動させ、あまつさえ暮らしで最も重要な井戸を壊すなど、許されることではない! 段蔵、新田が怒っている。新田ではそのようなバカげたことはしないと触れ回れ。新田が治めれば、皆は安心して、豊かに幸せに暮らせる。新田のほうが良くないか、とな」
「畏まりました」
段蔵は表情を緩めることなく一礼した。代わりに広継らが、顔を背けて笑いを堪えていた。